報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

武装襲撃  (99年8月27日ロスパロス・東ティモール)

2006年06月18日 17時29分23秒 | ●東ティモール
<まさかの襲撃>

「ミリシアの襲撃があるかも知れないぞ!」
 ヴェリッシモ氏の長男セルジオが言った。
 僕にはまったくピンとこなかった。こんなのどかな田舎町で?
 まさかね?
 平然としている僕に、
「お前、怖くないのか?」
 と彼は険しい表情で言った。
 僕はまだ、ミリシア(併合派武装民兵)がどれほど残忍なのかを知らなかった。
 そして凄まじい殺戮と破壊が一週間後にはじまることも。

 しばらくして、独立派の若者が五、六人警備のためにやってきた。薪用に積まれていた棒を手にし、民兵を迎え撃とうとしていた。棒で戦おうというのだから、たいしたことにはならないだろう。カメラを構え、僕は彼らから少し離れたところに立った。
 それからほどなくして、生け垣越しに五、六人の頭が見えた。民兵は本当にやってきた。先頭の男だけ、バラクラバ帽(目出し帽)を被っていた。ゆうゆうと歩いて敷地の中に入ってきた。そして先頭の男が何かを叫んだ。その瞬間、独立派の若者たちは一斉に棒を捨てて、血相をかえて逃げ出した。
 僕は、その瞬間までは乱闘になったら写真を撮ろうなどと、のんきに考えていたのだが、若者たちの表情と逃げ方に、ようやくただならぬものを感じた。

 僕を含めて八人ほどが逃げ遅れた。女性や子供もいた。全員あわてて家の中に散った。
 僕の飛び込んだ部屋には、女性と子供、そして独立派の幹部A氏がいた。あわてすぎたため、手が滑って、ドアを閉めることができなかった。
 民兵たちは、家の中を破壊しはじめた。家屋内に怒号とは破壊音が響いた。僕は、開いたままのドアから顔を乗りだして、写真を撮ろうと試みた。こん棒で台所を破壊している男の背中が見えた。あわてて身を引いた。写真を撮るのは危険すぎた。見つかれば、他の三人も危険に晒してしまう。A氏は内側のドアを開け、となりの部屋に移った。

 家の中のあちこちで破壊の音が響いた。
”この部屋も、もう見つかる”、そう思うと恐怖で体が強ばる。捕まればどうなるのだろうか。ただ恐怖だけがつのっていく。子供はベッドの下で震えていた。女性は小さな声で必死に祈っていた。女性が引きつった顔で部屋の上を指差した。空気窓から濃い黒煙が部屋の中に吹きこんできた。
”火をつけやがった!”
 カメラは二台ともバッグの中に突っ込んだ。写真どころではない。もう何をしていいかわからない。僕は部屋の真ん中に棒立ちになっていた。

 いきなり激しい射撃音がした。壁一枚外で、自動小銃の連射がはじまった。軍用の自動小銃の音だ。セミオートで連射しているが、まるでフルオートなみの撃ち方だ。
 銃撃が始まった瞬間、女性をベッドの下に押し込み、僕ももぐった。狂気に満ちた射撃に身がすくむ。もはや見つかれば、確実に殺される。
”どうやってここから逃げればいいんだ!”

<嵐の前>

 僕が東ティモールヘ着いた当初は、後の武装襲撃や大殺戮など想像もできないほど、静かでのんびりした雰囲気だった。

 東ティモールの人口は八〇万人ほど。住民投票の登録者は、約四六万人。投票の管理運営や集計作業は、国連東ティモール派遣団(UNAMET:ウナメット:United Nations Mission in East Timor)が行なう。投票の規模も小さいし、何といっても国連が間に入っているのだ。何かが起ろうはずがない。僕はそう安易に考えていた。

 ディリには世界各国の報道陣が三〇〇人近く滞在していた。フリーランスがいてもあまり意味がないので、僕は地方へ行くことにした。

<ロスパロスのキング>

 まずディリからミニバスで三時間ほどのバウカウという街へ行った。
 もともとは日本軍が作った飛行場がある。岩をくり抜いた地下基地なども残っている。第二次大戦中、東ティモールは日本軍に占領されていた。
 バウカウから、さらに東に進みロスパロスへ。とても小さな町だ。

