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報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

ソンクラン

2005年04月19日 18時55分28秒 | 軽い読み物
日本での出発が遅れたため、
タイの旧正月(4月13日~15日)にかかってしまいました。
仏教歴のタイでは、西暦の正月よりも大事な行事だと思います。
ソンクラン(あるいは水掛祭り)と言って三日間続きます。
前後の土日に挟まれた日は休みとなるので、
一週間以上の正月休みとなるようです。
おかげで、少し足止めを食ってしまいしました。
せっかくなのでソンクランをお届けして、
タイを発ちます。

次号は、いつになるかさっぱりわかりません。























































































お知らせ

2005年04月06日 11時54分27秒 | 軽い読み物
ブログ長期休止のお知らせ

明日四月七日より取材にでます。
長ければ三ヶ月近くブログを休止することになるかも知れません。

これまで、ご来訪いただいた皆様、ありがとうございます。
現地から、なんとか更新できればとは思っていますが、
おそらく、できたとしても数回だと思います。
気長にお待ちいただければ幸いですが・・・
では、行ってきます。

中司達也 相模原にて
多謝

肉屋 イスタンブール

ブログくらべ

2005年03月18日 20時07分42秒 | 軽い読み物

ブログをはじめて、三ヶ月。
ようやく、そこそこ慣れ、ブログというものの特性も分かってきた。
ブログには、まだまだ難点もある。無料サービスではあるが、これは今後、サーバーと利用者が持ちつ持たれつの関係になってくると思われるので、改善点は大いに主張した方がいいだろう。
ブログサービスは、いまのところサーバーにとってまったく利益を生んでいない。にもかかわらず、各サーバーがかなりの設備投資をしているのは、将来的に大きな利益を生むという確信があるからだろう。いま各ブログサーバーは、いかにこれで利益をあげるかを模索中だ。いまは、とにかく、少しでも利用者を獲得して、将来の利益に備えているところだ。

各サーバーのサービス内容や機能は、似たり寄ったりで特に差別化はできない。ただ、写真掲載に関しては、エキサイトブログが抜きんでている。掲載のしやすさ、表示の多様性、簡便さは、文句がない。写真専門のブログは90%以上がエキサイトだ。

僕のこのgooはといえば、写真掲載がかなり不便だ。そのままでは、複数枚の写真掲載ができない。gooブログをはじめたころは、写真を一枚一枚、別投稿として掲載していた。いまは、フリーのツール「エディタはじめますた」を使って、投稿画面を作成しているが、それでも、写真掲載に関しては、エキサイトには遠くおよばない。

この三ヶ月、エキサイトとgooのブログを、作り比べてきたのだが、エキサイトの無料版は容量が30メガしかなく、先ごろ画像容量がほぼいっぱいになってしまった。gooブログの無料版は、画像容量が2ギガあり、まあ、当分はパンクすることはない。gooは機能的な劣勢を、単に容量でごまかしたと言えなくもない。
そのほかの、DoブログとYahooブログも、一投稿だけ実際に作ってみた。写真掲載はどちらも、おまけのようなものだった。

gooブログも、ツールなしで簡単に複数の写真掲載ができるようになってほしいものだ。エキサイトには、かなり未練が残っている。

【映画:アフガン零年】

2005年01月12日 18時12分40秒 | 軽い読み物
──映画を醜い政治の道具にしてはならない──

『アフガン零年:原題オサマ』アフガニスタン/NHK/アイルランド制作
 
 人間の持つ、美しさ、儚さ。
 主人公オサマを演じる少女マリナ・ゴルバハーリの瞳の中にすべてが語られている。
 マリナ・ゴルバハーリ、そしてモハマド・アリフ・ヘラーティ(お香屋)の二人の少年少女は、監督セディク・バルマクの意図を超えて、普遍的な人間の美しさを観る者に伝えている。
 この映画の美しさは、この二人の瞳の奥から生まれている。

 それに比べ、監督セディク・バルマクの意図は不純だ。
 神聖な映画を政治の道具にしようとした。

 この映画の登場人物は、儚い生身の人間として、我々のこころの中に静かに浸透してくる。それに対して、タリバーンの醜い姿は、強引に我々の脳髄の表面になすり付けられる。

 タリバーンはまるで、アメリカ映画に出てくる旧ドイツ軍や旧日本軍、あるいは西部劇のインディアンのように描かれている。人格を持たず、鋳型のように画一的だ。そんな人間がこの世に存在するはずがない。タリバーン幹部は、まるで絵に描いたような悪党づらだ。

 映画が描き続けてきた旧ドイツ軍や旧日本軍、インディアンは実在しない。スターウォーズのダースベイダーが実在しないのとおなじくらいの確率で実在しない。おなじく「アフガン零年」のタリバーンもだ。

 「アフガン零年」は、セディク・バルマク監督の好きなタルコフスキーの映像美に、ジョン・フォードの矮小さを兼ね備えている。
 この映画は美しく、そして酷悪だ。

 セディク・バルマク監督は、ソ連支配下時代にソ連で映画制作を学んだ。タリバーン政権になると、同郷のマスードと合流して、北部同盟のもとで活動をおこなった。どう考えても、タリバーン政権下のアフガニスタンを描くには、適切な人物とは言えない。計画段階から、公平な映画にならないことは明らかだ。この作品は、アメリカと北部同盟の絶対統治下で作成された。

「アフガン零年」を観た人は100%タリバーンに嫌悪感を持つだろう。持たない方がおかしい。
 この映画は、ナチス・ドイツ下のユダヤ人を描いたようなものだ。絶対悪のナチス、成す術のない清いユダヤ人。そう置き換えてもおかしくはない。観客にスムースに受け入れられる黄金パターンを踏んでいる。
 明らかに政治的意図を持った作品だ。

 しかし、北部同盟の元ムジャヒディンこそが、内戦でアフガニスタンの国土のほとんどを破壊し、人々を飢えと貧困の淵に追い込んだのだ。もし、ムジャヒディン同士が醜い権力争いの内戦をはじめなければ、タリバーンはこの地上には現れてはいないのだ。タリバーンが人々を内戦の苦しみから解放した。それともタリバーンより、内戦の方がマシという根拠でもあるのだろうか。タリバーンが出現した途端、北部同盟を結成するくらいなら、はじめから内戦などするな。愚か者。

 しかし、強者が歴史を作る。
 ドレスデンの空爆やヒロシマ、ナガサキの原爆投下、インディアンの虐殺と土地の略奪は、歴史の中で不問にされ続けている。勝者の犯罪が問われることはないのだ。北部同盟の犯罪が語られることはなく、アメリカ軍がイラク市民を日々殺戮している事実も、現在進行形で不問にされている。

 映画は、歴史を歪曲する犯罪に加担させられてきた。
「アフガン零年」もそのうちのひとつだ。

 しかしそれでも「アフガン零年」は美しい映画だ。
 この映画のもつ美しさは、マリナ・ゴルバハーリとモハマド・アリフ・ヘラーティの持つ普遍的な瞳の輝きによってこそ生まれている。

 セディク・バルマク監督はこの二人を利用することに失敗した。アフガニスタンの苦境を生き抜いてきた二人の少年少女が、アフガニスタンの外で生きてきたバルマクを利用してしまったのだ。

 神聖な映画を、チンケな政治の道具に落しこめようとしたセディク・バルマク監督は恥を知るべきだ。
 

【コスモス】

2004年12月30日 18時36分55秒 | 軽い読み物
 人類の歴史は、あとどれくらい続くのだろうか。
 1000年、1万年、100万年、1億年・・・
 
 地球の寿命はあと50億年らしい。
 太陽の寿命があと50億年だからだ。
 50億年か・・・
 僕には、50年後の世界でさえ想像できない。

 はるか未来の人類は、歴史の授業で20世紀、21世紀の世界をどう講義しているのだろうか。
 民主主義や資本主義、市場経済は、完成された偉大な発明として記されているのだろうか。
 それとも、われわれが歴史を見るときのように、ひとつの教訓として記されているのだろうか。

 いまの世界を、簡単に表現すると、
『世界人口の20%が地上の富の80%を独占し、底辺の20%が世界の総収入の1%を分け合っている』
 ということになる。

 果たしてこれが、偉大な発明の結果だろうか。
 人類の歴史とは、いまのところ富の奪い合いでしかない。
 世界中で貧者と富者の格差は広がっている。
 もちろん、日本でも今後急速にすすむだろう。
 もしかしたら未来の世界とは、1%の強者が世界の富の99%を支配している世界なのかも知れない。
 そして、残りの99%の人々が、わずか1%の富を分け合ってくらす。
 それとも未来の人類は、富を公平に分配し、共に繁栄し、平和に暮らしているのだろうか。
 
 もちろん、考えても答えは出てこない。
 われわれが唯一知っている未来とは、いつか地球は太陽に飲み込まれて消滅する、ということだけだ。
 その日を、人類はどのように迎えるのだろう。
 最後の日まで、やはり奪い合いをしているのか。
 それとも、この惑星に生まれたことを喜びつつ迎えるのだろうか。
 それは、いまを生きる続けるわれわれ次第なのかも知れない。

白夜と白い騎士

2004年12月24日 12時40分35秒 | 軽い読み物
 純白のホワイトナイトが、モハベ砂漠の滑走路を滑っていった。胴体には、同じく純白のスペースシップワンを抱いている。スペースシップワンは、いまから民間商業宇宙飛行開拓に向けた弾道飛行に挑戦する。「人間三人を、地球から100kmの地点へ運び、それを二週間以内にもう一度行えば」賞金1000万ドル(アンサリⅩプライズ)が入る。スペースシップワンのプロジェクトには2000万ドルが費やされた。賞金で費用の半分を回収できる。商業宇宙飛行が実際に開始されれば、運賃は10万ドルから20万ドルになる。
 運搬航空機ホワイトナイトから切り離されたスペースシップワンは上空100.1kmまで達し、15分間の無重力を体験して、地球の引力圏に戻ってきた。というより落ちてきた。


『銀河鉄道の夜』
 このタイトルを初めて目にしたのはいつだっただろうか。たぶん、十代半ばの頃だったと思う。詩人宮沢賢治が、大宇宙への憧れを持っていたかどうかは知らない。そんなことよりも、十代半ばの僕には、これは本当に日本語なのだろうか、と思ってしまうほど、衝撃的な言葉だった。この短いタイトルに頭がクラクラした。それは30年経った今でも変わらない。このタイトルは言葉を超えた何かだ。

