音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

教会の鐘の練習用

2023-12-21 21:00:00 | 楽器
書いた投稿がなぜか下書き保存されていなかったので、急遽書きました。
本当に残念😭

子育てサロンのクリスマス、12日に無事開催しました。

「パディヌリ」「ガボット」「間奏曲」など演奏を聴いてもらったり、絵本に音楽をつけたり、

みんなでメロディベルで「きよしこの夜」
カスタネットや鈴、タンバリンで「あわてんぼうのサンタクロース」の合奏したり
パラディスの「シシリエンヌ」をバックにオーガンジーのパラバルーン


サンタさんもきました!

楽しんでもらえたかな?
メロディベルは、ハンドベルの一種の楽器ですが、おもちゃではなく23音あって残響も残っていい音がします。

10年以上前に、コミュニティで買ってもらいました。

メロディベルは商標名らしいです。

ハンドベルは17世紀にイギリスで生まれた楽器です。
教会の鐘を鳴らす練習のために開発されたそうです。
複数人でベルをもって、合奏します。






問題の箇所

2023-12-20 21:02:00 | 近代
ハーブの西原こうりゅうさんが合わせに来てくれました。

1月14日塚口t-raumでハープとのアンサンブルコンサートで、パラディスの「シシリエンヌ」を一緒に、演奏します。

西原さんは今年卒業したばかりですが、1月にオーケストラと共演するそうです。
前途有望です。
曲は「ダフニスとクロエ」ラヴェルの名作。
「きれいですが、フルートは難曲ですよ。」というと
「それがアマオケなのですが、直前でフルートの方が退団されて…パントマイムは省かれてしまったのです。」
「ええ〜!そんなことあるのてすね。」
「難しいけれど、フルートとの共演、楽しみにしていたのですが…。」
「それは残念でしたね。」

ともかく私たちは「シシリエンヌ」を集中して片付けました。

モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国シプール生まれ、フランス共和国パリ没
1909-1912年作曲した「ダフニスとクロエ」はバレエ リュスによって初演されました。

セルゲイ ディアギレフ(1872-1929年)ロシア帝国ベルミ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没



の依頼によって作曲されました。

ロンゴス(ギリシャ 2.3世紀の小説家)

ロンゴス
の恋愛小説をもとに書かれました。

ミハイル フォーキン(1880-1942年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、アメリカ合衆国没

ダフニスに扮したフォーキン
がロシア帝室バレエを想定して台本と振付けをしました。

遅筆のラヴェルせいで2度の延期の末、バレエリュスで初演されました。物議を醸していましたが、同じシーズンに「牧神の午後への前奏曲」が上演されると、その先進性に押されて影に隠れてしまいました。

1929年バレエリュスが解散し、フォーキンのパリ・オペラ座バレエ団への移籍によりそこのレパートリーになりました。

1場
牧草地の春の日の午後。若い牧人たちが供物をもってニンフの祭壇に集まっていました。

ダフニスはクロエに横恋慕する牛飼いのドルコンと対立し、クロエの口づけをかけて舞踏の腕前を競い合います。

ダフニスが勝者となり、ドルコンは皆の笑い者となります。
そこに突如、海賊が襲来します。
クロエは海賊に誘拐され、ダフニスは絶望のあまり倒れます。
そこに3人のニンフが現れると、彼を蘇生させてパン神に祈らせます。

第2場
海賊の夜営地では略奪に成功した海賊たちが宴を催しています。
海賊の首領ブリュアクシスは捕虜となったクロエに踊りを強要します。
クロエは踊りつつ脱出の機を窺いますが、できません。

ついにクロエはブリュアクシスに襲われそうになります。
しかしそこにパン神の巨大な幻影が出現して海賊を脅すと、海賊たちはたちまち退散してしまいます。

第3場
牧草地の夜明けの情景が描かれます。再会を喜び合うダフニスとクロエ。
そこに現れた山羊飼いのラモンが、「パン神が自身のかつてのシリンクスに対する愛の思い出故えにクロエを救い出したのだ」と教えます。

