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初演200周年ベートーヴェン

2024-09-09 21:03:00 | 古典
日曜日はフェニーチェ堺で、プロージット室内管弦楽団の練習です。
「それどこにあるの?」から始まって、うーん駅から歩いて900メートル。
午後3:00集合。
暑そう。
夫と次男が空いています。
頼みました。

半分は私のためではありません。
止めっぱなしのスカイラインを動かすため。と言っても助かります。
牧野から1時間足らずで着きました。

オールベートーヴェンプログラム。
第九初演プログラム再現特別演奏会

10月20日(日)14:15開場15:00開演14:40より指揮者木許裕介氏によるプレトーク

ソプラノ杉浦希未 メゾソプラノ谷田奈央 テノール清原邦仁 バリトン池田昌巳
コンサートマスター友永健二

献堂式は、ベートーヴェンにしてはあまり上演されない曲ですが、1824年5月7日 今からちょうど二百年前に第九初演時にミサ・ソレムニスと共に演奏されました。

この時の演奏会はどんな様子だったのでしょう。

『献堂式』序曲(けんどうしきじょきょく、Ouvertüre „Die Weihe des Hauses“) 作品124は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲した序曲です。ベートーヴェンが純粋管弦楽のために作曲した最後の作品にあたり、1820年代に書かれた唯一の序曲でもあります。

出版:1825年にマインツのショット社より出版。
献呈:ニコラウス・ガリツィン侯爵。

1822年に、ウィーンに新築されたヨーゼフシュタット劇場


ヨーゼフシュタットの kk 特権劇場、1844 年
のこけら落としのために作曲された祝典劇の序曲です。

劇場の支配人カール・フリードリヒ・ヘンスラーは作家のカール・マイスル(Karl Meisl, 1761年 - 1825年)

に劇の制作を依頼し、マイスルが制作した作品は『侯爵の肖像』と『献堂式』の2作品でした。

祝典劇の『献堂式』はかつてブダペストで上演された付随音楽『アテネの廃墟』(コツェブー原作)を翻案することが決まったため、マイスルは内容を一部変更し、同時にベートーヴェンも劇の音楽を改作することになりました(ただし大半は『アテネの廃墟』からの転用でした。)。この改作で生み出された作品が合唱曲(WoO.98)と『献堂式序曲』です。

祝典劇の初演は1822年10月3日に、ウィーンのヨーゼフシュタット劇場でフランツ・グレーザーの指揮で行われた。

また、1824年5月7日に交響曲第9番が初演された際に、ミサ・ソレムニスからの3曲(プログラムには「三つの大賛歌」として記載)とともにこの曲も演奏されています。

ミサ・ソレムニスは 
1824年4月7日にサンクトペテルブルクでの「音楽家未亡人のための慈善演奏会」で初演されています。

ウィーン初演は1ヵ月後の5月7日で交響曲第9番とともに演奏されましたが、全曲ではなく、『キリエ』、『クレド』、『アニュス・デイ』しか演奏されませんでした。楽譜の初出版は1827年。

『キリエ』冒頭には「心より出で-願わくば再び-心に向かうよう」にと記され、

自筆、キリエの冒頭、有名な献辞「Von Herzen...」と演奏アドバイス「Mit Andacht」(「献身的に」)付き
『アニュス・デイ』では戦争を暗示する軍楽調の部分や「内と外の平和を願って」
とのベートーヴェン自身による指示が書き込まれています。これらは、ベートーヴェンが心の平安と外的な平和を統一して希求する音楽として作曲していたことを示しています。

『アニュス・デイ』においては、ヘンデルの影響も古くから指摘されています。

ベートーヴェンは交響曲をアレクサンドル1世に、『ミサ・ソレムニス』を皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナにそれぞれ献呈し、その見返りとしてロシア帝室からの年金の下賜を期待していた節があります。

その後の推移ははっきりしていませんが、1825年11月25日付のショット社宛の書簡では「献呈はまだ決めていない」と記していて、それから間もない12月1日にアレクサンドル1世は崩御。

年明けた1826年1月28日付ショット社宛の書簡では「皇帝アレクサンドルに捧げられることが決まっていましたが」と記しており、同時に新しい献呈先を近いうちに知らせると記しています。

当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していました。
しかし、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い止まります。

初演は1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場

においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」や「献堂式」序曲とともに初演されました。

ベートーヴェンは「総指揮者」として作品に立ち会いましたが、指揮者としてのブランクや、聴力の衰えもあったことから、実際の指揮はミヒャエル・ウムラウフが行いました。

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説あります)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成でした。

合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デル・マーは「合唱団は40人」としていますが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」になります。

参加者の証言によると、第九の初演はリハーサル不足(2回の完全なリハーサルしかなかった)で、かなり不完全だったといわれています。

ソプラノソロのヘンリエッテ ゾンターク
 
ゾンターク1825年
は18歳、
アルトソロのカロリーネ ウンガー

は21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えています。

さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足でした。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られています)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていました。
 
一方で、初演は大成功を収めました。

『テアター・ツァイトゥング』紙に「大衆は音楽の英雄を最高の敬意と同情をもって受け取り、彼の素晴らしく巨大な作品に最も熱心に耳を傾け、歓喜に満ちた拍手を送り、しばしばセクションの間、そしてセクションの最後には何度も繰り返した」という評論家の記載があります。

ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がりました。

1815年ベートーヴェン
ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気づきませんでした。

見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方に向かせ、初めて拍手を見ることができました。

観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話が残っています。

このように「好評」の逸話が残る初演ですが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話で、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もあります。 

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられています。

シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかったと思われます。

次の再演では予め1200グルデンがベートーヴェンに支払われています。