 ただ、宮沢賢治の書くものは、中学の僕には馴染みやすいとはとても言い難かった。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」。『永訣の朝』の一節だったか。解説なしでは、この意味を測ることは到底できない。「アメニモマケズ、カゼニモマケズ・・・、ヒガシニソシヤウガアレバ・・・」。これだけしか知らない。「カムパネルラ」という名前は、黙読しているのに、必ず詰まった。「カンパネルラ」と読むべきだったのか。

 言葉は時代と共に変化する。どんなに美しい文章も、つぎの時代まで生き残れるという保証はない。偉大な詩人宮沢賢治の文章も、十代半ばの僕が読んだ頃で、すでに感覚が違っていた。
 宮沢賢治の最高の作品とは、この一編の「タイトル」だと思っている。


 スペースシップワンを宇宙空間に送り出す純白の運搬航空機ホワイトナイトは、一見バルサ材の模型飛行機のように見える。その姿をはじめて見たのは、タイの英字新聞バンコク・ポストに掲載された写真だ。その写真を見たとき、とても本物の航空機とは思えなかった。翼を持って振り回せば、ポキッと折れてしまいそうな感じだ。
 しかし、記事を読んで、これが世界初の民間商業宇宙飛行の実現に向けた、最初の挑戦であることを知った。いよいよ、そんな時代が来たのか。とは思いつつも、あまり興味は持てなかった。15分間の無重力体験だけではつまらない。弾道飛行とは、つまり、空に向けて放った弾丸が、ポトッと落ちてくるのと同じだ。
『銀河鉄道』とはほど遠い。


「交響楽を文章で表現したい」
 宮沢賢治は、そのようなことを、何かに書いていた。十代半ばの僕は「そんなもん無理じゃ」と、読んだ瞬間に否定したことをよく憶えている。音楽を文字で綴ることなどできるだろうか。
 確かに文章と音楽とは、よく似ている。というより、音楽は、文章の手本だ。文章にも序破急や緩急が欲しい。しかし、黙読される文章に、どこまでリズムやテンポ、フォルテシモやピアニシモ、あるいは転調を付加する必要を認めるか、それはすべては書き手の欲求しだいだ。
 しかし、音楽そのものを文章で表現するとなると話は別だ。十代半ばの僕が読んだ限りでは、宮沢賢治の文章には、音楽的なものは感じられなかった。音楽を言葉で綴るなど、夢想だ。


 漆黒の宇宙へスペースシップワンを送り出す発射機の名前が「白夜」。「漆黒の宇宙」と「白夜」。美しすぎる対比だ。この対比によって、「ホワイトナイト」という言葉は大きな広がりをもつ。弾道飛行には、ほとんど興味を持てなかったが、「ホワイトナイト」は、すばらしいネーミングだと思った。

 数日後、カオサンの裏通りで晩飯のカオパットを食べながら、まだ僕はそのことにとらわれていた。しかし、カオパット食べながら、ふと、「ナイトにはもうひとつあるな」と思った。nightknight。バンコク・ポストの綴りがまったく記憶にない。
 White nightWhite knight か。いや、White night に決まっている。それ以外考えられない。
「白い騎士」?。スペースシップワンを漆黒の宇宙へエスコートする「白い騎士」。話にならない。そのままだ。そんなネーミングはありえない。

 ゲストハウスに戻ると、とっくの昔に番犬の使命を忘れた白毛のリィウが、シャッターの前にころがっていた。薄暗いラウンジの隅にバンコク・ポストが乱雑に積んである。ひとけのないラウンジでその山を探った。
 6月23日のバンコク・ポストの9ページに、バルサ材の優美な機体があった。
キャプションには、
”LEFT : SpaceShipOne and launch plane White Knight ・・・”
 とあった。
 まさか・・・
 感心して損した・・・
 バンコク・ポストを丁寧に積み上げて、寝た。

 それから一週間ほどして、部屋で洗濯をしている時、ふと気になった。
 white night は本当に「白夜」なのかと。洗濯を終えてからパソコンの辞書を引いた。そしてこのように出てきた。

 whíte níght
 white night
 ━ 【名】
 【C】 眠られない夜.


 眠られない夜・・・。
 では「白夜」は英語でなんというのか。
「白夜」を引くと、midnight sun と出た。真夜中の太陽・・・。
 ややこしい。
 頭が真っ白になってきた。
 

 宮沢賢治が生きた時代、スペースシップワンもなければ、ホワイトナイトもない。ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた星雲の神秘の美しさも知らない。土星の環は一本しかなく、スプートニクは、まだ土中の砂鉄にすぎなかった。あるのは、満天の星空だけだ。
『銀河鉄道の夜』
 宮沢賢治は宇宙へ馳せる思いから、この言葉を綴ったのだろうか。いや、そうではないと思う。彼は、自分の思いを、直接的な言葉を使って表現するような詩人ではない。
 文字は、単なる記号にすぎない。その記号に無限の広がりを与え、冬のシリウスのように瞬かせるのは、限りなくほとばしり続ける書き手の思いだ。そうして綴られた言葉こそが、時代を越えて、人のこころの奥深くに刻み込まれる。
『銀河鉄道の夜』
 このたった三つの名詞と一つの助詞の中にこそ、あらゆる交響楽の音符が籠められているのではないだろうか。

アフガン不法潜入を試みた若者

2004年12月23日 16時30分53秒 | 軽い読み物
 僕がパキスタンで、アフガニスタンビザの手続きをしていたころ、アフガニスタンに不法潜入しようとして、パキスタンの国境警備隊に捕まった日本人旅行者がいた。

 僕は、ラワール・ピンディの有名な安宿ポピュラーインに泊まっていた。ホテル・ポピュラーインは、常にバッグパッカーであふれていた。そのうち日本人が2~3割を占めていたように思う。一階のレストランのメニューには、オムライスもあった。日本人旅行者から教わったらしい。マトン中心のパキスタンの料理の中で、このオムライスはけっこう光っていた。
 日本人が多い宿といっても、タイやインドのようにひしめいている訳ではなく、日本人同士の交流は比較的円滑に行われていた。

 どこから来て、どこへ行こうとしているのか、というのが旅行者同士が会ったときの、まず最初の話題だろう。お天気から入ることはまずない。見知らぬ同士がすぐに会話できるところが、旅のいいところだ。まわりに日本人しかいない日本での方が、かえって知り合う人が少ない。
 また、旅では日本ではめったに出会うことのない多くの人が目の前に現れる。旅は人間の見本市に出かけるようなものなのかもしれない。放っておいてもいろんな人が前を通りすぎていき、自然に人間観察ができる。

 ホテル・ポピュラーインに着いた日、一階のレストランで髭づらの日本人が話しかけてきた。少し話をしたあと、髭づらの男は、僕の名前を訊いた。
 僕は名乗り、そして相手の名前を訊き返した。
 すると髭づらの男は、
「ハッ、タイチョーであります」
 という芝居がかった口調で言った。
「タイチョー?」
「ハッ、そうであります」
 ま、いいや。自分を社長と名乗る旅行者もいた。タイチョーがいてもいいだろう。そのうちショーグンも現れるかもしれない。タイチョーは、話す頭にたいてい「ハッ」とつけた。
「いま、わが隊の隊員がアフガニスタンへむかっているところであります」
 突然、タイチョーさんはそんな話をはじめた。
「ビザが取れたんだ」
「ハッ、ビザは取っておりません。不法潜入作戦であります」
「不法潜入・・・作戦?」
「ハッ、アフガニスタン人に変装して潜入します。明日あたり国境を越えるものと思います」
 呆れたもんだ。こちらは、明日、日本大使館へ行って、身分証明のレターの交渉をしなければならないのに。
「国境で捕まるに決まってるだろ」
「いえ、大丈夫であります。アフガン人は、国境はフリーパスです。変装すれば、なんなく国境を通過できます」
 そんな簡単なものなのかね。あまりこういう手合いとは話をしたくなかったが、タイチョーさんは勝手にしゃべり続けた。
「わが隊は、世界中で作戦を展開してきました」
 タイチョー殿は、現地で徴兵した日本人を連れて、「砂漠のなんとか作戦」と大層な名前をつけて、水だけ持って砂漠や山へ行くらしい。サクセンといっても、適当に歩いて日帰りで帰ってくるだけだのことらしい。要するに弁当なしのハイキングだ。そのほかのサクセンは忘れた。覚えておくほどの価値もない。
 タイチョー殿は30歳くらい。髪の毛はバサバサで濃い髭づらのむさ苦しい男だった。軍服は着ていない。軍隊経験もない。
 しかし、案外バックパッカーはこういうマガイモンをちやほやする。それがタイチョーさんにはたまらない快感らしい。いかに支持者が多いかを、得意になって話していた。
 まあ、勝手にしてくれ。意見する気もないし、関わり合いになる気もない。

 翌朝、日本大使館へ行こうと、一階のレストランへ降りると、タイチョーがレセプションにいた。
「さっき、不法潜入を決行しようとした隊員から電話がありまして・・・、パキスタンの国境で捕まったらしいです」
 そうかい、僕の知ったことではない。君たちの問題だ。
「そんな奴は、オレは助けるつもりはないね」
 それだけ言って、僕は日本大使館へ向かった。人が正面玄関からちゃんとノックをしてアフガニスタンへ行こうとしているときに、迷惑な話だ。日本大使館で、身分証明のレターの発行を交渉するついでに、日本人旅行者がアフガニスタンへ不法入国しようとして、パキスタンの国境で捕まったらしいと報告しておいた。