2人はパン神とシリンクスの物語をパントマイムで再現し、神に感謝します。牧人たちが集まり「全員の踊り」が踊られ大団円となります。

ダフニスとクロエ「パントマイム」のフルート部分管弦楽組曲版



香辛料の富

2023-12-19 21:17:00 | ロマン派
夫の作ったカレー。翌日。
脚が痛いだろうと、多めに製作してくれました。
お昼は温めるだけ。
感謝です。

空気でふくらませるベッドは、次男が買ってきてくれました。
地べたに寝ると起きるのが大変なので。

ハードオフで800円。
元値は12000円。助かります。

月曜の夜診断に行ったら、「ズレてないのでギプスは外しましょう。」
「運動は?」
「駄目です。」
「結構行くところがあって」
「やめときましょう。骨折ですからね。今月末にまた来て下さい。」
「はい。」
ギプスが無くなっただけでも良しとしよう。

香辛料は、紀元前3000年インドで黒胡椒

や、グローブ 


が使われていたのが始まりとされています。

その後、ターメリック、シナモン、ジンジャー、カルダモンなど


が使用されるようになりました。

中国では紀元前2500年前に神事で香酒、香飯が使われています。

紀元前の古代エジプト


でも、スリランカ産のシナモン


が運輸され王様に献上品として届けられたり、オリエントの産品として
『Kinnamomon-』(インドもしくはマレー半島からもたらされた香辛料)という植物産品が存在し、多くのスパイスが利用されていた記録が残っています。(ヘロドトスの「歴史」)

オクシュリンコス・パピルス 2099から発見された『歴史』8巻断片。2世紀初頭に記されたものとされる

やがて、エジプトだけでなくヨーロッパ各地に知られる香辛料の種類も増え、紀元1世紀頃には海、陸のシルクロードを経てヨーロッパに香辛料が流入し始めました。この時代のスパイスは今のように原料や原産地が遠く、貴重で高価なものとして取引されていました。

さらに時は進み、時代が大きく変化するローマ帝国消滅やイスラム勢力隆盛、十字軍の遠征など、ヨーロッパ内外・東西の交流が困難になっていく要素が重なり、中世ヨーロッパでは香辛料は大変貴重で珍しいものとなっていきました。この貴重な香辛料を多量に使えることが貴族達の富のステータスを誇示する象徴となっています。
 
造船技術や天文学などの科学技術の発達によって長期の航海が可能となったとき、大航海時代の幕が開けます。

ニーニャ号、ピンタ号及びサンタ・マリア号の復元船

ヨーロッパ人は大挙して新大陸やアジアに進出し、植民地化や、現地住民に対する略奪、虐殺、強制を伴ったキリスト教への改宗を実行していきました。

このように、当初は東側に向けて香辛料を求める進出が続きましたが、貿易の主導権の争いは熾烈なものとなっていったため、一部の人たちは西側にも目を向けるようになります。

クリストファー・コロンブス


もその一人で、1492年にスペインから西に出帆しました。
彼は香辛料の主産地であるインドやインドネシアには到達できませんでしたが、アメリカ大陸に到達し、その存在をヨーロッパ人に知らしめました。

新大陸には期待された香辛料は無かったのですが、新しいタイプのトウガラシやバニラがあり、すぐにヨーロッパに受け入れられました。

17世紀に入ると、オランダがアジアに進出してポルトガルと争い、モルッカ諸島やスマトラ島を直接支配下に置き、そこの香辛料を取引しました。

このスパイスのもたらした、大きな富がヨーロッパに資金に余裕のある階層を生み出し、それとともに音楽を生み出す土壌を作りました。

フェリックス メンデルスゾーン(1809-1847年)自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

1839年の肖像
が、1841年から2年過ごしたベルリン。
そこの居酒屋でよく出されていた

ブーレッテン(ベルリン風ハンバーグ)
牛と豚の挽き肉にパン粉と、玉ねぎのみじん切りを混ぜて、卵、そして
スパイス
胡椒(インド)、
ナツメグ(インドネシアモルッカ諸島)、
マジョラム(地中海から中央アジア原産)
を混ぜて捏ねて、焼いたもの

世界からやってくる香辛料の恵みをメンデルスゾーンも味わっていたのではないでしょうか?

