音楽の喜び フルートとともに

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細川ガラシャの戯曲1689年

2024-09-06 21:04:00 | 現代
京丹波に出張した夫が、栗を買ってきました。
バーキングエリアから入れる道の駅「味夢の里」
最近できたみたい。
「野菜は?」と聞くと
「帰りの時間が遅かったから、茄子とゴーヤしかなかった。」残念。
仕事だから仕方ないね。
栗だけは行きにトイレに寄った時に買ったそうです。

栗の袋も…丹波栗。
昨日の栗だから安かったそうです。帰りに見たら当日のは倍の値段!
びっくり。
栗の最高級だものね。 

福知山城も外から見たらしい。
明智光秀の城
光秀自販機


明智光秀

の娘 玉

全像本朝古今列女伝
はキリスト教に改宗しました。
ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していました。

そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が制作されました。

この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)
1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演されました。

脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウト(1654-1712年)が作曲しました。

アドルフは、この戯曲の要約文書[において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」であると述べています。
さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」

の独訳本の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」だったことをも明記しています。

戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれています。 夫の君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きだそうです。

この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれました。

マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1680-1741年)

マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ ((1683-1754年)

マリア・マグダレーナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1689-1743年)

さすがにこの音楽は見つけることができませんでした。
台本はバイエルン州立図書館にデジタル化されて残されています。

2014年上智大学で(抜粋上演)
2023年東京音楽学校奏楽堂で再演されたことはあるようですが…。

細川ガラシャの辞世の句

散りぬべき 時しりてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ

鈴木静一(1907-1980年)

東京府出身。幼時よりオルガンや謡曲に親しみ、中学教師より作曲法と和声法を学びました。

父親の希望により慶應義塾に入学しました。
しかし、在日イタリア人の声楽家アドルフォ・サルコリにマンドリンと作曲を師事し、大学を中退。

作曲家・マンドリニストとして活動を開始します。

1927年には「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催の第1回マンドリンオーケストラ作曲コンクールで『空』が1位なしの2位を獲得し、翌年の第2回コンクールでも『北夷』が1位なしの2位を獲得しました。

このころ新交響楽団常任指揮者ヨゼフ・ケーニヒより指揮法を、声楽家ヘルマン・ヴーハープフェニッヒより和声を学びます。

戦中・戦後には黒澤明監督の『姿三四郎』を始めとする数多くの映画音楽や流行歌を手掛け、マンドリン音楽界から遠ざかります。

しかし1966年頃からマンドリン界に復帰し、その死に至るまでの十数年間に数多くのマンドリンオーケストラ曲を作曲しました。

1968年に作曲した劇的序楽「細川ガラシャ」はマンドリンオーケストラにフルート、打楽器が入った壮大な曲になっていて、日本のマンドリンオーケストラの古典になっています。