報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

タリバーンのアフガニスタン(5)完

2005年01月06日 09時16分29秒 | ●タリバンのアフガン
──タリバーン or マスード──

 ガズニからカンダハルまでは約300キロ、乗り合いタクシーで24時間もかかる。これは苦しい行程だ。しかもタクシーの後部座席には客を4人詰め込む、そして助手席には2人だ。僕はカメラバッグがあるので、二人分の料金を払って助手席に一人で座った。カメラバッグは膝の上に置いた。暑くてたまらないが、波うつデコボコ道の振動でカメラが壊れて困る。熱風のため、今回も窓は開けられない。この移動で極端に体力が奪われた。

 移動中、お祈りの時間になると車を止め、全員がマッカ(メッカ)に向かってお祈りをした。僕は、日陰でお祈りが終わるのを待つ。何度目かのお祈りのとき、後続のタクシーもお祈りに合流した。お祈りの後、あとから来たタクシーの乗客が、僕に話しかけてきた。黒ターバンなので、タリバーンだ。
 しばらく話をしていると、彼は、
「タリバーンとマスード、どっちがグッドだ?」
 と僕に質問した。困った問いだった。
 マスードとは、対ソビエト戦争の英雄中の英雄だ。ソビエト軍から「パンジシールの虎」と呼ばれ、ひどく恐れられた。欧米のメディアもマスードを大きく取り上げ、欧米でも対ソビエト戦争のヒーローとして広く認知された。日本でも写真集が何冊も出ている。「ランボー・怒りのアフガン」に出てくるムジャヒディンのリーダーもマスードという名前だ。
 しかし、ムジャヒディン同士の内戦に入ってからは、タジク人のマスードは、ハザラ人の村に無差別攻撃をして、大勢の住民を殺害したという報告もある。
 タリバーンが台頭してからは、マスードは北部同盟を結成して、タリバーンと激しい戦闘を繰り返した。
 そのマスードとタリバーンは、どちらがグッドかと訊かれても、
「僕は、ジャーナリストです。ニュートラルでなければなりません」
 と優等生の答えをするしかない。こんな答えは、好きではないが。

 その答えに満足できなかったのか、僕を彼の車のところに案内した。車内には、足にギプスをした若い男が乗っていた。太ももから足先までギプスで分厚く固められていた。精悍な顔つきの若者だった。
「私の弟だ。チャリカールでマスード(軍)に撃たれた。マスードはグッドかね?」
 と再び彼は言った。僕には、答えようがなかった。戦闘では双方が傷つくものだ。
 彼は礼儀正しく物腰の柔らかい紳士だった。彼がそのような質問をしたのは、彼の弟が傷ついたからではないように思う。

 欧米のメディアにとってタリバーンは正体不明の謎の集団だった。それにくらべて、マスードは欧米でもカリスマだった。欧米のメディアは、必然的にマスードに同情的だった。
 しかし、ソビエト軍撤退後のアフガニスタンを、またしても破壊と混乱に導いたのは、マスードやドスタム、イスマイル・ハーンといった軍閥の権力争いだった。治安は極度に悪化し、移動には略奪の危険がつきまとった。庶民にとって、かつてのムジャヒディン(聖戦士)は山賊と変わらない存在となった。
 その内戦を終わらせ、アフガニスタンに秩序をもたらしたのは、タリバーンだった。
 しかし、欧米のメディアはタリバーンを、恐怖政治で国民を抑圧する狂信的なイスラム原理主義者とみなした。
 メディアの報道は、明らかに公平さとは、ほど遠いものだった。
 もし、いま同じ質問をされたら、僕はどう答えるだろうか。

──タリバーンの拠点:カンダハル──

 カンダハルは活気のある街だった。
 といってもここも内戦でかなり破壊されていた。
 泊まった宿も、半壊状態だった。
 そして、ここはタリバーンの指導者ムラー・モハメド・オマルの故郷だ。

 ガズニからカンダハルへの24時間の旅のせいで、僕は極端に衰弱していた。しかし、それに気づかず重いカメラバッグを下げて、毎日カンダハルの街を歩いた。
 宿の向かい側にあるアンティック店のスレイマンという青年と親しくなってからは、よく彼の店でくつろいだ。半壊した宿には、疲れた体を休める空間がなかった。一日中スレイマンの店でごろごろすることもあった。

知り合ってすぐにスレイマンは、
「タリバーンは好きじゃない。オレはモスクにも行かない。タリバーンは怒っているけど、それでも行く気はない」
 とすずしい顔で言った。さすがに、これには驚いた。僕のヒゲや長髪とは次元が違う。ただでは、済まないのではないかと本気で心配した。
 彼の店にはよく人が顔をだした。訪問客とスレイマンと僕とで、巨大なメロンを食べたり、カキ氷を食べたりした。僕は言葉が分からないので、その場で疲れた体を休めているだけだったが、訪問客とスレイマンは、いつまでものんびり話をしていた。
 訪問客はたいていタリバーンだった。タリバーンとスレイマンは、いつものんびり話をしているだけだった。タリバーンが怒ったりするのを見たことがない。彼らはいつも笑みを浮かべながら話をしていた。
 モスクへ行かないスレイマンに対する心配は取り越し苦労だった。