ベルリン時代に作曲した曲
「厳格な変奏曲ニ短調」op54


世界で上演され続けている曲

2023-12-18 21:01:00 | 古典
藪先や暮れ行くとしの烏瓜
           一茶


先週行った里山の画像ばかりで申し訳ありません。

烏瓜カラスウリは、秋から年末にかけての季語だそうです。

「食べられるの?」
と聞くと次男が人気YouTuber の名前を上げて
「〇〇さんが食べてた。」
野生生活をしていて「なんでも食べてる。」そう。
「この前はミシシッピアカミミガメ食べてた。うまいらしい。」
その人の影響か…この前の亀の卵実食実験は!
聞いてみるとヌートリアも食べてたらしい。特定外来生物は捕まえたら放してはいけないそうです。

みかけたら大阪市自然史博物館に連絡してほしいそうです。調査研究されています。

ヨーロッパにも日本の生物が入り込んで、特定外来生物になっているそうです。
ゴマダラカミキリ、マメコガネ、アゲハ、ホンドタヌキ、ニホンジカ、クロヨシノボリ、葛、イタドリ、ワカメなどなど…。

世界はもう良くも悪しくもつながっているのですね。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没


オラトリオ「メサイア」は1741年8月
22日から9月14日、259ページ(自筆譜)、上演時間2時間半の作品を、ヘンデルはわすが24日で書き上げました。

「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。
1741年9月6日の日付を記す。

宗教的内容を劇場で上演することにタブーがあった時期に初演されました。

フラ・アンジェリコ 聖母の戴冠
そのため1945年2回上演した後はしばらく上演されませんでした。

1750年ロンドンの捨子養育園で慈善演奏会を開くようになり再演したところ人気が出るようになり、コヴェント・ガーデン
コヴェント・ガーデン ロイヤル・オペラ・ハウス
でも演奏され、以来毎年演奏されるようになりました。

1784年513人の大編成でウェストミンスター寺院


で上演。以来人は増え続けます。
1857年第一回万国博覧会のために建てられた水晶宮


1851年水晶宮
でヘンデルフェスティバルが開かれ500人のオーケストラ、2000人の合唱団により上演。

大編成の上演が続くようになり、1883年には4000人が合唱に加わりました。

海外では、1772年にドイツ ハンブルクで演奏されました。
1770年からはアメリカ合衆国でも演奏されるようになりました。

原曲に反し、管楽器が付け加えられたものが演奏され、抜粋演奏が続きました。

1818年アメリカ合衆国において、クリスマス イブに全曲演奏が行われます。

おそらくこれが、日本で「メサイア」を年末で演奏されるようになった走りだと思われます。

1873年フランスでも全曲演奏が行われました。

「メサイア」は作曲以来、世界で連続して演奏され続けられている音楽の1つです。

枚方市でも生徒さんの1人がコロナ前までは毎年地元合唱団に応募、地元オーケストラでの「メサイア」上演に参加されていました。
そのせいで年末は「メサイア」を聞かないと(「ハレルヤ!」を歌わないと!)収まりません。

第二幕の終わりで「ハレルヤ」が演奏されますが、全幕上演後、観客も立ち上がって一緒に歌うのが最近の慣例となっています。

みなさんもぜひ、みなさんの地元合唱、交響楽団の「メサイア」を聞きに行って、「ハレルヤ!」を歌ってみてはいかがですか?