 その次の日の朝にも、捕まった隊員からホテルにいるタイチョーに電話があった。電話連絡が許されるということは、まず身の危険はない。
 僕を見つけると、タイチョーは必要もないのに報告した。 
「野郎は、このままでは警官にカマを掘られてしまうと、怯えています。今日は署長室に泊まれと言われているようです」
 君の隊員のケツのことなど、僕の知ったことではない。タイチョーのあんたが何とかすればよろしい。
「野郎は半泣きになって、大使館へ連絡してくれと叫んでました」
 じゃあ、行けばいいだけの話だ。
 バカバカしいので、僕は自分の部屋へもどった。
 ドアを開けっ放しにして、ベッドに横になった。パキスタンの夏は、室内でもチーズが溶けそうなほど暑い。
 そこへ、すぐにタイチョーが現れた。ただでさえチーズも溶けそうなほど暑いのに、髭づらのむさ苦しいタイチョーがくると、部屋の中は鉄まで溶けそうになった。
 タイチョーはドアのところに突っ立って、大切な風をさえぎりながら、
「どうしましょう・・・」
 と弱々しく言った。僕ではなく、壁に向かって話しかけているようだった。普段のタイチョー口調はとっくになくなっていた。
「オレとは関係ないよ」
 と僕は、再度はっきり言った。
 おとついまでは「ハッ、不法潜入作戦であります」などと得意満面で自慢していたではないか。あのときの威勢はいったいどこへいったのか。ドジを踏んで捕まったとたん、会ったばかりの相手に泣きつくとは、どういうことだ。筋違いもはなはだしい。そもそも取り巻きがいっぱいいると自慢していたではないか。
「どうしましょう・・・」
 タイチョーはそれしか言わなかった。さらに声はか細くなり、口は半開きになり、ドアのところでほとんど放心状態だった。
 いつまでも部屋の前に突っ立ているので、イライラして、
「大使館に行けばいいだろ。土曜でもたぶん誰か日本人がいるさ」
 と僕は言った。
 なんとそれでも、タイチョーは、
「どうしましょう・・・」
 しか言わなかった。タイチョーさんの頭の中はどうなっているんだ。
 永遠に僕の部屋から出る気配がないので、ついに頭にきて、
「ならオレが行ってやる」
 と言った。というより、言ってしまった。たぶん、あとで必ず後悔するだろうなという予感があった。が、言ってしまったものは仕方がない。たぶんタイチョーさんは、ほっとけば夜まで「どうしましょう・・・」と幽霊のように、僕の背後に付きまとっただろう。それこそ、たまったものではない。

 一人で大使館へ行くつもりだったが、タイチョーは急に元気になりヒョコヒョコついてきた。ラワールピンディからイスラマバッドまでバスで20分。イスラマバッドでミニバスに乗り換えて10分。簡単な経路だ。
 大使館は、土日は休みだが、それでも一人くらいは日本人スタッフが詰めているのではと思ったのだが、誰もいなかった。
 守衛が電話で日本人スタッフを呼んでやるといって、何本か電話をかけた。ちょっと嫌な予感がした。30分ほどして、一台の車が大使館にやってきた。嫌な予感は的中した。後部座席には、女性と子供が乗っていた。家族でどこかへ遊びに行っていたに違いない。そうなるとわかっていたら、僕はさっさと帰っていた。大切な休日をつぶすほどの問題ではない。

 来てしまったものは仕方がないので、事情を説明した。大使館員は真剣に応対してくれた。とても感じの良い人だった。概要を説明したあと、細かいところはタイチョー本人から説明させた。
「捕まった人の名前は?」
「モリヤマ・×××です」
「モリヤマのモリはどの字ですか」
 タイチョーは隊員のフルネームを漢字で書いた。
「捕まった場所は?」
「ハッ、ペシャワールからカイバル峠を越えた国境です」
 おや?タイチョー口調がもどってきた。
 なるほど。タイチョー殿は大使館へ行ったら大目玉を食らうものと怯えていたに違いない。大使館員の態度が、丁寧なので安心したのだろう。だんだん態度がでかくなってきた。この程度の男なのだ。
「捕まったのは警察ですか?」
「ハッ、KKHと言ってました」
「KKH?何の略ですか?」
「さあ・・・」
 頼りにならねぇ。
「トルカムのボーダーですから、そこの警察でわかるのでは」
 と僕は言った。
「分かりました。すぐ調べてみます。そちらの連絡先は?」
 僕はこれ以上関わりたくないので、タイチョーに名前を教えるように言った。タイチョーは威厳を持って名前を告げた。
 大使館員は最後に、
「ところで、やはりサルガンセキですか?」
 と訊いた。
 当時は「猿岩石」ブームの全盛期だった。猿岩石の猿マネをする若者たちが、トラブルを起こしてはすぐ大使館に駆け込み、世界中の日本大使館を悩ませていた。タイチョーは何も答えなかったが、内心”そんなものと、いっしょにしてもらっては心外である。これは立派なサクセンなのである”と思っていたかもしれない。
 タイチョーはこれで、ひと仕事すんだというお気楽な表情になっていたが、大使館員はこれからが大変なのだ。タイチョーは、大使館に迷惑をかけることを意にも介していない様子だった。もちろん、家族の休日が台無しになったことも。
「ご面倒ですが、よろしくおねがいします」
 なぜ、僕が言わなければならないのか。

 その日の夜8時ごろ、大使館からホテルに電話が入った。ホテルのスタッフに呼び出され、タイチョーが電話に出た。タイチョーは電話を切ったあと、いつもの口調で、
「大使館からです。野郎の居所がわかったそうです。あした釈放されます」
 と僕に言った。
 タイチョーを連れて大使館へ行ったのがまだ午前中だった。大使館員は、それから夜までずっと各方面に電話を入れ、モリヤマの居所を突き止め、釈放の交渉も済ませてくれたわけだ。その間約10時間だ。そして家族の休日は丸つぶれになったというわけだ。優秀なタイチョー殿とその有能な隊員の不法潜入大作戦のせいで。
「あしたモリヤマが帰ってきたら、スシくらいおごらせますから」
 とタイチョーは言った。
 頼むから、もう僕にかまわないでくれ。
「モリヤマが帰ってきたら、日本大使館に出頭させろ、わかったな」
 タイチョー殿は、僕が何を言っているのか理解できなかったようだ。大使館員は、税金で食ってるのだから、このくらい当たり前だとでも思っているのか。たぶん思っているだろう。

 翌日、ホテルの一階で晩飯を食べていたら、紺色のシャルワルカミーズ(アフガン服)を着た若者が突然話しかけてきた。釈放された有能な隊員モリヤマだ。
「どうも、タイチョーから話を聞きました。ありがとうございます」
 一応、口調は丁寧だったが、何かが不満とでも言いたげな感じだった。目に表情がなく、ずっと斜め下しか見ていなかった。
 僕は、話す気もなかったが、目の前に座られては仕方がない。
「で、どうだったんだ」
 とだけ言った。
「留置場はすごいところでしたよ。大勢いる中にぶち込まれました」
 で、そこでもカマを掘られそうになったのか。
「人の叫ぶすごい声が奥から聞こえてくるんですよ。拷問されてるんです」
 モリヤマはいかに凄まじいところにぶち込まれ、かつ、その中で自分はいかに平然としていたかを、強調しようとしていた。半泣きになって、タイチョーに電話してきたことなど、とっくに彼の大脳皮質からは消滅しているようだった。丁寧な口調もほんの最初の方だけだった。彼の話を冷たく聞き流す僕に、苛立っているようだった。英雄あつかいしてくれると思っていたのだろうか。
「アフガニスタンで捕まるならわかるけど、なぜパキスタンが捕まえるのか納得できない」
 とモリヤマは言った。
 不当逮捕とでも言いたいのかね。モリヤマは自分の行為を正当化しはじめた。このタイチョーにして、この隊員ありと言うしかない。
「これから、みんなで出所祝いをするんですよ。いっしょに行きましょう。おごりますよ」
 とてもありがたい申し出だが、とっとと僕の前から消えてくれ。
「メシはもう食ったからいい。それより、あした日本大使館へ行ってこい。いいな」
「わかってます。大使館から来いと言われました」
 本当にわかっているのか。
 不法潜入を当たり前のことと思い、パキスタン側で捕まったことに納得できない程度の前頭前野の持ち主だ。
 あと二日ブタ箱に放り込んでおけばよかったと本気で思った。

 その夜、優秀なタイチョーと有能なモリヤマ隊員、そしてこのすばらしい武勇伝をはやしたてる知性豊かなバッグパッカーたちは、一晩おおいに盛り上がったことだろう。
 以後、タイチョー殿もモリヤマ隊員も、二度と僕に話しかけてこなかった。彼らが僕にできる最善の行為ではある。

 モリヤマは、いたるところで、この件を「武勇伝」として吹聴してまわっていた。その後何人もの旅行者から、モリヤマの話を聞かされた。彼らは等しくモリヤマの武勇伝を褒め称えていた。不法潜入に共感しているようでは、お話にならないが、一応、モリヤマ隊員が話さなかったであろう部分は補足しておいた。君たちの英雄殿は、カマを掘られると本気で恐怖し、日本大使館へ連絡してくれ!と半泣きになって電話してくるほどの、強靭な精神力と魅力的なケツの持ち主であると。

 数ヶ月のち、モリヤマ隊員をタイのバンコクで見た。あちらも僕を見たはずだ。テーブルは1メートルと離れていなかったから。紺のシャルワルカミーズが彼のトレードマークなのか、タイでも同じ服装をしていた。視線を斜め下に落としているところもパキスタンの時と同じだ。ひとりでいるときの彼は、自信の欠けらもうかがえなかった。まばゆいカオサン通りのネオンの中で、どこか、追い詰められた小動物のような表情をしていた。いったいモリヤマ隊員は誰に追い詰められているのか。
 たぶん、自分自身だ。

【シティ・オブ・ゴッド】

2004年12月14日 17時41分50秒 | 軽い読み物
──Rio de Janeiro──

 リオ・デ・ジャネイロとは「一月の川」という意味だ。
 街の名前になるくらいだから、どこかにりっぱな川が流れているに違いない。しかし、リオをくまなくマウンテンバイクで走り回ったつもりだったが、記憶をたぐってもどこにも川が見当たらない。行動範囲には川はなかったのだろう。
 ただ、くまなくと言ってもリオでは制限がある。へたに行動範囲を広げると、ファベーラに侵入してしまう。
 ファベーラとは、スラム街の総称だ。
 リオには、大小約600ものファベーラがあるとブラジルの雑誌に書いてあった。

──ファベーラ──

 華やかなリオの景観の中で、ファベーラだけはモノトーンの光をたたえている。しかし、そのモノトーンも意識の中で少しずつ退色し、いつしか透明になり存在すら忘れてしまう。

 ファベーラは、20~30戸の小さなものもあれば、何千戸という巨大なものもある。ブラジルの工業化とともに都市に集中した人口がファベーラを形成した。山の斜面を中心に、無秩序に伸び、長い時間をかけ、少しずつ増殖していった。ファベーラは、ひしめき合いぎっしり詰まっている。
 家屋の作りはブロックを積んだだけのようだが、案外建てつけはしっかりしているように見える。電線や水道は勝手に引いてくるようだ。勝手に引いてこられた電線やパイプから、また誰かが勝手に継ぎ足して、我が家に引く。下水はどうなっているのか下界から見た限りではわからない。衛生環境は悪いに違いない。
 どこからどこまでがひとつの家屋なのかさえ見分けられない。ひとつに見えるものが、三つの家なのかもしれないし、あるいはファベーラ全体がひとつの家なのかも知れない。入って見なければ誰にもわからない。