 ロスパロスには、宿というものはなく、僕はたまたま独立派のヴェリッシモ氏(六五歳、当時)の家に泊まることになった。ヴェリッシモ氏は、独立派組織CNRT(ティモール民族抵抗評議会)の幹部であり、CNRTの事務所は、彼の家の敷地内にあった。

 彼は、国連関係者のために、ささやかなレストランを営んでいた。おいしいポルトガル料理を出すので、毎日のように国連関係者が食事に来ていた。
 はじめての客は、ヴェリッシモ氏の履歴を聞くことになる。
「私はロスパロスのキングだ」
 氏の家系は神話にもでてくるらしい。東ティモールで一番古い家系だという。
 国連関係者からは”オールド・キング”と呼ばれ、親しまれていた。
 彼は、独立派ゲリラ・ファリンテルの兵士だったこともある。四一歳当時の写真は、いかにも独立の闘士といった面構えだった。彼の三男セザールは、ジャカルタでシャナナ・グスマンのボディガードをしていた。

 そんなヴェリッシモ氏の家に寝泊りし、独立派の投票キャンペーンに同行して、口スバロス郊外の村々をまわった。しかし、出かける度に、民兵に気を付けるように注意された。当初、僕にはCNRTのメンバーは民兵に対して神経質すぎるのではないかと思った。しかし、それは誤りであった。
 
 八月二七日、午後五時三〇分。
 ヴェリッシモ氏宅は武装民兵に襲撃された。

<脱出不可能>

 外の銃撃は止むことがなかった。とんでもない事態になってしまった。
 ベッドの下では女性と子供が一心不乱にお祈りをしている。僕もさすがに成す術がない。相手は自動小銃を乱射し続けているのだ。もはや単なる脅しではない。前日はディリで四人の独立派が殺害されている。民兵は本気だ。見つかれば命はない。

 民兵は、銃撃を加え、家の中を破壊し、火をつけてまわっている。いずれこの部屋も発見される。ドアは開いたままだ。もう、来るに違いない、と思うと恐怖が全身に走る。

 いったいどのくらい時間が経っただろうか。いきなり銃声がやんだ。静寂がおとずれ、いままでの狂気に満ちた銃撃が嘘のようだ。銃弾が尽きたに違いないと思った。数百発は撃っただろう。外に人の気配はなかった。

 すぐベッドの下から出て、他の人たちを探した。いったん外に出た。すでに日は落ちていた。しかし、外は明るかった。裏の木造家屋がすさまじい勢いで燃えていた。裏口から家の奥に入ると、突然A氏が現われた。しかし他には誰もいない。皆無事に逃げたのだろうか。

 子供と女性のいる部屋に戻ろうとした時、裏口の方から、ガラスや皿の破片を踏む音がした。A氏はあっという間に近くの部屋に消えた。一瞬おくれて僕も、そばの棚の裏に隠れた。ここでは隠れたことにならない。後悔したがもう遅い。民兵はまだいたのだ。なんてことだ。しばらく裏口の気配をうかがい、そっととなりの部屋に移った。ベッドが三つあるだけで他に何もない。仕方がない。ベッドの下にもぐった。

 突然、外で銃撃がはじまった。またしても凄まじい銃撃が途絶えることなく続いた。尋常ではない撃ち方に、恐怖がつのった。
 民兵は襲撃の前には、アンフェタミンのような薬物を与えられるという話しを聞いた。外での銃撃は、まさに”キレ”ていた。
 裏口の方で人の動く気配がした。こんどこそ見つかるのではないか。裏口の方が明るくなった。さらに放火したようだ。そして家の中にも火炎ビンが投げ込まれた。リビング内がぱっと明るくなった。
 外は銃撃、内は炎と煙。
 外に出れば間違いなく撃たれるだろう。家の中で火と煙に耐えているほうがましだ。幸い、壁と床はモルタル造りになっているので燃えない。燃えるものは家具、調度品と天井の梁だ。おそらく焼け死ぬことはない。ただ、すべての窓は襲撃に備えて閉じられていたので、煙は外へ逃げずどんどん濃くなっていった。煙を耐えられるところまで耐えるしかない。