これはイギリスロイヤル・アルバート・ホールの上演ですが、初めにざわざわしているのは観客席でみんな立ち上がっているからです。










準備と敬愛、休養と運動と食事

2023-12-17 21:25:00 | 指揮者
土曜の朝は実家で、レッスン。
夜、久しぶりに雨が降っていましたが、朝になるとすっかり上がっていました。
脚はギプスのままなので、夫に送ってもらいました。


雨粒がきれい。

夏中花を咲かせなかった小菊がたくさん咲いて、テーブルの花活けに。
母がいて、「脚」をみせてと言ってきました。
ショッピングモールの駐車場で骨折した後、痛い脚で車を運転して、母を実家に送って、それから整形外科に駆け込んだのでした。

以来、会ってませんでした。
「こんな感じ。」
「なんやこれ?ギプスゆるゆる。歩けるの?」
…って、一昨年母が骨折した時は膝にボルトを入れる大手術。
当然しばらく歩けませんでした。
1年後にはボルトを外すためにまた手術。大変でした。

私のは、よくわかりませんがレントゲンではわからないくらいだし、ズレてないと、先生は言ってたし。たぶんまだマシ…と思いたい。

12月1日にやって16日、思うように動けないし、周りに迷惑をかけるし…もううんざり。

コンサートも1つは見送り。これ以上は困ります。

そもそもいつ治るのか?月曜に診察に行ったら聞いてくるつもりです。

ヘルベルト ブロムシュテットHerbert Blomstedt(1927-)



アメリカ合衆国マサチューセッツ州スプリングフィールド生まれ、
スウェーデン人の両親の元うまれます。
父は牧師、母はピアノ教師。
2歳の時に一家でスウェーデンに帰国。5歳でフィンランドに移り5年過ごしたあと、スウェーデンに戻ります。
ピアノとヴァイオリンを学び、ストックホルム音大で学び、ジュリアード音楽学校、後にバークシャー音楽センターで、レナード バーンスタイン 
に学びます。

それからは賞を受賞し、世界中の交響楽団を指揮し、今も現役で活躍されています。

そのブロムシュテットが転倒して12月14日15日の公演がキャンセルされました。1日も早いご回復をお祈り申し上げます。

そのブロムシュテットの言葉です。

私は基本的に2つの理念を持っています。

1つめは可能な限り周到な準備をすることです。そのために何週間も何ヶ月も、場合によっては何年も熱心に勉強する必要があります。

私は初回のリハーサルまでに楽譜をすべて頭に入れています。

それは私の音楽への敬愛、そして作曲家の方々と熟練したオーケストラ楽員の方々に対して私が抱く尊敬の念からです。

2つめは肉体的、精神的に最良の状態に維持することです。

つまり良き食習慣を維持し、有害なものは避ける。十分に体を休め、十分な運動をする。そうすることで、目の前にある仕事に集中することができます。

これが私の基本的手段なのです。(2021年N響アワー) 

ベートーヴェン 歌劇「レオノーレ」序曲





聴き比べ、フルトヴェングラー

2023-12-16 21:01:00 | 指揮者
酒屋神社のうらの池の木に、小さな鳥たちが…。

スマホの最高倍率で撮っても、こんな感じ。
それを拡大したら、
「なんだろう?」次男が言うから
「たぶん、エナガ。」と私。

一番よく撮れたのが拡大して

これ。
スズメより小さい。メジロよりもちいさいかな。かわいい!