──ガキ軍団──

 僕が住んでいたのは、ボタフォゴという静かなエリアだった。となりのコパカバーナのような華やかさや賑わいはないが、観光名所パゥン・ジ・アスーカゥ(砂糖パン)の一枚岩の山が美しく見える場所だった。ブラブラ散歩をするには丁度いい地区だ。

 散歩をしていると、よく子供に声をかけられた。子供に限らずブラジル人は、気軽に人に声をかける。なぜか大人との会話はほとんど記憶にない。われわれ大人は想像力が貧困なのだろう。

 あるとき、ボタフォゴの街を散歩していると、黒人の少年が後ろから話しかけてきた。ほかに5人ほどいた。歩きながら話をしていると、
「前を歩いてるオバハンのバッグを盗ってみせるぜ」
 と唐突に少年が言った。
 ニコニコしているので冗談だと思ったが、少年は僕を置き去りにして、女性に近づいて行った。少年はいくつくらいだろうか。女性が小脇に抱えたバッグの位置より、少年の背丈は低かった。小脇のバッグをちょっとながめてから、後ろからあっさり抜き取った。そして仲間と笑いながらバッグをパスした。おろおろしながらも、バッグを取り返そうとする女性をからかいながら、最後にバッグを高く放り投げて、道路の反対側に走っていった。
 このときは実際に盗るのが目的ではなく、外国人の僕に、あざやかな手際で窃盗ができるところを見せたかったのだろう。腕前と度胸を示す単なるゲームだった。僕の方を見て、飛び跳ねながら駈けていった。
 このくらいのことは、いつでもどこでも簡単にできるということなのだろう。彼らが食いっぱぐれることはないのかもしれない。

──ファベーラ──

 リオのファベーラは、およそ23万世帯、約100万人。リオの人口の五分の一だ。およそ建物が建てられそうな斜面は、すべて埋め尽くされている。すでに超過密状態だ。いまは、リオ郊外で増殖しているようだ。
 山のふもとの市街地もところによってはファベーラ化している。増殖して、せまりくるファベーラの圧力に、一般住居地域の住人が押し出された。借り手がいなくなり空家になったままのアパートや住居に、ファベーラの住人が浸透していった。浸透された街は、独特の荒廃した雰囲気を持つ。しかし、明確な境界線があるわけでもなく、へたをすると迷い込むことになる。
 マフィアやギャングの大規模な抗争や警察の掃討作戦が展開されると、警察軍が道路を封鎖するので、そこがファベーラとの境界だと分かる。

 ファベーラの外観はどこも同じモノトーンだが、中身はひとくくりには語れない。一般的には、犯罪者の巣窟と思われている。
 軍隊並みの武器とメンバーを持つ麻薬マフィアもあり、そうした犯罪組織に制圧されたファベーラは、警察権もまったく及ばない。最大のマフィアは、麻薬取引で一日に百万ドルも稼ぐという記述もあるが、真偽のほどは定かではない。
 逆に、NGO団体と協力して、生活環境や教育環境の改善に取り組む、犯罪とは無縁のファベーラもある。リオ市民には、こうした取り組みはほとんど知られていない。
 600もあるファベーラを、細かく色分けすることは不可能だ。リオ市民にとって、ファベーラはあくまでモノトーンの世界なのだ。

──ガキ軍団──

 僕の住んでいたボタフォゴ・ビーチは、美しい景観とは裏腹に、水の汚染はひどかった。泳ぐときはとなりのコパカバーナかイパネマへ行った。リオの波は非常に荒い。侮って溺れかけたことがある。

 そのコパの荒波で、体ひとつで波に乗っている子供がいた。波に乗るといっても下半身は水の中だ。あまりにも楽しそうなので、子供のところまで泳いでいって、波の乗り方を教えてもらった。
 大きな波が来るのを待ち、波が大きくもり上がりはじめると、一気に泳ぎだす。そして急降下するスーパーマンのような姿勢をとる。絶壁から滑り落ちていくようだ。水中翼船の原理で、上半身が波から少し浮く。不思議な感覚だ。あとはスーパーマンも追いつけない。波打ち際まで体が運ばれると、泡の中で失速する。こりゃ楽しいぜ。これを知っていれば溺れなくてすんだのに。二人でえんえんとボディサーフィン?を繰り返した。

「おっさん、どこに住んでる」
「ボタフォゴ。お前は?」
「家はない」
「パイ、マイ(とうちゃん、かあちゃん)は?」
「いない」
「どこで寝てる?」
「ナ・フア(路上で)」
「一人でか?」
「仲間と」
 ひとしきり波乗りを楽しんだあとの会話としては、少し重かった。

──ファベーラ──

 ファベーラは過密状態で空きがないのか、海岸の護岸ブロックにビニールと板でカプセルホテルのようなスペースを作っている人たちもいる。あるいはファベーラは一元さんはお断りなのかもしれない。
 護岸ブロックに住んでいる人たちは、ムール貝を採って、レストランに売っていた。ムール貝は護岸ブロックに無尽蔵にはりついていた。
 僕も釣りのついでに、よくムール貝を採ったが、いつしかカプセルホテルの住人が、ボイルに使う石油缶を貸してくれるようになった。火を炊き石油缶で多量のムール貝を茹でて殻を剥いた。カプセルホテルの住人は、気さくな人たちだった。

 リオは海に近いほど高級アパート地帯で(護岸ブロックは除く)、逆に高度が増すほど、あるいは山の奥になるほど貧困の度合いも高くなる。
 ところによっては、山際の高層アパートの目の前の山にファベーラが広がっていたりする。アパートを建てたときは、ファベーラはなかったのだろう。朝の挨拶ができるくらい近い。
 そうしたアパートに、ファベーラから弾丸が飛び込んでくることもある。そういうニュースを一度だけ見た。三発ほど部屋に撃ち込まれていた。
 リオの日本人学校は、もっと怖い。学校の三方をファベーラに囲まれているので、毎年のように弾丸が飛来する。「昨年度は、校舎内に1発、理科準備室のベランダ側木製ドアに1発、職員用駐車場及び第2グランドに各1発着弾。授業中断による非難行動は93回」そんな具合だ。
 たいていは麻薬マフィアの抗争や、警察との銃撃戦の流れ弾だが、酔っ払いやジャンキーが面白半分で撃たないとも限らない。あるいは、誰かの浮気が原因かもしれない。

 僕が住んでいたアパートでは、四件どなりの部屋の男が、自分の部屋のドアに銃弾を撃ち込んだことがあった。
 予算のない三文アクション映画の銃声とそっくりだった。
 パァ~ン。
”まさか、いまのは銃声じゃないよね”
 しかし、あとで見ると、そのドアには新しいのぞき穴がしっかり開いていた。ちょっと変な位置だった。体が柔らかいのだろう。アパートの住人はこのくらいでは誰も驚かなかった。警察も来なかった。「奥さんの浮気だってさあ」「ふ~ん」それで終わり。本人は命がけなのにね。
 リオのアパートは、外からも内からも銃弾が飛んでくる。

──ガキ軍団──

 リオで観光客が注意すべき犯罪は、路線バス強盗だ。
 これはもっぱら「ガキ軍団」の仕事だ。
 年齢は10歳以下、人数は5~10人くらい。
 大人は路線バスはあまり狙わないようだ。小銭しか稼げないうえに、大勢に顔を見られるからだろう。ガキ軍団はそんなことは気にしない。子供はすぐ成長して顔が変わる。
 ガキ軍団は、始発の路線バスを狙う。始発なら乗客がそこそこ乗り込んだところを見計らって襲撃できる。ちびっ子には客が多すぎても困るのだ。彼らは、バスの前後の出入り口から、刃物を手に乗り込み、乗客をはさみうちにする。そして順番に金品を巻き上げ、案外余裕で逃げ去る。彼らが捕まったという話は聞いたことがない。警察も小銭などかまっていられない。他の凶悪犯罪があまりにも多すぎる。

 ちびっ子ギャング団はストリート・チルドレンだが、ストリート・チルドレンが、みな犯罪に関わるわけではない。
 おとなしい子供たちは、ゴミあさりと物乞いだけが生きる術だ。僕のアパートの近くにいた少年は、普段は明るくて屈託なかったが、時には人生の終焉がせまっているかのように憔悴しきっていた。近くの公園にたむろしているグループは、シンナーを吸いセトモノのような眼をしていた。彼らは10歳にもならないうちに未来のほとんどを剥ぎ取らている。

 観光都市リオの景観を損ねるとして、彼らを「掃除」する専門集団も存在する。たいていは警察官の秘密グループだ。商店主などから報酬を得て掃除を請け負うというが、実態が解明されたことはない。暗殺者は、路上にかたまって寝ている少年少女を、官給の拳銃で撃ち殺していく。
 リオに約2500といわれるストリート・チルドレンは、未来どころか、明日目覚めるかどうかもわからない。
 
 ストリート・チルドレンの殺害で、終身刑を受けた元警官は、
「奴らはゴミだ。もし刑務所を出ることがあったら、またやってやるさ」
 と平然としていた。
 闇の警官たちは、金のためだけに子供を撃ち殺しているのではないということだ。彼らの凄まじい憎悪はいったいどこからくるのだろうか。

──ファベーラ──

 禁断のファベーラに、一度だけ誤って踏み込んだことがある。
 マウンテンバイクで走るのも好きだったが、見知らぬ通りをあてもなく歩くのも好きだった。
 ある日、未知の通りを曲がると、上り坂になっていた。そのまま坂を上ってしまった。坂を上るまでは普通の街並みだったのだ。
”ここファベーラじゃないよねぇ~”
 と思いながら坂を上っていたら、黒人のお兄ちゃんたちが、こっちを見て、笑いながら歌った。
「クイダ~ド、クイダァ~ドォー♪」
 クイダードとは、「気をつけろ」という意味しかない。
”げっ、やっぱファベーラじゃん”
 もしここで慌てて引き返したら、迷い込んだマヌケなチキン野郎として羽をむしられるかも知れない。にっこり笑ってそのまま坂を上っていった。こういうときは、”ここはボクの街”という顔をして歩くしかない。しばらく上ると道はすぐ下りに転じ、あっけなく下界に出た。
”あ~、恐かったあ”
 あの道が、ずっと上りだったら、僕はどうしただろうか・・・
 ほんの十数分のファベーラ体験だった。