 カンダハルでは、お役所やタリバーンの支部にも行ったが、長髪で洋服姿の僕は、普通にむかえられた。車座になってチャイを飲んでいた初老のタリバーン幹部たちでさえ「日本人かい。まあチャイでも飲んでいきなさい」とにっこり笑って言った。外務省の若いタリバーンは、頼みもしないのに何やら手紙を書いてくれた。後にこの手紙は役に立ったのだが、いまだに何が書かれているのか知らない。
 ムラー・オマルのお膝元、タリバーン発祥の地カンダハルとは、そんな街だった。

──タリバーンとピンクフロイド──

 スレイマンの友人にタリバーン軍のドライバーがいた。その若いタリバーンは車を自由に使える身分だった。おそらくタリバーンの中でもそこそこの地位にあるのだろう。彼はスレイマンと僕を、夕方ドライブに連れて行ってくれた。
 アフガニスタンの風景は、草木もほとんどない荒涼とした大地だ。しかし、それが妙に美しい。日が傾き、暑熱がようやく去ったころ、夕日に染まるアフガニスタンの大地を走るというのは、この上ない贅沢に思えた。
 若いタリバーンはしばらく夕日の大地を走ると、窓を閉めるように言った。なぜ、窓を閉める?昼の暑熱が去り、熱風がやわらかい涼風になったというのに。おかしいなあ、と思った。窓を閉めると、彼は座席の下を探り、カセットテープを取り出した。カーステレオにするりとテープが消えた。そしてスピーカーから大音響の、

 ピンクフロイド

 の曲が流れてきた。
「まさか・・・」
 タリバーンはあらゆる娯楽音楽を禁止しているのではないのか。西洋音楽は堕落と退廃の象徴ではないのか。お前はタリバーンではないのか。そのテープはどこから手に入れたのだ。オレがチクッたらどうするのだ。などという質問をする気にもならないほど、景気のよいピンクフロイドだった。
 対向から砂塵をあげてタリバーンの車が近づいてくると、スレイマンがボリュームをするりと下げた。すれちがうと、またドカーンとピンクフロイドが鳴り響いた。

 我々三人を乗せた車は、夕日に染まる美しいアフガニスタンの大地に、堕落と退廃を撒き散らしながら走り続けた。


タリバーンのアフガニスタン(完)

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3 コメント

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Unknown (mymt804)
2005-03-31 12:53:05
TBさせてもらいました。

タリバンの意外な一面が見れてちょっと変な感じです。ピンクフロイドとは・・・



写真もすごく楽しめました。また遊びにきます。
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メディアのウソ (中司)
2005-04-01 12:37:26
コメント、TBありがとうございます。

タリバーンに関するメディアの報道のほとんどは意図的に歪められてきました。メディアは、タリバーンの実像を報道するのではなく、アメリカが描きたいタリバーン像を、率先して描いてきたにすぎません。なぜなら、タリバーンの実像を報道すれば、爆撃するための大儀のほとんどがなくなるからです。メディアは、大儀のないアメリカの戦争の共犯というしかありません。「タリバーンのアフガニスタン」はタリバーンの実像を少しでも伝えられたらと思って書きました。



女性の教育に関して言えば、タリバーンは決して全面的に禁止していたわけではありません。大っぴらでなければ、女性への教育は黙認されていました。日本に来たアフガニスタンの女性はそんなことは言わないでしょうけど。

女性の教育を妨げている国は、他にもいくらでもあります。にもかかわらず、そうした国が非難されることはありません。なぜでしょうか。つまりアメリカの言いなりになる国は、女性の権利を妨げても非難はされないのです。そういうことなんです。



こうした事実をメディアが伝えることはありません。
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Unknown (タリバンファン)
2005-06-18 00:27:41
私は、山本芳幸さんのネット配信を見てました。中村先生の本も読み

そのほか様々な情報を模索しました。



アメリカカリフォルニア大学へタリバン高官が行って、講演を行った時の内容が

今でもネットで見れます。



教育、についての考えなども話されており

いかに、メディアが間違った報道をしてきたかわかります。



アフガニスタンに爆弾が落とされた日

ただ、ただ、涙が溢れてきました。



”タリバーン”が

爆撃で殲滅させられるほど

”わるいやつら”では無かったという

実際お会いになった中司さんのレポートは

とても貴重だと思います。



今はもう見れませんが、以前、某医療NGOのお医者様の個人HPでも

タリバンは紳士だったと、述べてました。



このレポートが、多くの方達に読んでいただける事を願ってます。







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