Lensで検索したらちゃんとエナガてした。
景色も美しいけれど、やっぱり生命あるものを追いかけてしまいますね。

しばらく、夫と次男3人で撮影大会になっていました。

野鳥は年中いるけれど、寒くなって餌が山に少なくなってくると、人目につく所に出てきます。

カワセミやサギ、鵜もいましたが、彼らは魚をとるので、池の中〜奥の方にいて間抜けな人間には近づけません。


たぶん池の上に泡のように映っているどれかが鵜です。

こちらは鷺。
カワセミは気づいたら、とこかへ飛んで行っちゃった。

最近は人の手が入る里山が、過疎化で担い手が減って、直接熊が街に出てくるとか…。

フロムは、「愛」は、それぞれにあった適切な配慮。と言ってたけど、それからすると直接的な侵略は暴力だとみんなが気付けるけれど、「放任」が暴力とはなかなか気付けない。

すべての暴力は無くせないけれど、「放任」が減れば傷は小さくなる。

被害者も加害者も出さないためには、小さな被害の時に「そんなことするなんておかしいよ。」
と、相手を仲間に入れたままで伝えること。

ヴィルヘルム フルトヴェングラー(1886-1954年)ドイツ帝国ベルリン生まれ、西ドイツバーデン=バーデン没

はパウル ヒンデミット(1895-1965年)ドイツ帝国ハーナウ生まれ、西ドイツフランクフルト没

がナチスに「堕落の旗手」「無調の騒音作家」と糾弾された時、彼の隣に立ってヒンデミットを擁護しました。

そしてベルリン・フィルや、ベルリン国立歌劇場も彼らの側に立ち上がりました。

新聞社は一斉に2人を糾弾し、
フルトヴェングラーは職を追われ、ヒンデミットはトルコに逃れ、
歌劇場指揮のクライバーは亡命しました。

が、結局フルトヴェングラーの名声にゲッベルスが歩み寄り、復職しました。

国際社会はフルトヴェングラーの敗北と見た人もいましたが、実際は、ナチスへの従順を拒否し、ユダヤ人の亡命を助けたりしたので、末期にはゲシュタポに命を狙われ、1945年スイスに亡命することになりました。

そんな昔の話し、関係ない?
フルトヴェングラーは特別な人だから…そうかな?

1942,4.19ヒトラー生誕前夜祭ベートーヴェン「第9番」第四楽章
フルトヴェングラー指揮

戦後の名演ベートーヴェン「交響曲第9番」全楽章






2023-12-15 21:00:00 | 近代
先週行った酒屋神社の裏の池の写真。
小さな池ですが、4つ並んでいて、それぞれに景色が違っているのでした。

どこかでつながっているのでしょうが、その日は波もなく、水の上は鏡面のようでした。

バス釣りの人もちらほら

どちらが地面か?


モーリス ラヴェル(1875-1937年)
フランス共和国シブール生まれ、フランス共和国パリ没

フランス領バスク地方のシブールで生まれ、バスク人の母、スイス出身の発明家兼建築家の父の元に生まれました。
生後3ヶ月で、パリに移住。
パリ音楽院に入学すると。才能を発揮し多くの作品を生み出しました。

1900年からローマ賞に挑戦し2回目で3位に入賞したものの、その後も入賞を逃します。

1905年ラヴェル30歳、コンクール、年齢制限のため最後の挑戦の年に予選落ちしてしまいました。

ラヴェル
しかし、「亡き女王のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」などの作品を発表し、評価が高まっていたラヴェルの落選は大スキャンダルになります。

「ラヴェル事件」でパリ音楽院の院長テオドール デュポワは辞職に追い込まれ、後任についたガブリエル フォーレ(1845-1924年)

1905年フォーレ
がパリ音楽院のカリキュラムを改革することになりました。

その1905年、作曲されたのがピアノ組曲「鏡」です。

ラヴェルが所属していたアパッシュ(ごろつき)
1900年結成パリの音楽家、詩人が結成 ドビュッシー、カプレ、ファリャ
、ビニュスなどが所属していて、新しい芸術を支持していました。

この曲集はアパッシュのメンバーにそれぞれ献呈されています。



ピアノ組曲「鏡」
1.蛾(Noctuelles):詩人のレオン=ポール・ファルグ(1876-1947年)に献呈。クロスリズムが目立つ曲で、曲名である蛾は娼婦を暗示していると考えられています。