 ファベーラに住んでいる人たちが、すべて恐い人たちというわけではない。ファベーラをコントロールしているのが、ちょっと恐い人たちというだけだ。ファベーラの住人は、もともと地方の農村や漁村から都市に出てきた人たちだ。旱魃から逃れてきた人もいれば、現金収入を求めてきた人もいる。あるいは都会に夢を求めてやってくる若者も多い。

 下界で屋台を営んでいる人の多くはファベーラの住人だが、みんな普通の人たちだ。親切でさえある。
 リオも屋台が多い。おすすめはホットドッグだ。ブラジルのホットドッグはフランスパンを使う。トマトソースで炒めた野菜がたっぷり、それに長いソーセージをのせる。うまい。これ一本で昼食がわりになる。そのせいでニューヨークのホットドッグがやたら貧相に見えた。というより実際やたら貧相だ。スカスカの手の平サイズのパンに、短いソーセージしか挟まっていない。なんじゃこれ。本場のホットドッグが世界一みすぼらしい。

──ガキ軍団と旅行者──

 友人のとある日本人旅行者が、リオのガキ軍団バスジャックに遭っている。
 ある日彼は、コパカバーナへ泳ぎに行こうと、出発待ちのバスに乗り込んだ。リオの波は強烈で泳ぎには向かないので、彼はビーチでビールを飲みながら、ビキニ・デンタル(糸楊子のにように細いビキニ)のおネーチャンを眺めるつもりだった(いえ、うそです)。発車を待っているところへ、前後のドアから包丁を持ったちびっ子軍団が乗り込んできた。そして一人一人順番に金を盗っていった。
 彼の話を聞きながら、
「カネは靴ん中に入れときゃ、大丈夫だろ」と言うと、
「いや、ガキんちょは、乗客の靴の中も調べたし、観光客がマネーベルトをしていることも知っていた」
「そうか・・・」
 僕もけっこう侮っていた。そのくらいのことは、彼らも学んでいて当然だ。
 ガキ軍団は彼の海パンの中も調べ、発見してしまった。
「ガキんちょが見つけたのは、オイラのポコチンだけだった」
 ガキもとんだ災難である。

──ガキ軍団──

「ちょっと、おっさん、こっちこっち」
 ビーチを散歩中、二人の少年が近づいてきた。
 僕はビーチのゴミ箱のところに連れていかれた。リオはビーチのど真ん中にゴミ箱が点在している。おしゃれな公衆電話もある。
「おっさん、よく見ろよ」
 ひとりが、ゴミ箱の上に立ったかと思うと、反動をつけて背中から空中に飛んだ。夕暮れの光を反射しながら、ちっちゃい体が後ろ向きに回転し、砂浜に着地した。あざやかなバク宙だった。
「すごいじゃねぇか」
「見たか、おっさん」
 二人はカタカタ笑いながら、長い影を従えて砂浜を走っていった。
 小さな背中を見送りながら、
”家はあんのかなあ”とつい考えてしまう。

──City of God──

 「City of God」はブラジル映画のタイトルだ。リオには、そういう名のファベーラがあるらしい。ファベーラにはそれぞれ名前が付いている。「City of God」が実在するファベーラかどうかはわからない。でも、ファベーラに付けそうな名前ではある。
 「City of God」は、ミニシアターで公開されたらしい。
 僕はレンタルDVDで観たのだが、パソコンの小さな画面に釘付けになってしまった。モノトーンのファベーラの中には、人間の満艦飾の生がある。ひさしぶりにリオでのあれやこれやを思い出してしまった。
 

【ダリエン・ギャップ 2】中米南下の果てに

2004年12月13日 21時28分35秒 | 軽い読み物
<暴動>

 安宿の古びたテレビには、激しい暴動の様子が映し出されていた。
 目抜き通りらしき通りに暴徒が走り回り、商店のガラスは破壊され、商品が略奪されていた。

 シュンスケと僕は困惑した。
 それは、これから行こうとしている、いや、行かなければならないパナマ・シティの映像だった。
「・・・・・?(どうします?)」
「・・・・・!(どうにもならん!)」
 ニュース映像を前に、僕たちは落胆しすぎて言葉もでなかった。
 1990年1月15日。サンホセ(コスタリカ)に着いた日だった。

 この一ヶ月前の1989年12月20日、アメリカ軍はパナマの国家元首マヌエル・ノリエガ将軍を捕らえる軍事作戦を展開した。激しい戦闘を繰り広げた末、ノリエガ将軍は捕らえられ、空軍機でアメリカへ連行された。国家元首が不在となったパナマ・シティは無法状態となった。テレビのニュースはその状況を伝えていた。

 あとバスで9時間走ればパナマ・シティなのに・・・。
 ダリエン・ギャップのジャングルが、地球の裏側まで遠のいた気分だった。

<チンピラ>

 ダリエン・ギャップ徒歩走破の計画を立てたシュンスケと僕は、1990年の正月をグァテマラのアンティグアで迎え、1月6日にパナマに向けて出発した。

 出発初日は、ホンジュラスとの国境の街チキムラで一泊した。
 中南米の国境の街は、あまり活気があるとは言えない。どことなく荒んだ無法地帯的な雰囲気が漂っている。チキムラもそんな感じの街だった。
 夜中に腹が減ったので、ポヨ(チキン)でも食べようかと二人で外に出た。照明もあまりない暗い通りを歩いていると、通りの反対側から、呼ぶ声がした。五人ほどの若者だった。僕たちを呼んだのかどうか分からないので、無視した。とにかく、いまはポヨにかぶりつくことしか頭にない。カリカリにローストされた香ばしいかおりのポヨ。その辺を勝手に走り回り、勝手に虫だの蛇だのをついばむ無添加のポヨ。中米の大衆食の代表だ。
「しかし、何もない街だなあ」
「国境しかない」
 人通りも少ない通りを、しばらく歩くと、後ろから車の音がした。「ヒョォーイ」とかなんとか、奇声がしたので振り返ると、日本製のピックアップトラックがせまっていた。中米ではそこそこ値がはる車だ。荷台に三人の若者が立っていた。荷台でバーを握っていた若者が、すれ違いざま、回し蹴りを繰り出した。道路側を歩いていたシュンスケの顔面を、スニーカーが激しく打った。いきなりだったので、避けようもなく、まともに食らってしまった。
 車のスピードに、蹴りの勢いが加わり、かなりの衝撃だったに違いない。しかしシュンスケは少しのけぞったが倒れなかった。
 荷台の若者は、歓声をあげて僕たちをあざ笑った。さきほど僕たちに声をかけた連中だった。
 車はゆうゆうと去っていった。
 荷台の若者はいつまでもはしゃいでいた。
 こんな蛮行は、聞いたことがない。

「大丈夫か!」
「クラクラします」
 シュンスケは店の軒下に座った。鼻血が出ていた。
 どこにいたのか若者やおばさんが集まってきた。若者のひとりがシュンスケにハンカチをわたした。
「くそう、あの野郎、ローリングソパットを食らわしやがって」
 シュンスケの眼は怒りで燃え上がっていた。
「あいつら、どうしようもない連中なんだ」
 若者のひとりが言った。
「奴らを知ってるのか?」
「ああ、最低の連中さ」
「奴らの居所を知ってるか?」
「知ってるよ」
「案内してくれないか」
「どうするんだ?」
 ストリート・ファイターのシュンスケが、このまま治まるわけがない。
「奴らと戦うのさ。案内してくれ」
「本気?それなら、俺たちも加勢するよ」
 加勢するってのか。どう見ても彼らは頼りになりそうな感じではなかった。いつもチンピラにいじめられている側にしか見えない。

 あれだけ強烈な蹴りを顔面に食らった直後なのに、シュンスケは闘志を剥き出しにしていた。普通の男なら、ホテルに帰ってぶっ倒れているはずだ。
 シュンスケひとりで五人の相手をさせるわけにはいかない。
 もし僕が道路側を歩いていれば、僕の顔面をナイキが襲ったに違いない。いや、コンバースだったか。運悪くシュンスケが道路側を歩き、しかも身長180センチだった。166センチの僕なら蹴りは頭をかすめただけだったかもしれないが。
「オレもやるぜ」
 僕も怒り狂っていた。こんな蛮行を許すほど温厚ではない。
 ジャングル走破にむけ、体も鍛えている最中だ。コンディションは悪くない。気合いも十分。
 シュンスケと僕は、若者5人を引き連れ、ひとまず宿に戻った。
 靴に履き替え、靴紐をしっかり結んだ。
「何か握ったほうがいいですよ。拳を痛めますから」
 と言ってシュンスケはアーミーナイフを取り出した。
「それならオレも持ってる」
 スイス・アーミーナイフは握ると手にぴったりなじむ。もちろん、刃はださない。握るだけだ。もし刺すもりなら、ジャングル用のでっかいナイフがザックの中にある。
 宿をでて、若者たちについていった。
「あの野郎を呼び出して、サシで勝負します。ただではおかないっすよ」
 あういう卑怯なことを平気でする奴が、サシの勝負をするとは、僕には思えなかった。歩きながら、”相手はおそらく5人。シュンスケが3人。僕が1人。加勢の連中がよってたかって1人”と、そんなことを考えた。
 僕は生まれてこのかた、殴り合いなどしたことがない。世界中でケンカはよくしたが、原則として、相手が一発殴るまでは、絶対こちらからは殴らないと決めていた。こちらが構えもせず、余裕で突っ立っていると、人間殴れないものらしい。インドでは、竹の棒を肩の上まで振り上げた者もいた。相手の一撃を待ったが、男は鬼の形相で威嚇するばかりで、いつまでたってもその棒を振り下ろさなかった。バカバカしくなって、くるっと背を向けて去った。棒を振り上げたまま僕に置去りにされた男は、まわりの大爆笑を買った。
 ケンカは褒められたことではない。しかし、理不尽なものを、見て見ぬふりをする気もない。

 暗い住宅地の中の一軒に案内された。
 シュンスケにローリングなんとかを食らわした奴の家だという。
 声をかけ、ノックしたが、家の中から応答はなかった。人のいる気配はあったが、おそらくチンピラ本人はいないだろう。
「どこかほかに居そうなところはないか?」
 とシュンスケは訊いた。
「あるよ」
 道をもどり、倉庫のようなところに案内されたが真っ暗だった。
「奴らは、よくここにいるんだけど」
 ほかには当てはないようだった。
「奴ら、朝ならここにいるかもしれない」
「わかった。ありがとよ」
 この若者たちとピックアップのチンピラとは、明らかに階層が違っていた。チンピラどもは体格もよく、栄養が足りているように見えた。値のはる日本車に乗り、蛮行を働ける身分だ。僕たちに加勢しようと言った若者たちは、みな痩せて、貧弱な体格だった。

