火曜と水曜の夕方は5歳児を幼稚園に迎えに行って自宅で遊んでからお家に送っていきます。
手を真っ黒にして描いてくれました。
今日のすごろく…パステルです。
色鉛筆は写真には色が薄いです。
全部ピンピン!
レオナルド ダ・ビンチ (1510–13)
ロザルバ・カッリエーラ(1675-1757年)イタリア ヴェネツィア 自画像パステル
ポンパドゥール夫人の肖像 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール1752年 パステル ルーブル美術館
彼はパステル画をよく描きました。
《エトワール》(1876-77年、オルセー美術館)
有名なエトワールも
【踊り子たち、ピンクと緑】
生涯独身で女性と目を合わせるのも難しかったドガは劇場に通うか、踊り子をモデルとして雇って描きました。
の音楽を用いたバレエ「ラ・シルフィード」
シルフィード役を演じるマリー・タリオーニ
先週からハマっているすごろく作り。新作が続々とできています。
お迎えに行くと「はよ帰って…あれ、あれ使わんと。」と言いながらやってきました。
「何のこと?」という私に
「あれやん、描くやつ!」
昨日うちにおいてあったパステル!
時間切れで使えなかった。よく覚えています。
手を真っ黒にして描いてくれました。
今日のすごろく…パステルです。
私も2日目で完成。
スウィーツすごろく。
「お菓子何かある?」と聞きながら描いたら「アンパンマンチョコピスケッチヨ」とか、「スニッカーズ」「m&m's」「アンパンマンうどん」
「スナック菓子みたいなもんばっかりやね。」と言うと
「ホールのチョコレートケーキと、いちごケーキ描いて!」
色鉛筆は写真には色が薄いです。
「芯が減って描けなくなってきたわ。」と言うと「クレヨンで描いたらいいやん。」と言います。
「そうだ!」と小さな鉛筆削りを出すとキョトンとしています。
「これでね。削るの。そうすると鉛筆がまた使えるの。やる?」
削ってくれました。
鉛筆を削ったのは初めてだそうです。
ハマりました。
全部ピンピン!
できたすごろくで遊んでいると途中で時間になりました。
「え〜!まだやりたい!帰りたくない!」
というのを、「また、来週ね。」と帰しました。
パステル(Pastel)は、炭酸カルシウムなどの顔料に着色顔料やトラガカントゴムなどの接着剤を練り合わせて固めた画材です。
語源はフランス語の「練り固める」という意から転じているそうです。
パステルの製造は15世紀に始まっりました。
1499年にミラノに到着したレオナルド・ダ・ヴィンチは、フランスの画家ジャン・ペレアールからパステルという画材について学びました。
レオナルド ダ・ビンチ (1510–13)
右向きの聖母頭部四分の三像 パステル
パステルは17世紀以降に珍重され、その大胆な色彩と、布地や質感、光を忠実に模倣する能力によって、肖像画の芸術とは切り離せないものとなっていきます。
ロザルバ・カッリエーラ(1675-1757年)イタリア ヴェネツィア 自画像パステル
18世紀はパステルの黄金時代。
この画材を肖像画を描くのに使うことが流行となり、ガッシュとの混合技法で描かれることもありました。
今では姿を消したパステルの定着法も開発されました。
ポンパドゥール夫人の肖像 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール1752年 パステル ルーブル美術館
アンシャン・レジームの優雅さの象徴だったパステル画は、フランス革命後まもなく廃れ、油絵に取って代わられました。
しかし、パステル画は使われ続け、印象派のエドガー・ドガやトゥールーズ=ロートレック、ナビ派(エドゥアール・ヴュイヤールなどを含む)によってさらに発展し、1890年代には象徴主義運動によって真のルネサンスを迎えます。
1950年代にはパステル技法はすっかり姿を消したかに見えました。
1965年頃からドライパステルが開発され、新しい表現を生み出しています。
画家エドガー ドガ(1834-1917年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国パリ没
彼はパステル画をよく描きました。
これは銀行家だった父が負債を隠したまま亡くなった上に、兄が事業に失敗して負債を抱えたため、その負債を返済するために大量に絵を描く必要があったので、早く描けるパステルを多用しました。
《エトワール》(1876-77年、オルセー美術館)
有名なエトワールも
【踊り子たち、ピンクと緑】
制作年:1894年
原画サイズ:66 x 47cm
所蔵:吉野石膏株式会社
この絵もパステル画です。
この絵もパステル画です。
生涯独身で女性と目を合わせるのも難しかったドガは劇場に通うか、踊り子をモデルとして雇って描きました。
踊り子の作品群は生前は発表されず、ドガの死後発見されました。
ドガ画 エトワール オペラ座のオーケストラ
どのバレエ音楽を聞いていたかははっきりとはわかりませんが、その頃流行ったロマンティックバレエを聴いていたに違いありません。
どのバレエ音楽を聞いていたかははっきりとはわかりませんが、その頃流行ったロマンティックバレエを聴いていたに違いありません。
フレデリック ショパン(1810-1849年)ワルシャワ公国ジェラソヴァ ヴォラ生まれ、フランス共和国パリ没
の音楽を用いたバレエ「ラ・シルフィード」
1832年パリオペラ座で初演されました。
フィリッポ タリオーニ振付、音楽はジャン・マドレーヌ・シュナイツホーファの編曲でした。
シルフィード役を演じるマリー・タリオーニ
「ラ・シルフィード」
あらすじ
スコットランドの農村。
婚約者エフィとの結婚式を控えたジェイムズの前にシルフィードが現れて魅惑的に踊り彼を魅了します。
親戚や友人たちが祝福に訪れますが、エフィを愛するグエンは彼女を諦められない。
占い師マッジはエフィに「幸福な結婚をするが相手はジェイムズではなくグエンである」と告げ、怒ったジェイムズによって追い出されます。
ひとびとが式の準備に出てジェイムズがひとりになると再びシルフィードが現れ、結婚を知ると嘆き悲しみながら愛を告白します。
やがて結婚式が行われるが、シルフィードが指輪を奪い去り、ジェイムズは彼女を追って森へ入って行きます。
第二幕
ジェイムズはシルフィードを追いますが、触れようとするとすり抜けていくシルフィードに想いが募ります。
マッジにそれを肩にかけると飛べなくなるというショールをもらい受けます。
しかしそれは実は呪いのショールでした。
そうとは知らずジェイムズがシルフィードの肩にかけると、シルフィードの背中の羽が落ち、もがき苦しみながら、「愛に後悔はない。」と告げて死んでしまいます。
そこへエフィとグエンの結婚式の鐘が鳴り、すべてを失ったジェイムズは嘆きながら息絶えます。
バレエ「ラ・シルフィード」よりショパン ワルツop70