左からレオン=ポール・ファルグ、モーリス・ラヴェル、ジョルジュ・オーリック、ポール・モラン(1927)

2.悲しげな鳥たち(Oiseaux tristes):初演者リカルド・ビニェス


ビニェスとラヴェル
1875年2月5日 - 1943年4月29日)は、フランスで活躍したスペイン人ピアニスト、作曲家。ドビュッシー、ラヴェルの一連のピアノ曲の初演者として歴史に名を残します。プーランクのピアノの師としてもたびたび言及されています。。
に献呈。
「夏の、とりわけ暑い日に、暑さで眩み迷い子になった鳥たちの姿。真夏の光も届かない、 ほの暗い森の中で動けなくなった鳥たちは、ひっそりと息絶えます。」とラヴェルは語っています。

3.海原の小舟(Une barque sur l'océan):画家のポール・ソルド

ラヴェルがソルドに宛てた手紙1905年
に献呈。
 
神奈川沖浪裏 葛飾北斎のこの絵にインスピレーションを受けたと言われています。
ソルドが紹介したのかも。

4.道化師の朝の歌(Alborada del gracioso):批評家のミシェル・ディミトリー・カルヴォコレッシ

1877年10月2日 マルセイユ – 1944年2月1日 ロンドン)は、ギリシャ系フランス人の音楽評論家・詩人・翻訳家
に献呈。
この曲のみスペイン語の題名。他はフランス語です。ファンタンゴなどスペイン風のリズムが使われています。

5.鐘の谷(La vallée des cloches):作曲家のモーリス・ドラージュ
(1879年11月13日 - 1961年9月21日)は、フランスの作曲家。姓はドゥラージュとも読みます。裕福な資産家で、パリ、オートゥイユにアパッシュのために敷地を提供していました。
に献呈。
「正午にいっせいに鳴り響く、パリじゅうの教会の鐘の音からインスピレーションを得た」とラヴェルは語っています。

「鏡」第3曲「海原の小船」


美食生活の中で

2023-12-14 21:00:00 | ロマン派
火曜日の子育てサロンのクリスマスコンサート、無事終わりました。

コンサートで使ったカスタネットや鈴をピアノのTさんとファミリーポートひらかたに返しに行きました。

楽器を返したら、受付に「大根50円で一本抜いて下さい」の札。

「これは?」
と聞くと、「前の畑のです。よかったらどうぞ、子どもたちも抜いていけるんです。」

大根買ったばかりだけれど、「いただきます。」Tさんと2人で

脚曲げれないので、Tさんに抜いてもらいました。

「きれい!葉の勢いがいいね〜!」

夜、まず塩で浅漬、ごまをかけて食べました。
塩してもシャキシャキしてて美味しかった。
何か子育てで困った事があれば、無料で相談にのってくれます。
イベント、預かり保育もあります。

ファミリーポートひらかたのURL

ジョッキアーノ ロッシーニ(1792- 1868年)教皇領ペーザロ生まれ、フランス帝国パリ没

若い頃のロッシーニ、c.  1810 ~ 1815 年
は、オペラ作曲で人気絶頂の44歳音楽界を引退します。
その後は、レストランを経営し、大好きな食事を提供して暮らしていました。
しかし、全く音楽活動をしていなかったか?というと、そうではなくて、なくなるまで、毎週土曜日には自宅の応接室のサロンでプライベートの演奏会を催し、自作の曲をピアノ演奏したりしていました。

1865年頃のロッシーニ

1857-1868年の間に
150曲のピアノ曲、室内楽曲、声楽曲があります。
ロッシーニ自身によって5巻〜9巻は「老いの過ち」(Péchés de vieillesse)と名付けられています。
後にはその時期の作品のすべてを「老いの過ち」と呼ぶようになりました。

ロッシーニの死後、アルバムにまとめられましたが、日付順ではありませんでした。
レスピーギがバレエに、プリテンがオーケストラ編曲し「音楽の夜会」にして発表しました。 