 シュンスケの怒りは収まらなかったが、帰るしかなかった。
 僕たちは次の朝、国境を越えなければならない。こんなところで時間をつぶしている暇はない。頭の中は、未知なるジャングル、ダリエン・ギャップで占められていた。

 それでも翌朝、一応倉庫を調べに行った。チンピラどもはやはりいなかった。おそらく、僕たちが探し回っていたことを、すでに知っているに違いない。小さな田舎町だ。こういう噂はすぐに広がる。僕たちが、街を出るまではどこかに隠れているだろう。日本人から逃げ回ったと、しばらくは笑いものになるだろう。貧弱な若者たちよ、栄養の足りたチンピラどもを大いに笑ってやれ。まあ、それでよしとしよう。

<中米南下>

 チンピラどもは命拾いし、僕たちは国境を越え、ホンジュラスに入った。
 ホンジュラスは、新品のM-16を持った少年兵が幅を利かし、何かというとバスを止め、市民の身体検査をした。16歳ほどのガキに銃を突きつけられ、アゴでパスポートを出せと言われるのは、腹立たしかった。チンピラの次は少年兵かよ。子供がホンモノの銃を持つと、天下を獲ったような気分になり、人格のバランスを失しなってしまう。軍事支配化のような国だった。共産主義政権のニカラグアと国境を接しているからだろう。快適とは言いがたく、見所もないので、二日でホンジュラス抜けた。

 次はサンディニスタ政権下のニカラグアだ。トランジットビザ(72時間)でも25ドルした。そのうえ強制両替が60ドルもあった。
 国境をはさんで、兵士の持つ銃が新品のM-16から、使い古しのAK47にかわった。変なところで、確かにここは共産主義国だと確認した。
 イミグレーションは、小さな木製の掘っ立て小屋だった。イミグレの兵士が、ドイツ人のパスポートを持って小屋から出たとき、AK47を残していった。歩いていく兵士と、残された銃を、皆が交互に見た。いいのかなあ。眼の前に銃がある。手を伸ばせば届く。狭い小屋にポツーンと残された銃が、なにかこの国を象徴しているようだった。のどかなのだ、この国は。
 ニカラグアは中米一貧しく見えた。首都マナグアは巨大な田舎町だった。インフラは破壊され、機能を停止していた。しかし、どこへ行っても検問もなく、ボディチェックもなかった。治安もよく、人々はゆったりしていた。ホンジュラスのようなピリピリしたところがまったくない。
 マナグアに一泊したあと、港町サンフアン・デル・スールで残りの48時間を過ごした。巨大な魚の丸焼きを食べ、美しい夕日を眺めた。とてものどかな愛すべき国であり国民だった。

 ニカラグアを出ると、つぎは中米の優等生コスタリカだ。インフラは整い、物は豊富で、治安がよく、街はきれいに整備されている。美しい豊かな大自然も残されている。コスタリカとは、「豊かな海岸」という意味だ。だた、豊かな反面、何かよそよそしい感じを受けた。何もない貧しいニカラグアの方が落ち着けるのはなぜだろうか。

<相棒シュンスケ>

 中米南下の途中でも、宿にもどると必ず腕立て、腹筋、スクワットをした。シュンスケはザックを担いでスクワットに負荷をかけた。僕も真似をした。またシュンスケは強靭な腹筋を持っていた。「腹筋ならいつまでもできますよ」。ベッドの上でシュンスケが腹筋をすると、体がポンポン跳ねた。ベッドが壊れそうだ。体力ではとてもこいつには、かなわない。
 手足が長く、体も異常にしなやかだった。180度の開脚もできる。前蹴りは軽く身長をこえた。生まれながらのストリート・ファイターで、ほとんどケンカに負けたことがない。ただ、六本木で黒人三人を相手にしたときは、ボッコボコにやられて、入院したらしいが。

 中学のころのシュンスケは、正真正銘の悪ガキだった。仲間とレストランや倉庫に侵入して遊んだ。物を盗るのが目的ではない。ありあまるエネルギーを持て余し、退屈していたのだ。侵入したレストランで、のんきに料理を作って食べたり、マッシュルームの巨大な缶詰を記念に持って帰ったりした。学校に持って行って、自慢するためだ。ただ単に、見たこともないでっかい缶詰というだけで楽しい年頃だった。

 倉庫に侵入したときは、警察に見つかってしまった。若い警官は、悪ガキどもが観念したものと勘違いしたのか、階段を下りるとき先頭にたった。アホかこの警官は。仲間に目で合図したあと、その後頭部をぶんなぐった。帽子は飛び、若い警官はぶっ倒れた。ガキどもは一斉に階段を駆け下り、外に飛び出した。が、そこには警官がずらりと並んで待っていた。
「それを見た瞬間、ヘナヘナヘナ~ですよ」
 殴り倒された警官は、すぐに無線で外に連絡を入れたのだ。
「警官って、肩のところに無線のレシーバーをかけてるでしょ。あれをちぎっとくべきでした」
 なるほど。
 警察署に着くと、殴り倒した警官の容赦ない報復がはじまった。殴る蹴る、椅子ごと蹴り倒す、振り回す、殴る蹴る、ボッコボコ。警官は顔は殴らないらしい。顔はすぐに腫れ、アザができて暴行の証拠を残すからだ。
「10倍にして返されましたよ」
 シュンスケのおやじさんが呼び出されて警察署にやってきた。シュンスケを見るやいなや、またボッコボコ。それまで、さんざん暴行を加えていた若い警官は、
「おとうさん、落ち着いてください。暴力はいけません」
 どうりで、世界一治安がいいはずだ。

 シュンスケは公立高校に進学したものの、数ヶ月で放校になってしまった。公立高校は強制的な退学処分はできない。自主退学だ。ただし教師に囲まれて、退学届けに署名させられた。
「学校は好きだったのに、無理やり自主退学ですよ」
 教師は、シュンスケの不良ぶりに恐れをなしたのでないと思う。彼の頭の良さを恐れたのだ。僕が知る限り、シュンスケほど頭の回転の速い奴を知らない。人を惹きつける魅力にもあふれている。ユーモアのセンスもある。しかも肉体も精神も極めつけにタフだ。無能な教師ほど、こういう生徒を本能的に恐れるものだ。シュンスケのような生徒を恐れない教師が、日本にいったい何人いるだろうか。 さすがは、教育大国ニッポンだ。

<ニュース映像>

 当時、中米の旅は、コスタリカが終点だった。
 パナマ・シティは通常でも治安が悪く、ガイドブック・ロンリープラネットも渡航を勧めていなかった。そのため、コスタリカからコロンビアのサンタマルタ島に飛んで、南米に入るのが、当時の中南米旅行者のお決まりのコースだった。治安の悪いパナマはほとんどの旅行者が避けた。

 だが、僕たちはそういうわけにはいかなかった。
 ダリエン・ギャップへ到達するには、パナマ・シティへ行かなければならない。通常の治安の悪さは、あまり気にしていなかった。

 コスタリカの首都サンホセに着き、あとはパナマ・シティまでバスで9時間。駆け足でここまで来た。
 安宿に泊まり、ロビーのテレビをなんとなく観ていると、画面の中を、暴徒が走り回っていた。そこら中の商店のショーウインドーが粉々に割られ、あらゆる商品が略奪されていた。それはパナマ・シティの映像だと知り僕たちは言葉を失った。
「・・・・?」
「・・・・!」
 一瞬にして、ダリエンのジャングルが地球の裏側まで遠のいていった。

 初日に泊まった宿は450コロンと少し高かったので(1$=90コロン)、翌朝ホテル・ニカラグア(150コロン)に移った。
 ホテル・ニカラグアのボロテレビにも、暴徒が走り回っていた。僕たちは、落胆した。

 ダリエン・ギャップのジャングルに入るには、どうしてもパナマ・シティに泊まる必要があった。地理院を探してダリエン・ギャップの地図を手に入れなければならないし、T/Cを両替してドル・キャッシュも作らなければならない。パナマの通貨はアメリカ・ドルなので、銀行でT/Cを両替すれば自動的にドルが手に入る。蚊帳やマチェテ(ジャングルナイフ)、食料などは、コスタリカで調達できるが、地図やドル・キャッシュはそうはいかない。少なくとも2、3日はパナマ・シティに滞在する必要がある。銀行から出てきて、はたして無事にすむだろうか。

 僕たちは、体力と気合いは、有り余るほど持ち合わせていたが、「運」に頼るほど信心深くはなかった。「なんとかなるさ」と思うほど楽天的でもなかった。「このくらい平気さ」と失言するほど軽率でもなかった。安宿のテレビに映し出される凄まじい暴動の光景に、議論する余地はなかった。

 その日の夜も、あいかわらず暴徒はテレビの中を所狭しと走りまわっていた。
 レセプションのオヤジに、
「パナマには行けないねぇ」
 と、ぼやいた。
「なんで?」
「セニョール。だって、パナマはこれじゃん」
 と、テレビのニュースを指した。
「行けるよ。ノー・プロブレマ」
 オヤジは事も無げに言った。
「・・・・?(何言ってるの、このオヤジ?)」
「・・・??(さあ??)」
 オヤジは僕たちを殺す気か。

 僕たちが移った安宿:ホテル・ニカラグアは、運悪く、行商のおばさんたちの定宿だった。おばさんばかりなのだ。もう、うるさいのなんの、どうしておばさんというのは、世界中こうも・・・いえ、何でもありません。このおばさん軍団は、コロンビアやヴェネズエラから来ていたのだ。つまり、船でパナマ・シティに入り、そこからバスでコスタリカまで来たのだ。宿のオヤジは、おばさん軍団からパナマ・シティの最新情報を得ていた。パナマ・シティの暴動は、落ち着いているという。
「セニョール、じゃあ、このテレビのニュースはいったい何なんだ?」
「たぶん少し前のパナマ・シティだよ」

 テレビニュースの暴徒の映像はおそらく使い回しだ。ニュース・メディアが良く使う手だ。メディアにとって、事件は商品だ。小さな事件でも、メディアの手にかかると、大事件に早変わりする。数日の暴動が、連日の暴動と化す。ときとして「真実」は商品にならない。ちょっと手を加えて上げ底をしてしまうのだ。逆に、都合の悪いニュースにはフタをして腐臭を隠してしまう。ニュースを見るときは、スーパーの生鮮食品を選ぶときのように慎重にならなければならない。新鮮な肉や魚に見えても、陰で有害な薬をまぶして赤くしているかもしれない。オーストラリア牛が松阪牛に化けているかもしれない。メディアもおなじだ。賞味期限の過ぎた事件に、商品価値を持たせるための様々なトリックがある。

