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トムとジェリーが指揮

2024-09-04 09:00:00 | ロマン派
阪急の「トムとジェリー号」
オペラパークオーケストラの練習の後、塚口から梅田まで乗りました。

普通電車。



中にも

います。


トムとジェリーの「星空の音楽会」
Tom and Jerry in the Hollywood Bowl,1950年9月16日)は、「トムとジェリー」の作品の一つです。

ヨハン シュトラウス2世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没
オペレッタ「こうもり」は1874年アン・デア・ウィーン劇場で初演されました。
1954年にデュッセルドルフで上演された時の様子
ロデリヒ・ベンディックスの喜劇『牢獄』(1851年)に基づいた、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィが執筆した喜劇『夜食』(1872年)が原作。
舞台化はカール・ハフナーとリヒャルト・ジュネが担当しました。

ウィンナ・オペレッタの最高峰とされる作品で、「オペレッタの王様」ともよばれています。

当時パリで大成功を収め、「シャンゼリゼのモーツァルト」とよばれていたジャック・オッフェンバック(1819-1880年)

は1865年、ウィーンに自作の『美しきエレーヌ』を持ち込んできました。
ウィーンで大変な成功を収めます。
シュトラウスとオッフェンバックが初めて会い「あなたはオペレッタを作曲すべきだ」と言ったそうです。

しかし、シュトラウスはそうしませんでした。なぜなら、既にウィーンではフランツ・フォン・スッペ(1819-1895年)

の作品が大成功を収めていて、自分の入る余地がないと考えていました。

1868年『美しく青きドナウ』を発表して大成功を収めていたシュトラウスに、劇場の支配人たちが、いずれシュトラウスが劇作品を発表しだすと考え始めました。

その中の一人にアン・デア・ウィーン劇場


支配人マックス・シュタイナーがシュトラウスの妻ヘンリエッテ(イェッティ)(元女優で顔が広い女性でもあった)



に夫にオペレッタ作曲を作るように依頼しました。

これを引き受けた妻は夫を説得し、最初のオペレッタの台本『ウィンザーの陽気な女房たち』が渡され、作曲が開始されました。しかし、主役を誰が演じるかでプリマドンナ2人が激しく争い、これにうんざりしたシュトラウス。上演は頓挫しました。

しかしシュタイナーは諦めず、次の台本『インディゴと40人の盗賊』を渡しました。
1871年2月10日、シュトラウスのオペレッタ第1作『インディゴと40人の盗賊』


はアン・デア・ウィーン劇場で初演されました。

この作品はある程度の成功を収めたものの、台本の不備が次第に観客に露呈したことで、上演打ち切りに追い込まれました。

しかしシュトラウスは諦めず、1873年。
オペレッタ第2作『ローマの謝肉祭』

が同年3月1日にアン・デア・ウィーン劇場で初演されます。しかし、この作品は失敗に終わります。

そしてついに1874年アン・デア・ウィーン劇場の支配人シュタイナーのところに『こうもり』の原作となるアンリ・メイヤックとリュドヴィ・アレヴィ作の戯曲『夜食』(Le Réveillon)が届けられます。

シュタイナーはこの作品を、ウィーンの聴衆とシュトラウスに合うように台本作家のカール・ハフナーとリヒャルト・ジュネに手直しをさせてから、シュトラウスに渡しました。

一読して台本に魅了されたシュトラウスは自宅にこもり、6週間でこの作品を書き上げたと言われています。

そして1874年4月5日、『こうもり』は初演の日を迎えました。


アン・デア・ウィーン劇場での初演は大成功を収め、その後16回演奏されます。

ベルリンでも成功します。

今ではウィーン国立歌劇場の年末年始に「こうもり」上演が恒例行事になっています。

このオペレッタ「こうもり」の序曲を
「トムとジェリー」が指揮しています。