「老いの過ち」
イタリアのアルバム
フランスのアルバム
慎み深い小品集
4つのデザートと4つの前菜
青春の子供たちのためのアルバム
如才のない子供たちのためのアルバム
わらぶきの家のアルバム
館のアルバム
ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、ハルモニウム、ホルンのためのアルバム
ピアノのための雑集
声楽の雑集
アルバムのための幾つかのささいなこと
穏やかな音楽
その他の老いの過ち

「老いの過ち」12番「アルバムのための幾つかのささいなこと」

ガキの最初の歌
それは痛みの声なのさ
この世で育ち 大きくなる間
息苦しさとため息ばかり

そうだ 捨てちまえ そんな考えは
旨いワインを飲み干すんだ
幸せな年月を過ごすのさ
憂さばかりのこの谷で

一瞬なのさ 若さは
わずかしか続かない その華やかさは
老いがすぐにやって来る
死が来るのさ 「カッコー」と言いに

ビバ アントニオ 偉大な強大な守護者よ
旨いワインを飲んでもらおう
幸せな年月を過ごすのさ
憂さばかりのこの谷で





新曲登場

2023-12-13 21:00:00 | 近代
月曜の18:00〜渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
駅は中之島線の渡辺橋が最寄りですが、一番近いのはもう一つ海寄りの筑前橋です。


筑前橋より海方向を見たところ。
冒頭写真は、橋の上のど根性蔦。

新しい楽譜を頂いて緊張気味のメンバーと榎田先生。
前回やった「美しき青きドナウ」は、編曲が先生のお気に召さず保留。

今回はドビュッシーの「小組曲」フルート6パートと、アルト、バス、コントラバス(弦バス)の楽譜。

神戸では全曲やったみたいですが、楽譜持参忘れたみたいで、メヌエットとバレエをやりました。

アンリ ビュッセル版をもとにフルートアンサンブルに編曲したものみたい。
なかなかおもしろい編曲です。
人数が足らないので、榎田先生が1stコントラバスと6thフルートは無しで。
私は2nd、久しぶりにバス以外のパート。吹きやすい。

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サンジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

1885-9年に作曲されたピアノ4手連弾のための「小組曲」
ドビュッシー23歳から27歳の頃。
ヴェルレーヌの「艶なる宴」からインスピレーションを受けて作りました。

艶なる宴はポール ヴェルレーヌ(1844-1896年)フランス王国メス生まれ、フランス共和国パリ没

が、1869年。ロココ朝時代の画家アンリ ヴァトー(1684-1721年)の絵に刺激を受けて書きました

ヴァトー「艶なる宴」
ドビュッシーはローマ賞を受賞し、ローマに留学した頃にヴェルレーヌに出会い、生涯詩集をそばにおいていたそうです。

小舟にて (En Bateau)

ヴェルレーヌ「艶なる宴」
小舟にて

空より暗い水面に 金星うかびただように
舟子、股引のポケットに火打石たずぬるに。

さても皆さん今こそは二度とまたないよい時分 傍若無人にいたしましょう、
さてもわたしのこの両手 以後かまわずにどこへでも!