「くっそー、ややこしいニュース流すんじゃねぇよ」
 うれしいやら、腹が立つやら。
 おばさん軍団の定宿に泊まったおかげで、幸運にも正確な情報を得ることができた。ダリエン・ギャップが、また地球の裏側から顔を出した。

 もし、あのときパナマ・シティの暴動が、実際に続いていたら、僕たちはどうしただろうか。
 勇気や根性、度胸など、極限の状況では何の役にも立たない。そんなものはかえって身を危険に晒す邪魔ものだ。大事なのは、正確な情報収集、そして情報を冷静に観察し、正確な分析を行い、的確な判断を下すことだ。当たり前だが、それ以外にない。それができれば、勇気や根性、体力がなくとも難局を切り抜けられる。知力こそがすべてなのだ。

 僕たちは、アーミー・ナイフを握り締めて、夜中にチンピラを捜し回るようなやつらだったが、勇気や根性を誇示する気などはまったくなかった。もちろん、状況を無視した運頼みなどもってのほかだ。あのときもし、パナマ・シティの正確な状況が判明する前に、どちらかがパナマ行きを決行しようと言ったら、おそらくパートナーを解消していただろう。僕たちは、状況を的確に判断できない相手とパートナーを組むほど、無謀ではなかった。

 もし暴動が続いていたなら、僕たちが下したであろう「的確な判断」とは、暴動が治まるまで、コスタリカの美しいビーチでスクワットをしながら、女の子を眺めることだったに違いない。

【ダリエン・ギャップ (1)】 ジャングルを越えて─

2004年12月09日 02時37分35秒 | 軽い読み物
<Sordados Americanos :米軍>

「お前らこんなところで何してる?」
 部隊の指揮官らしき米兵が言った。
 それはこちらが訊きたかった。
 お互い、予想もしなかった相手に出くわし少し驚いた。

 1990年2月1日。
 僕は、パナマのジャングルの真っ只中にいた。ジャングルに入って二日目、インディオの村の片隅に野宿させてもらった。
 翌早朝、出発の準備が済んだ頃、米軍のUH-60ブラックホーク・ヘリコプター3機が飛来し、川の対岸に着陸した。30人くらいの完全武装の米兵が川を渡って、ぞろぞろと村に入ってきた。ヘルメットや顔にもカモフラージュをほどこしていた。臨戦体制だ。写真を撮ろうとしたが、村人に止められた。米軍がジャングルの奥まで何をしに来たのだろう。ジャングルに囲まれた、のどかな村には不釣合いな連中だった。しばらく様子を見たが、別段緊張感もないので、兵士たちに近づいた。インディオと日本人の区別はついたようだった。
「お前ら、こんなところで何してる?」
 レイバンサングラスの部隊指揮官らしき軍人が言った。
「ツーリストだ。ジャングルを歩いてコロンビアへ行く」
「歩いてか?大丈夫かお前ら」
 それは僕たちにもわからなかった。

<Escola de Espanhor:スペイン語学校>

 1989年の年の瀬、僕はグァテマラのアンティグアという町でスペイン語を習っていた。スペイン語の独習は不可能に思えたからだ。ガイドブックのスペイン語の欄をポケットに突っ込んでいたが、まったく役に立たなかった。それまで旅をしながらそれぞれの国の言葉を憶え、多少なりとも使いこなしてきた。中国語、ウルドゥ語、ペルシャ語、トルコ語。どの言語圏へ行っても、旅をしながら言葉は学べると思っていた。が、スペイン語は事情が違った。

 中南米の旅の最初の国メキシコでは、まったく言葉が通じず、散々な眼にあった。食事をするのさえ事欠いた。予定を変更してとにかくグァテマラのアンティグアをめざした。
 アンティグアは中世の町並みをそのまま残したような古くて、美しい町だ。アンティグアには、こじんまりとしたスペイン語学校が何十件もあり、値段も安かった。中南米の旅をめざすツーリストは、まずアンティグアでスペイン語を習ってから、南下するというのがお決まりだった。ツーリスト向けのおしゃれなカフェやレストラン、バーが何件もあり、小さな町には常に外国人があふれていた。
 
 スペイン語授業の初日に、なぜいままで通じなかったのかが明らかになった。スペイン語の動詞は人称と時制によって変化させなければならなかったのだ。それを不定詞(原型)のまま使っていたのだ。スペイン語辞書で「話す」を引くと「hablar(アブラール:語頭のHは発音しない)」と出ている。しかし、この形では使わない。

 人称は単数複数とで6通り。時制は、直説法の現在・過去・未来に、完了形や進行形、命令形、そして一番厄介な接続法がある。少なくとも20通りの時制がある。すべての動詞が6×20で120通りに変化する。アホか。
 習いたてのツーリストがそんなに覚えられるわけがないので、現在形と過去形、不定詞と現在分詞のあわせて14くらいの変化をおぼえる。しかし、規則動詞には3タイプある。そのほか重要な動詞(持つ、できる、する、行く、来る)などは、すべて不規則変化する。いま思い出しても腹が立つ。

 スペイン語学校では、まず動詞の変化を徹底的に憶えさせられる。一番最初が「hablar:話す」などの-ar規則動詞群だ。
「hablar」を変化させると、

私ーーーーーーーーーーhablo
君ーーーーーーーーーーhablas
彼、彼女、あなたーーー habla
私達ーーーーーーーーーhablamos
君達ーーーーーーーーーhablais
彼、彼女ら、あなた達ー hablan

 となる。

 これを、九九のように諳んじて頭に叩き込むしかない。
 アブロ、アブラス、アブラ、アブラモス、アブライス、アブラン。
 アブロ、アブラス、アブラ、アブラモス、アブライス、アブラン。
 アブロ、アブラス、アブラ・・・・・・∞

 前の日に学んだ動詞群は次の日の朝、テストされる。憶えていなければ、次の-er動詞に進めない。一日分の授業料を損するので、宿に帰ってからも、アブロ、アブラス、アブラ・・・・∞、と念仏のようにとなえる。あれほど、物事に集中したのは、後にも先にもないかもしれない。言葉を習得する一番の方法は「お金を払う」ことだ。ちまたでは一番近道は恋人をつくることだ、ともっともらしく言われているが、それはウソだ。

 たった二週間スペイン語を習っただけで、その後何の不自由もなく中南米を一年旅行した。日本からわざわざスペイン語のテキストを送ってもらって、常にベンキョーしていたつもりだったが、スペイン語圏の旅が終わろうという時、
「アンティグアの二週間から、一歩も進歩しなかった・・・」
 というのがさびしい実感だった。

<Anho Nuebo:新年>

 スペイン語学校の二週間が終わると、魔法のように通じた。アンティグアで学んだ者は、みな同じ感想を持つ。メキシコでの苦渋の日々を忘れ、晴れて、ティカルの遺跡や、内戦中のエル・サルバドルへ出かけた。アンティグアに帰ってきた頃は、もう89年も終わろうとしていた。11月9日には「ベルリンの壁」が崩壊し、東西ドイツがつながった。ドイツ人旅行者にとっては、この上なくハッピーな新年を迎えようとしていた。しかしパナマでは、米軍がマヌエル・ノリエガ将軍の部隊と戦闘を繰り広げていた。
 アンティグアには「禅」というツーリスト向け日本食レストランもあり、日本人旅行者が正月を過ごそうと集まってきた。

「ダリエン・ギャップを超えて、コロンビアへ行きませんか?」
「禅」でメシを食っていると、日本人の若者に声をかけられた。後に曲折をへて親友となる男だ。
「ダリエン?なにそれ?」
「パナマとコロンビアの間のジャングルですよ。パートナーを探してるんです」
「オレは乗り物で行くつもりだけど」
「ダリエン・ギャップに道なんてありませんよ!」
 そのときまで、パンアメリカン・ハイウェイはアラスカからアルゼンチンの最南端まで続いているものと思い込んでいた。しかし、たった一ヶ所、パナマとコロンビアの間に横たわるジャングル地帯は、ハイウェイの建設を頑なに拒んでいた。もし、ダリエン・ギャップが陸路で繋がれば、多大な経済効果を中南米にもたらすだろう。しかし、おそらく日本の技術をもってしても、あのダリアンの大自然には打ち勝つことができないと思う。
 彼は、そのダリアン・ギャップを歩いて走破し、コロンビアへ行く計画を立てていた。彼はそのパートナーを探していた。
「面白そうだな。やるよ」
 ふたつ返事だった。
 彼の表情が一気に明るくなった。パートナー探しは難航していたようだ。握手を交わした。
「ナカツカサさん、下の名前は」
「タツヤ」
「じゃ、タツさんって呼びます。オレはシュンスケって呼んで下さい」
 面白い男だな、と思った。

 すぐに1990年の正月がやってきた。
 その前の正月は、イランのテヘランにいた。イスラム暦なので、西暦の正月は関係ない。イラン・イラク戦争が終わってまだ一ヶ月ほどしか経っていないかった。テヘランには数人のツーリストしかいなかった。実にさびしい正月だった。それにくらべ、カトリック圏のグァテマラの正月は、街中で爆竹がバンバン鳴り響き賑やかだった。

 当時の日記を見ると、1/2「体を鍛える」、1/3「きたえる」、1/4「イシモトAntiguaに来る」、1/5「今日も鍛える」とだけ記されている。未知の体験に対してできることは、体を鍛えることしかなかったようだ。
 1月6日にアンティグアを発ち、パナマに向けて南下した。ホンジュラス、ニカラグア、コスタ・リカを旅しながらパナマにたどり着いた。
 12月に、国家元首ノリエガ将軍は戦闘の末、米軍に逮捕された。パナマ・シティは混乱し、治安は最悪の状態だった。街のあちこちで商店が破壊され、略奪されていた。街を徘徊する米軍の車両を見ながら、「米軍に他国の国家元首を逮捕する権利があるのだろうか」とシュンスケと話し合った。しかし僕たちは、ジャングル越えの準備の方に心を奪われていた。
 あまりの治安の悪さに、シュンスケも僕も、街に出るときはベルトに大型ナイフを差した。銀行にも、うっかりそのスタイルで入ってしまった。カウンターの前でTシャツをめくると、ベルトに大型ナイフ。これでは銀行強盗ではないか。めちゃくちゃ焦ったが、カウンターの令嬢も警備員も平然としていた。他国なら警備員に撃たれるか、良くて逮捕だろう。

