玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

「現代人の悟り」-(2) 解脱とは

2013-04-21 19:26:37 | 日本人の悟り

 当然のことでありますが、「悟りを開く- 解脱する」とはどういうことを確認しておかなければならない。

 まず、解脱という語の意味から考えてみましょう。原語は、サンスクリット語、vimoksa(ヴィモークシヤ)あるいはvimukiti(ヴィムクティ)である。いずれも、語根 vi-√mucから転化したもので、「解放されること」「解き放たれること」という意味である。つまり、煩悩の束縛から解放されること、あるいは、迷いの世界からの離脱である。(但し梵語の英語表記はフォントが無いため正確ではない)

 釈尊(俗名 Gotama ゴータマ)は解脱を実現してブッダ(Buddha 目覚めたひと)になった。印度の小国の王子として生まれ、何不自由ない生活をしていたが、生存そのものの悩みにとりつかれ、
 「私は自らうまれるものとなって、生まれるものにおいて患いを知り、不生なる無上安穏の涅槃をもとめよう。自ら老いるものとなって、老いるものにおいて患いを知り、不老なる無上安穏の涅槃を求めよう。自ら病むものとなって、病むものにおいて患いを知り、不病なる無上安穏の涅槃を求めよう。・・・」
といって出家する。

 釈尊は著名な宗教者に弟子入りし、師とおなじ境地に達するも、これは釈尊が求める涅槃ではないとして、自ら修行をはじめる。さまざまな難行苦行をつぎつに敢行しても涅槃への道は開けなかった。しかし、不退の精進と忘念しない念により、涅槃を求めて努力をし続けた。長年の難行苦行では涅槃は開けないと訣別し、樹の蔭に坐って禅定をつづけた。

 どれだけの歳月が過ぎたのかは分からない。連日連夜の禅定の後、開悟する。大爆発、木端微塵、茫然自失・・やがて時を経て歓喜の焔が腹の底からムクムクと噴き出すし、体全体を覆い尽くす・・・。ようやく激動が静まって、坐禅のままの姿で、ブッダの口をついて出た、最初の一節があり、それをウダーナ ud-ana(偈)という。それは夕方・夜中・明け方と三偈あり、これこそが釈尊の解脱にかかわる最大重要な意味をもつもので、開悟とは何かを示しているものである。1)


参照
1)「悟りと解脱」-〔宗教と科学の真理について〕-、玉城康四郎著、法蔵館