玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

「現代人の悟り」-(3) 禅定とは

2013-04-22 23:37:19 | 日本人の悟り

 釈尊が初めに弟子入りしたのはAl-ara K-al-ama で、師とおなじ境地-無所有処(なにもないという境地)に達した。次にUddaka R-amaputtaに師事し悲想非非想処(想うのでもなく想わないでもないとう境地)に至ったが、求める涅槃ではないと、自ら肉体を責める難行苦行をことごとく試す修行をするものの弱体化するだけでまったく涅槃の道とはほど遠いものであった。そして、かつて父王の儀式に伴うていた際、彼ひとり樹の蔭に坐って禅定に専念したときの意識を思いだし、これこそ悟りへの道ではないかと思うのである。その意識とは、入出息念定で、入る息、出る息に心を集中していく禅定である。
この禅定をつづけ、釈尊は解脱するのである。この禅定は、日本の禅宗の坐禅とは異なることに注意しなければならない。

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 禅定の語源は、サンスクリット語のdhyana(ドフャーナ)、パーリ語のjhana(ジュハーナ)で、瞑想、黙想の意味で、漢訳されるとき aが落ちてjhanから禅と音訳され、意訳として定が付加され、禅定となった。なぜ、定がjhanaの意訳になったのかは、玉城先生によると、中国古典の四書の大学のはじめの一節、

大學之道、在明明徳、在親民、在止於至善。知止而后有定、定而后能靜、靜而后能安、安而后能慮、慮而后能得。物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。

からではないかということである。意味は、

「大学の道は、明徳を明らかにするにあり。民に親しむにあり、至善に止まるにあり、止まるを知りて后に定まることあり、定まりて后に能く静(しずか)なり。静にして后に能く安し。安くして后に能く慮る。慮りて后に能く得。物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば、則ち道に近し」

 わたしたちに本来そなわっている明徳を体得してみると、それが究極の善であると知られてくる。その善に安らっていると、身心ぜんたいが安定して静かになり、良く思慮できるようになり、物事の全体が見えてくる。すなわち「身心全体で思慮する」ということである。

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禅は音訳でそれ自体に意味は無い。坐禅の本来の意味は、「坐し、身心全体で思惟する」ことである。

インド思想一般では、禅定のことをヨーガ(yoga)と呼んでいるが、しかし禅定とヨーガは意味領域が異なっている。ヨーガとは結合の意味であり、実修、実践、修練、方法、道、身心統一というような、きわめて広い意味に用いられている。ヨーガは、人間精神の禅領域にかかわるといってよい。智慧のヨーガ、信愛のヨーガ、実践のヨーガ、ラージャ(王の意味)ヨーガなどがある。仏教の禅定は、狭い意味のヨーガ、ラージャ・ヨーガに相当するといわれる。



参照
1)「悟りと解脱」-〔宗教と科学の真理について〕-、玉城康四郎著、法蔵館
2)「永遠の世界観 華厳経」 玉城康四郎著、筑摩書房