<Darien Gap:ダリエン・ギャップ>

 混乱のパナマ・シティで準備を整え、1月30日にダリエン・ギャップのジャングルに入った。
 初日は2時間ほど歩き、川に出た。そこでボートを探さなければならない。幸い、川を遡りながら魚を売っている人がいた。そのボートに乗せてもらった。ボートをゆっくり走らせながら、川沿いの村々に声をかけていく。
「セニョール、この川には魚はいないのか?」
「小さいのしかいない。大きいのはもっと河口の方だ」
 ボートのスピードは遅いし、インディオのおばさんと世間話しをしたりして、とにかく時間がかかって仕方がない。先を急ぐ僕たちは、少し消耗した。夕方4時にようやく予定の村にたどり着いた。その村の小さな売店の主人がパナマの出国スタンプを持っているはずだった。しかし店は閉まっていた。店のオヤジDon Antonioはパナマ・シティへ出かけていた。幸先が悪い。翌日は一日足止めかと諦めていたが、出国スタンプなしで出発していいことになった。予定を変更する必要はなくなったものの、コロンビアのイミグレーションで問題にならないかと心配のタネが残った。

 翌日は、カヌーに乗せてもらって川を遡った。川が浅くなり、モーターボートは使えない。そして、カヌーも使えなくなると歩くしかない。6時間かけてPucuroという村に着いた。
 村の片隅を貸してもらった。火をおこそうとしたが、我々は要領が悪かった。村人が見かねて、火をおこしてくれた。さすがに手際がよかった。しかし、僕はみごとに水をひっくり返して、せっかくおこしてもらった火を鎮火してしまった。これがジャングルの中だったら、シュンスケに殴り倒されているところだ。

 ここまで来ると、文明とは無縁の世界となる。期待と不安が交互にやってくる。
 ジャングルの中には、様々な危険が潜んでいる。毒蛇、サソリ、肉食獣。中でももっとも危険で、僕とシュンスケが出会いたくないもののナンバー・ワンに挙げていたのが、人間である。
「ジャングルの中で人間を見たらどうする」
「とにかく逃げるしかないっすよ」
「あっちの方が先に見つけるんじゃないか」
「なら、おわりですね」
 とにかく人間に出会うことを恐れた。
 初日の魚売りのボートが寄ったある村では、その三日前に、村人がひとり殺害されていた。胸を十字に切り裂かれ、眉間に弾丸を一発撃ち込まれたらしい。
 ダリエン・ギャップのジャングル地帯は、メデジン・カルテルの麻薬基地が点在していた。コロンビアのコカインは、ダリエン・ギャップを通ってパナマに運ばれる。そしてパナマから船便でアメリカへ渡る。コロンビアで1グラム3ドルのコカインが、ニューヨークに着くと80~100ドルで売られる。パナマのノリエガ将軍は、メデジン・カルテルのコカインをアメリカへ輸出してぼろ儲けしていた。
 その後93年に、メデジン・カルテルの大ボス・パブロ・エスコバルはコロンビア警察の狙撃部隊に射殺された。コロンビア最大の麻薬組織は解体した。
 ダリエン・ギャップの中で、出会う人間といえば、インディオを除けば、メデジン・カルテルしかいない。戦争ができるくらいの武器を持っているかも知れない。

<Sordados Americanos:米軍>

「ところで、USアーミーがこんなところに、何しに来たんだ」
 今度は僕が、部隊指揮官S.J.Whiddesに訊いた。
「まあ、ちょっと・・・」
「ノリエガン・アーミーか?」
 ノリエガ将軍の部隊の残党狩りだと検討をつけて訊いてみた。
「いや、コカインがね・・・」
 彼は言葉をにごした。
 なるほどコカインの方か。メデジン・カルテルの麻薬基地の捜索というところだろうか。だとしたら、ちょっと頼もしいんだが。
「ところで君たち、何か必要なものがあったら、何でも言ってくれ」
 Whiddesの意外な申し出に驚いた。
「いや、大丈夫。必要なものはある。それより部隊の写真を撮ってもいいかな」
 すでに勝手に撮っていたのだが、一応許可をとって堂々と撮りたかった。
 兵士は、村の集会所に装備を降ろし、やけに寛いでいた。彼らの写真を収め、話しかけた。
 彼らは、「これをもって行け」と、ダークブラウンのビニール袋をいくつかくれた。MRE(Meal Ready to Eat:携帯用戦闘糧食)だった。中には、レトルトパックのシチュー、フルーツ・ケーキ、歯磨きガム、タバコ、、ココア、コーヒー、クラッカーなどが入っていた。レトルトパックのメイン・ディッシュは何種類もあり、Pork with Rice in BBQ SauceやChicken Stewなどと書いてある。食料を極限まで切り詰めていた僕たちには、夢のようだった。さっそくフルーツ・ケーキをひとつ食ってしまった。 
 米兵はその他にも、汚れた水を殺菌するヨード錠剤や虫除けリキッドをくれた。どちらもジャングルでは必需品だ。ヨード錠剤があれば、いちいち水を煮沸する必要がない。1リットルの水に2錠を入れ、5分間シェイクする。ただし、まずい。ヨードチンキの味がする。
 ジャングルの中では、あまり蚊には攻撃されなかったが、もっと厄介な奴らがいた。朝一番の仕事は、体中に食らいついているダニ取りだった。体長1㍉から5㍉、大小さまざま。米軍の虫除けリキッドを塗ると全滅した。かなり強力だ。柔肌の方にはおすすめできない。

 結局、村を出発したのは朝10時半だった。ここからは歩く以外ない。ダリエンのジャングルの中は平坦ではなかった。かなり起伏がある。しかも大小無数の川が流れている。長い年月の間に、川は地表よりかなり低くなっている。つまり土手を昇り降りしなくてはならない。これが、きつい。ほぼ直角の土手は粘土質ですべった。あっという間に体力を消耗した。川に出くわすたびに、うんざりした。

 翌日、次の村に着くと、そこにも米軍の部隊がいた。
 空き地で、村人とサッカーをしていた。あいかわらず、のんびりしたもんだ。
 ここでも、米軍の兵士に歓待された。また、MREを何袋ももらった。もはや、食料の心配だけはなくなった。
 黒人の衛生兵はプラスチックボトルをくれた。何なのかよくわからなかった。
「これはフット・パウダーだ。靴を履く前に足にまぶす。足を清潔に保ち、疲労回復にもなる」
 なるほど、それはいい。無数の川のせいで、僕たちの靴は常に濡れた状態だった。足が腐ってしまいそうだった。このパウダーのおかげで水虫にならなかったのかも知れない。いまでも、このときの習慣が残っている。いまは、靴を脱いだ後ベビーパウダーを靴の中に振り撒いている。一年間スニーカーを洗わなくても悪臭はない。

 この日は休息日にした。はやくも体はガタガタになっていた。
 くつろいでいると、何人もの兵士が話しかけてきた。
「ノリエガを知ってるか」
 若い兵士だった。
「ああ、捕まえたんだろ」
「ノリエガの兵士と撃ち合ったんだ。本物の戦争をしたんだぜ」
 それは、僕に話しかけているというより、自分自身に語りかけているようだった。本物の戦闘をしたことが、まだ信じられないという感じだった。戦闘の興奮と緊張から醒めていなかった。おそらくはじめての実戦だったに違いない。彼の”real war”という言葉が妙に生々しかった。歩兵隊でも全ての兵士が実戦を経験するわけではない。工兵隊や補給部隊が前線に出て戦闘をすることはない。米陸軍の中でも、敵と面と向かって戦闘を経験をするのは全体のごくわずかだ。

 年配のベテラン兵士がやってきて、僕たちの前に腰をおろした。
「これを知ってるか」
 と言った。
「ああ、M-16ライフル」
 M-16自動小銃は、ベトナム戦争ではじめて実戦に採用され、以後改良をかさね、今日まで使われ続けている。ゴルゴ13も愛用している高性能ライフルだ。しかしベトナム戦争時はよくジャミング(排薬づまり)を起こしたらしい。戦闘中にライフルが使い物にならなくなり、多くの兵士が命を落としたと言われている。兵士からは欠陥ライフルだと思われていた。しかし原因は、国防総省がメーカーの忠告を無視して、古いタイプの火薬を使ったことだった。機関部にカーボンがたまり薬莢をつまらせてしまう。古いタイプの火薬の在庫処分のために、多くの兵士が命を落とした。事実だとしたら、むごい話しだ。軍隊にとって兵士はただの消耗品にすぎない。
 ベテラン兵士はM-16を分解しながら「オレはスナイパーだ」と言って、胸の徽章を示した。徽章にはライフルの刺繍が入っていた。
「あと5年で除隊だ。すでに20年軍隊にいる」
「除隊したら、何をする」
「のんびりするさ。旅をしたり、釣りをしたり、いろいろさ」
 いまなら、根掘り葉掘りインタビューをしていることだろう。しかしこのときは世間話程度しかしていない。僕たちは疲れきっていた。
 この部隊の指揮官がやってきて、
「食べたアーミー・レーションのゴミは、ジャングルの中に捨てないでくれ。それだけは頼むよ」
 と言った。
 
 翌日の早朝、まだ兵士たちが高鼾で寝ているころ、僕たちは出発した。歩哨の黒人兵士がひとりだけ起きていた。片手をあげて別れを告げた。僕とシュンスケは肌寒いジャングルの中へ進んだ。以後、ダリエン・ギャップで米軍に出遭うことはなかった。
 それから四日後、シュンスケと僕は、コロンビアのTurboに着いた。たった8日間ではあったが、久しぶりに文明と出会えた気分だった。コロンビア・コーヒーで祝杯をあげた。シュンスケと顔を見合わせるほど、美味しいコーヒーだった。以来、コーヒーといえばコロンビアだ。 

 兵士たちにもらったMRE、ヨード錠剤、虫除けリキッド、フット・パウダーはすべて役に立った。もしそれらがなかったら、シュンスケと僕は、かなりの苦行を強いられていただろう。
「あいつら、映画に出てくる米軍そのまんまやったなあ」
「笑っちゃいましたよね」
 陽気で、親切で、お喋り好き。
 屈託がなく、憎めない奴らだった。
 30歳前後の兵士が多かった。
 あれから14年。ほとんどの兵士はすでに除隊しているかもしれない。
 あの静かなスナイパーだけはとっくに除隊しているはずだ。いまごろはアラスカあたりでレインボー・トラウトを釣っているかもしれない。
 ジョージ・W・ブッシュ大統領の召集令状がきていなければ、の話だが。