らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

佐藤敏直の音楽感

2008年11月20日 20時59分33秒 | 山形弦楽四重奏団
 山形弦楽四重奏団第29回定期演奏会まで、後2週間を切ってしまいました。今回のプログラムノートはメンバーの駒込が担当ですが、限られた文字数の中ではすべては書ききれないものです。当ブログや他のメンバーのブログなどで少しでもフォロー出来れば良いなと思っています。

 その第29回定期演奏会の中で佐藤敏直作曲の弦楽四重奏曲第1番をプログラミングしましたが、その事については以前書きました。
佐藤敏直 弦楽四重奏曲第1番(1964)

 そして作曲家佐藤敏直氏についても以前書きました。
佐藤敏直

 今日は、佐藤敏直氏の作り出す音楽について、少し書きたいと思います。

 いざ書き出そうと思っても、佐藤敏直氏についての私の知識は乏しいものです。2002年に亡くなる前年に山形新聞に佐藤敏直氏が、自分の音楽について書いた貴重な記事を参考にして書きたいと思います。

 彼の音楽に多大な影響を与えた人物は2人存在します。1人目は、鶴岡市立第三中学校時代の恩師三井直先生。そして実際に作曲を師事した清瀬保二氏です。
清瀬保二

 佐藤敏直氏は、山形県の海側~庄内地方の鶴岡市で生まれました。記事によると氏は、「海がそばに在る事こそが四季の風物だと思っている」と書いています。1987年11月に山形県県民会館開館25周年記念事業の一環で委嘱された「交響讃歌やまがた」の初演にあたり、庄内の出身の作曲家に作品を委嘱された事を異例だと思っていたふしがあります。山形の音楽文化の中心は、山形市を中心とした内陸である~云々の発言から彼は、内陸の音楽文化に対して多少なりともコンプレックスを感じていたのかもしれません。

 作品の委嘱にあたり当時の山形響の常任指揮者村川千秋氏の支援に感謝の辞を述べています。作品の成功により庄内生れというコンプレックスは彼の中で無くなっていくのです。作曲にあたり、山形の内陸部を中心にかなりの資料集めをしたらしく、それにより内陸vs庄内の考えも溶けていったと言っています。

 師匠の清瀬保二氏の影響だと認めていて、彼は「自分の音を表現するにあたり、日本人であるわたしは西洋人にはなれないと思うようになる。」と述べています。邦楽作品が多いのも頷けます。

 創作願望についても自分の考えを書いています。
・演奏の難易よりは、何度も聴くうちに深まってゆくこと。
・出来る限り非西洋、もっといえば日本という地平から発信する固有の音響で表現する事。

 興味深い発言は更に続きます。
・芭蕉の芸術論「不易流行」に出会い、新しくても普遍性が無ければ単なる一時の流行でしかない。だが真実を責め抜いて得た新しさは不易であり、永遠なるものになる。
・BeethovenもBartokもDebussyも彼らの言葉で不易流行の域に達した。しからばわたしは日本語で不易流行を目指すべきではないか?

 そして最後にこう綴っている。
・山形から新しい音楽を世界に向けて発信するとすれば、それは民話によるオペラや、うんと地域に根差した音楽語をもつ作品を置いて他にない。これは私の願いである。

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 同じような事しか書く事が出来ませんが、山形に偶然に集まったメンバーにより結成された山形弦楽四重奏団が、山形の方々にお世話になり活動させてもらっている事を考えれば、山形の重要な作曲家である佐藤敏直氏の作品を演奏する事は恩返しにも繋がる気がしています。もちろん作品への愛があってこそですが、佐藤敏直氏の作品は確かに演奏すればするほど、より良い作品に感じてきます。

 少しでも多くの方々に山形に偉大な作曲家が存在した事を認識してもらいたいので、これからも機会があるごとに演奏し続けてゆきたいと思います。

 とりあえず12/3(水)の文翔館議場ホールでの演奏を楽しみにしていて下さいね。

コメント (2)
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