 外の銃撃はおさまる気配がない。自動小銃の音に混じって、散弾銃のような音がまじっていた。おそらく手製銃だろう。家の周りの数ヶ所で銃声が響ている。まるで戦争のような連射が一秒たりとも止まなかった。
”ここで殺される!"
”死にたくない。生きたい!"
 頭のなかではそんなことばかりが明滅する。
 しかし、助かる見込みのないことは明白だった。
 狂気の銃撃から逃げられるわけがない。
 天井から煙が濃くなってじわじわ降りてきた。
 体も心も、すでに半分死んでいるような状態だった。
 時間の感覚もなく、ただ死ぬのを待っていた。

 突然、銃声が止んだ。
 そのまま様子をうかがった。さきほど銃声が止んだときは、民兵が去ったものと勘違いして、危うく発見されかけた。できるだけ煙に耐えようと思った。が、それも数分だった。すでに限界にきていた。これ以上とどまると窒息してしまう。

 とにかく銃声は止んだのだ。賭けるしかない。ドアを恐る恐る開けた。煙が外に流れだす。裏で燃える続ける木造家屋の炎で、外はかなり明るい。暗ければどれだけ気が楽だったろうか。意を決して煙とともに外に飛び出す。すぐ目の前に屋外のトイレがある。トイレのドアは外からかんぬきがしてあった。連中はここは調べていないということだ。トイレの中に入った。窓から煙は入ってくるものの、呼吸に支障はない。水槽にはたっぷり水も入っている。ここならかなり耐えられる。そう思うと気分も少し落ち着いた。

 窓から外を何度も窺った。人の気配はない。脱出するなら今だ。いよいよ脱出と思うと、撮りためたフィルムを火の中に置いていくのが辛くなった。僕の部屋は火元から一番遠く、まだ燃えてはいなかった。今ならまだ間に合う。いや、そんなことよりとにかく逃げることだ。
 ちょっとの間、俊順したが、やはりフィルムは捨てていけなかった。家の中を隠れ回っている間もカメラ・バッグを持ったままだった。息を止めて家の中に飛び込み、煙の中を走り、ザックをひっつかんで、すぐ外に飛び出した。
 あとは暗闇に向って一目散に走った。ザックとカメラ・バッグを抱えていては走ったとは言えなかった。二〇メートルも行かないうちに、視界に人の姿が見えた。
”民兵か!”
 全速力で走った。振り返ると、人影が手招きをした。そのまま走ったが、人影は手招きを続けた。人影には殺気がなかった。僕は足を止め、その人の所までもどった。
 彼は黙って、納屋を示し、ここにいなさいという、しぐさをした。
 時計を見ると六時三〇分だった。襲撃から一時間がたっていた。
 僕と主人は長い間、焼けていく家屋を見ていた。
 あたり一体の家々は明りを消し、廃村のように静かだった。

<信用できない軍、警察>

 夜一〇時頃、くすぶり続けるヴェリッシモ氏の家の方から車両の音がした。窓の隙間から、息を殺して覗いた。インドネシア警察だった。一〇人ほどの警官は、一五分ほどいて、去って行った。ほっと胸を撫で下ろした。

 住民は、軍や警察は併合派民兵を強力にバックアップしていると見ている。時として、軍人は私服に着替え、民兵に混じって襲撃の指揮をとっているのだという。もちろん証拠などない。しかし、ほとんど公然の秘密なのだ。
 独立派の住民にとって、警察も軍も、恐怖の対象でしかない。

 真っ暗な納屋の中で一人、まんじりともせず夜を過ごした。頭の中では襲撃時の模様が、エンドレステープのように何度も回っていた。

 翌朝五時、空が明るくなると、再び警官がやってきた。窓の隙問から、ずっと観察した。焼け落ちた家のまわりに、もっともらしくテープをめぐらしていた。しばらくして、ニュージーランドの国連文民警察官の制服が見えた。僕は、納屋から出て、文民警官に事情を説明した。