騎士アチス切なげにギタール鳴らし
つれなびとクロリスあてに あやしげな秋波おくる。

法師はひそひそエグレを口説き
ちと気の変な伯爵は 心を遠くへ通わせる。

かかるおりしも月の出て 小舟は走るいそいそと
夢みる水のそのおもて。

行列 (Cortège)
金襴の仕着のお猿
彼女の先に立ち
踊ったり跳ねたり、
夫人はお上品な手袋の片手に
ダンテルの手巾をいじくって。

後ろから、赤いおべべの黒奴小僧
両腕にあふれこぼれる彼女のお晴れ
長い裳裾を重げに抱いて、
襞の一つの動きにも目の玉ぱちくり。

夫人の白い衿元から
猿め、かた時目を離さない。
見えぬ胸乳のふくよかさ
女神の体にふさわしい

黒奴小僧のいたずら奴、その豪勢な重荷をば
必要以上に持ち上げて
彼の夜ごとの夢に入るものの象(すがた)をのぞき込む。

彼女は石の階を、心静かに登り行く、飼いならされた動物の
身のほど知らぬ恋慕なぞ
気にもとめないのどかさで。

メヌエット (Menuet)
テオドール バンヴィル(1823-1891年)フランス王国ムーラン生まれ、フランス共和国パリ没

の詩につけられた歌曲「艶なる宴」の旋律をそのまま転用しています。


バレエ (Ballet)
教会旋法、全音音階が使われています。




アヴェ・マリア

2023-12-12 21:04:00 | バロック
今朝、お約束の整形外科に行って、MRIの結果を聞きに行ったら、「折れてました。」
「え?!」
「膝小僧です。ズレてないみたいなので固定します。」
ガーン。

固定したら一気に不自由に…。
それでも明日のクリスマスコンサートの楽器を借りに枚方市ファミリーポートへ。

怪我の度合いは同じですが、車に乗るのもシートを後ろまで下げないと脚が伸びたままなので入れません。
なんだか1人で奮闘していると笑えて来ました。

ハンドルが遠い。
足首はなんとも無いですが、やっぱり少し怖い。

ポートのスタッフに車まで楽器を入れてもらいました。

カスタネットや鈴、タンバリン。

午後から、ピアノのTさんと絵本の読み手のOさんが来てくれて、最終合せ。

絵本を音楽に合わせて読むのははじめでというOさんは少し緊張気味でしたが、温かい声や人柄が絵本にぴったり合っています。
何度か合わせるといい感じにできました。

そして段取りを相談。
車2台で行くはずでしたが、結局運転は危ないということでTさんが朝早く回ってくれることになりました。

演奏は座って、借りた楽器をお返しするのも引き受けてくれました。

いろいろ迷惑かけて申し訳ないです。
本当に気をつけなくちゃ。

ごめんなさい

そして感謝してます。

12日(火)10:00〜会館との2
子育てサロンのクリスマスコンサート、うまくいきますように。

パラバルーンをサロンで作りました。普通は大きな色のついた不透明の布を持って箸を持ってもちあげたり降ろしたり、中にはいったりして遊びます。
リズム遊びの一環で音楽に合わせてやります。

しかし、サロンに来るこどもたちは2歳児までが多いので、閉鎖された空間や暗いところが怖い子どもたちが多いので、オーガンジーのピンクの布で作りました。
作るといっても、大きな四角に縫っただけですが。
それでもいつと透明の布はこどもたちに人気です。

今年はシモネッティの「マドリガル」に合わせて見たいと思っています

以前にはグノーの
「アヴェ・マリア」に合わせてやったこともあります。

「アヴェ・マリア」は、ラテン語で「こんにちは、マリア」という意味だそうです。

ラファエロ「大公の聖母」1505-1506年

祈祷文で聖書のルカによる福音書から取られています。

多くの作曲家が同じ歌詞で曲を作っています。

ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナ、モンテヴェルディ、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーン、リスト、グノー、フランク、ブラームス、サン=サーンス、ドボルザーク、ヴェルディ、フォーレ、エルガー、ホルストなどなど。

シャルル・グノー(1818-1893年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国サン=クルー没

のアヴェ・マリアはよく知られていますが
ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

の「平均律クラヴィーア曲集第一巻」の前奏曲ハ長調BWV846を伴奏にグノーがアヴェ・マリアの歌詞とメロディをつけたものです。

Ave Maria, gratia plena,
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris
 tui Jesus.
Sancta Maria mater Dei,
ora pro nobis peccatoribus,
nunc, et in hora mortis nostrae.
Amen.

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されて 
 います。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りく
 ださい。
アーメン。

まずは、バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻

グノーのアヴェ・マリア