母宛てに、田舎に住む母の実の妹から電話が来たのだという。
ものごころついてからしか知らないけれど、第三者のぼくから見ていても、とても仲が良い姉妹で、互いに支えあっているのが良くわかる。
二人とも「つれあい」に先立たれている。
そのおばさんは、いまにして思えばというか、いまさらながら実感しているのだが
カトリック的な香りがする。
数年前に亡くなったご主人、ぼくのおじさんはその昔、水泳のインストラクターをしていた。お酒が好きで、シャイで、ぶっきらぼうだけど「愛」のある人だった。
脳の病気で倒れ、奇跡的に生還したのだが、それではおじさんの試練は終わらなかった。
腎不全(じんふぜん)。
腎臓(じんぞう)の機能が低下してくると、腎臓は老廃物や水分を十分に排泄できなくなり、人体に不必要な物質や有害な物質が蓄積してしまい、死に至るようなさまざまな病を発症させてしまう恐ろしい機能不全です。
生きるためにおじさんが選択した方法は
「透析」でした。
選択したというよりも、すでに選択の余地がなかったのかもしれません。
血液透析。1回の治療は通常3~5時間を要し、1週間に2~3回治療を受けます。
もと看護婦さんだったおばさんは、先の脳の病気で半身不随になったおじさんをそれはそれは献身的にケアしていました。
カラダの自由がきかない上、生きるために背負わされた「透析」という重荷に耐え切れないおじさんは一時期荒んでいました。
二十年以上おじさんはいっしょうけんめい生きました。
おばさんも必死にそばにいました。
おばさんはそんな状況なのにいつもニコニコしていて、話す言葉もやわらかくて、ぼくの父の会社が連帯保証問題でピンチの時にも、ぼくがどん底に沈んでいる時にも、本当に親身に助けてくれた。
昔、たまにおばさんの家に遊びに行くと、台所でぼくの母と二人きりになったときにいつも涙を流していたのが印象深い。
おばさんはおじさんを亡くしてから、縁日で買ってきて三日目になる風船のように元気がなくなりました。楽になって、さびしくなった。でも、ぼくの母が困っていると必ず救いの手を差し伸べてくれていたのをぼくは知っていました。
おばさんはいまはヘルニアとお付き合いしながら、息子夫婦と孫に囲まれて暮らしている。
そんなおばさんからの久しぶりの電話の内容を聞いてぼくはいま考えています。何ができるのか、何もできないのか。
ぼくも何度か会ったことのあるおばさんの孫、そうぼくの『親戚のおとこの子』。小学生の元気な男の子。その彼がピンチに陥っているらしい。
昨日初めて聞いたのだが
彼が学校で「いじめ」にあっているらしい。
原因は彼が「吃音(どもり)」という障害を患ってしまっているからだという。
言いたいことが瞬間的に言えない。おともだちとも円滑にコミュニケーションが取れない。結果的に勉強も遅れ気味。そしてバカにされ、いじめられる。負のスパイラルで苦しんでいる。
その話しを聞いて憤っているぼくが、母に発した最初の言葉はこんなものだった。
「みんなで苦しいんだったら、学校行かせなくてもいいんじゃないかな。他の選択肢だって沢山あるんじゃん。今の状況では誰もハッピーじゃない。」
母は言った。
「田舎は都会とは違うんだよ。」
「可能な限り、普通の学校に行かせたいと思うんだよ。」
ぼくは、あたりどころが母ではないことを承知で語気を強めた。
「「普通の学校」って何だよ。」
この後に、口にした言葉は取り消せないものだろうか。非常に後悔しているから。
「お母さんもさぁ、信仰もってんだからさぁ、何かさぁ、救いの言葉っていうか、そういう発想にならないとさぁ・・・。」
ぼくは何様のつもりなんだろう。まぁ、いまは、自分の事なんてどうでもイイや。
彼のためにできること。
祈ること。
心から
祈ること。
神さま、御ひとり子は
すべての人の弱さと貧しさをご自分の肩に背負われ
神秘に満ちた苦しみに価値を
わたしたちに示してくださいました。
病に苦しむ兄弟姉妹を
おばさんと小さくて弱いおとこの子とその家族を祝福してください。
不安と苦しみの中にあって
孤独に打ちひしがれることがありませんように。
心と体をいやしてくださる主イエス・キリストに結ばれて
苦しむ人々に約束されているあなたの慰めと励ましを得ることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488