<A氏と再会>

 UNAMETロスパロス支部の建物に着いて、ようやく助かったんだと実感できた。しかし体には恐怖がべったり張り付いたままだった。

 UNAMETで働くティモール人の通訳から「街中に民兵が俳個している」と聞かされた。国連の敷地から出るのは危険だ。文民警官から事情聴取を受けた。そのあと、僕は最も気がかりなことを文民警官に訊ねた。昨晩の襲撃の犠牲者についてだ。
 犠牲者は一名。
 家長のヴェリッシモ氏だった。全身滅った斬りだったそうだ。
 ヴェリッシモ氏は家族を守るため、民兵に立ち向かったのだと思う。あの場で怯えていなかったのはヴェリッシモ氏ただ一人だった。その姿をありありと覚えている。
 
 昼すぎ、昨夜の襲撃から逃げ延びた人たちが保護されてきた。ヴェリッシモ氏を除く全員がいた。誰もが極度の緊張状態か虚脱状態だった。A氏もいた。幽霊のような表情だった。僕の姿をみとめ、ゆらゆらと歩いてきた。
 力なく握手をし、少し話しをした。
「あれから、どうやって逃げましたか?」
 A氏は、燃える家から脱出したあと、近くの溝の中に潜み続け、明るくなってから教会に匿ってもらったそうだ。
 そしてA氏はこんな言葉を口にした。
「わたしは、あの家の中で、民兵に捕まったのだよ」
 あの状況で民兵に捕まり、無事にすむなど信じられない。
「どうやって逃げたんですか!?」
「連中はわたしを捕まえたものの、すぐわたしを放して、外国のカメラマンの君の方を探したんだよ」
「・・・・・」
「君が先に捕まっていれば、わたしも生きてはいなかっただろう」
 
 襲撃後すぐに写真をあきらめて、つくづく良かった思う。へたにカメラマン根性など出していたら、自分はおろか他の人たちまで犠牲になっていたところだ。

<あらかじめ計画された大殺戮>

 襲撃から生き延び、僕はディリに戻った。
 しかし、投票結果の発表をひかえたディリにも不穏な空気が流れていた。
 BBCやオーストラリアのジャーナリストが民兵に襲われて怪我をしていた。
 開票結果が発表されれば、民兵が大暴れすることは間違いなかった。
 民間機は、不穏な東ティモールへの運行をストップしてしまった。

 負傷者を出したBBCは、国連の開票発表の前日に、チャーター機を呼んで東ティモールを離れた。BBCがいち早く現場を離脱したことで、全メディアが浮き足立った。

一九九九年九月四日、午前九時。
開票発表。於:マコタ・ホテル(現ホテル・ティモール)

独立:三四、四五八〇票(七八、五%)
併合: 九、四三八八票(二一、五%)

開票結果は、ラジオを通じて東ティモール全土にアナウンスされた。
それからしばらくしてディリの街に銃声が鳴り響いた。


<完>
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これは、一九九九年九月に書いたルポを加筆修正したものである。

後の取材で、ヴェリッシモ氏を殺害した襲撃者は十一名であることがわかった。
全員が東ティモール重大犯罪部から訴追されている。
十一名の中には、インドネシア国軍特殊部隊コパススの隊員が二名含まれている。
襲撃者は、このコパスス隊員に指揮命令されて襲撃を行った。
襲撃実行犯十一名に加えて、当時のラウテム県の知事エルムンド・コンセッソンも訴追されている。
襲撃を立案・指示したのは、知事エルムンド・コンセッソンである。
エルムンドは現在、バリ島で悠々自適の生活を送っている。



<参考記事>
PTSD
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ca59f3cc08b6118a5b4d360a3c307308

取材準備:覚悟
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ae549105fb264dc9183b9d135701eba3


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1 コメント

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Unknown (Yegy)
2006-06-28 13:45:06
まさに中司さんが体を張って得たデータですね。

写真などなくても、様子がありありと伝わってきます。

「軍事雑誌に記事を書く、紛争地取材には慣れているはずのカメラマン」が、もう意欲を喪失している状況が、南風島さんの本に描かれていますね。
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