玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

日本人の悟り・・(1)

2013-04-20 19:30:41 | 日本人の悟り

 誰でも、必ず死を迎える。ほとんどの方は代々家の伝統に従って、戒名を買って、つらつらと御経をあげてもらって成佛したことにして人生に区切りをつけるのが一般的な今日です。が・・、これだけ情報通信技術が進歩し、求めようと思えば、仏陀がどのように悟りを開き、仏教がどのように広く世界に受け入れられて、宗派の違いはあれども、自らが共感する仏法にしたがって悟りを開き、成佛することが現代ではできるわけで、そのためのひとつとして、私たちの先輩が開悟し、その悟りを書に残してくださっていますので、それを辿り、どうしたらブッダの悟りを日々の生活にとりいれ生きた悟りを実現できるか・・生きている間に成佛しましょうというのがこのシリーズの趣旨でございます。

 社会を変えましょ、とか、いっても一人ひとりの国民がつくっている国ですから、一人が変わることでしか日本はかわりません。

 そのためには、人間と何か? どう生きるか? といった基本的な問題を自覚し、自らの考え信ずるものにしたがって生きるということ、死を迎えてうろたえることなく成佛できるために何が大切なのか、先輩の悟りを参考に一緒に考えてみまたいと思います。

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 これまでに、ブッダの教えに開悟した菩薩が、どれだけいるでしょうか。

 菩薩、仏の一覧

 日本だけで、難行苦行で何千、何万人、開悟した修行者がいらっしゃることでしょう。

 通俗的な意味で開悟したと思い込んで商売をはじめた方も含めると何百万人もいるのか想像もできません。

 ここは、まじめに60年以上の坐禅をとおしてブッダの開悟したさまを自らの肉体で追体験した先輩の

 悟りの様をみてみましょう。

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  ところが、七十八歳の年も暮れようとする頃であった。不図(ふと)、気づいてみたら、求め心がポトリと脱落していたのである。どうしてそうなったのか、それはまことに偶然という外はない。そのとき以来、入定ごとに如来は自然に顕わになり、浸透し、通徹しつづけた。そして、どこまでも深く通徹して息(や)むことがなかった。
 かくして三、四年経った頃、八十三歳の誕生日を迎える約一カ月前、突然、如来の通徹する方向が逆になったのである。これまで通徹し続けていた如来、すなわちダンマが、向きを変えて、私の全人格体から限りなき大空間に向かって放散されるようになった。そしてこの状況はその後変わることはない。つまり、ブッダの禅定がそのまま私の禅定として定着したのである。

 玉城康四郎(仏教学者で多くの仏教に関する著作を残した。東大教授・1915-1999)の開悟の様である。ブッダが菩提樹下で開悟した様と規模はちがうが、同じ悟りの追体験にちがいないという。1)

ブッダの悟りを弟子が表したお経とはちがう、開悟とは何かを実体験で教えている。

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近代日本の優れた哲学者・数学者・仏教学者、おもに年代順に鈴木大拙、岡潔、井筒俊彦、玉城康四郎の著作を中心に、近代日本の悟りから、いのちとは、人間とは、悟りとは何かについて述べます。


参照
1)「悟りと解脱」-〔宗教と科学の真理について〕、玉城康四郎著、法蔵館



傾聴すること

2013-04-06 17:01:38 | 左様出尾蛇瑠
京都ノートルダム女子大学 生活福祉文化学部の村田久行教授がTVの対談でおもしろいお話をされていた。

先生がはじめた「傾聴ボランティア」に関連してのもので、人の話を聴くことの意義についてであった。

オーストラリアのホスピスで、聴くという字の旧漢字「聽」というそこで使って「話を聴くことの重要さ」を説明されたというもの。

聴くという漢字の耳が行にんべんになると「徳」、さらに耳へんに口に王で「聖」。

聴と徳と聖は同じ語源に属するもので、「聖なる声を聴くことができる人が徳のある人である」と白川静先生が書いていると紹介された。

なるほど、漢字は意味深い。

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さて、聖なる声・・、敬愛する両先生のお話はいかがでござる?

安倍総理よ、もっと大胆にもっと細心に-Abe-nomixに可能性はあるか

なかなか意味深い。

聴くこと。