ものごころついてからしか知らないけれど、第三者のぼくから見ていても、とても仲が良い姉妹で、互いに支えあっているのが良くわかる。
二人とも「つれあい」に先立たれている。
そのおばさんは、いまにして思えばというか、いまさらながら実感しているのだが
カトリック的な香りがする。
数年前に亡くなったご主人、ぼくのおじさんはその昔、水泳のインストラクターをしていた。お酒が好きで、シャイで、ぶっきらぼうだけど「愛」のある人だった。
脳の病気で倒れ、奇跡的に生還したのだが、それではおじさんの試練は終わらなかった。
腎不全(じんふぜん)。
腎臓(じんぞう)の機能が低下してくると、腎臓は老廃物や水分を十分に排泄できなくなり、人体に不必要な物質や有害な物質が蓄積してしまい、死に至るようなさまざまな病を発症させてしまう恐ろしい機能不全です。
生きるためにおじさんが選択した方法は
「透析」でした。
選択したというよりも、すでに選択の余地がなかったのかもしれません。
血液透析。1回の治療は通常3~5時間を要し、1週間に2~3回治療を受けます。
もと看護婦さんだったおばさんは、先の脳の病気で半身不随になったおじさんをそれはそれは献身的にケアしていました。
カラダの自由がきかない上、生きるために背負わされた「透析」という重荷に耐え切れないおじさんは一時期荒んでいました。
二十年以上おじさんはいっしょうけんめい生きました。
おばさんも必死にそばにいました。
おばさんはそんな状況なのにいつもニコニコしていて、話す言葉もやわらかくて、ぼくの父の会社が連帯保証問題でピンチの時にも、ぼくがどん底に沈んでいる時にも、本当に親身に助けてくれた。
昔、たまにおばさんの家に遊びに行くと、台所でぼくの母と二人きりになったときにいつも涙を流していたのが印象深い。
おばさんはおじさんを亡くしてから、縁日で買ってきて三日目になる風船のように元気がなくなりました。楽になって、さびしくなった。でも、ぼくの母が困っていると必ず救いの手を差し伸べてくれていたのをぼくは知っていました。
おばさんはいまはヘルニアとお付き合いしながら、息子夫婦と孫に囲まれて暮らしている。
そんなおばさんからの久しぶりの電話の内容を聞いてぼくはいま考えています。何ができるのか、何もできないのか。
ぼくも何度か会ったことのあるおばさんの孫、そうぼくの『親戚のおとこの子』。小学生の元気な男の子。その彼がピンチに陥っているらしい。
昨日初めて聞いたのだが
彼が学校で「いじめ」にあっているらしい。
原因は彼が「吃音(どもり)」という障害を患ってしまっているからだという。
言いたいことが瞬間的に言えない。おともだちとも円滑にコミュニケーションが取れない。結果的に勉強も遅れ気味。そしてバカにされ、いじめられる。負のスパイラルで苦しんでいる。
その話しを聞いて憤っているぼくが、母に発した最初の言葉はこんなものだった。
「みんなで苦しいんだったら、学校行かせなくてもいいんじゃないかな。他の選択肢だって沢山あるんじゃん。今の状況では誰もハッピーじゃない。」
母は言った。
「田舎は都会とは違うんだよ。」
「可能な限り、普通の学校に行かせたいと思うんだよ。」
ぼくは、あたりどころが母ではないことを承知で語気を強めた。
「「普通の学校」って何だよ。」
この後に、口にした言葉は取り消せないものだろうか。非常に後悔しているから。
「お母さんもさぁ、信仰もってんだからさぁ、何かさぁ、救いの言葉っていうか、そういう発想にならないとさぁ・・・。」
ぼくは何様のつもりなんだろう。まぁ、いまは、自分の事なんてどうでもイイや。
彼のためにできること。
祈ること。
心から
祈ること。
神さま、御ひとり子は
すべての人の弱さと貧しさをご自分の肩に背負われ
神秘に満ちた苦しみに価値を
わたしたちに示してくださいました。
病に苦しむ兄弟姉妹を
おばさんと小さくて弱いおとこの子とその家族を祝福してください。
不安と苦しみの中にあって
孤独に打ちひしがれることがありませんように。
心と体をいやしてくださる主イエス・キリストに結ばれて
苦しむ人々に約束されているあなたの慰めと励ましを得ることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
神に感謝。
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