神保町シアターで『青春の蹉跌』を観てきました。
昭和49年(1974年)公開
萩原健一(当時23歳)は、この作品で「キネマ旬報 最優秀主演男優賞」受賞
混沌とした時代に生きる若者の熱情と焦燥感を描いた作品に集うのは、出演者と同じ団塊の世代と思しき方々。
新宿駅東口が映れば、思わず「鈴屋」(若い女性に人気のあったお店)を探してしまう私は、少しだけ下の世代。
道を歩きながらタバコを吸うショーケンがそのまま喫茶店に入ると、レジの横にはピンク電話。
駅には「伝言板」があり、山手線はグリーン一色・・・それが「昭和」だったのですよね。
ショーケンといえば、ザ・テンプターズの頃からファンでした
(「あら、ジュリーじゃなかったの?」という声が聞こえてきそうですが、それはそれ、これはこれ)
ザ・テンプターズ時代の LP
左のレコードジャケット「5-1=0」は、メンバーが一人でも欠けたらザ・テンプターズじゃない
という意味でしょうが、既に「5-3」です。
わずか3年間の活動期間に、ザ・テンプターズとして出演した映画『涙のあとに微笑みを』(昭和44年)
『青春の蹉跌』の5年前の作品ですが、失礼ながら演技は学芸会レベル
グループ解散後の、ショーケンの水を得た魚のような活躍ぶりなど想像もできなかった時代です。
俳優として映画やドラマで活躍しながら、昭和50年に久々に再開した歌手活動でリリースしたアルバム
すべて私物で他にカセットテープもありますが、レコードプレーヤーもカセットデッキも無し。
私がショーケンのステージを観たのはたった一度、「最後の日劇ウェスタンカーニバル」です。
70代を迎えることさえなかった萩原健一という俳優の、若かりし日の作品の余韻に浸っています。
お読みくださいましてありがとうございます。
映画館近くのカフェから向かい側のビルを見上げましたら、
屋根の上に本が3冊 (ご覧になれますか?)
そんな神保町らしい風景に、お手数ですがクリックをお願いいたします。
昭和49年(1974年)公開
萩原健一(当時23歳)は、この作品で「キネマ旬報 最優秀主演男優賞」受賞
混沌とした時代に生きる若者の熱情と焦燥感を描いた作品に集うのは、出演者と同じ団塊の世代と思しき方々。
新宿駅東口が映れば、思わず「鈴屋」(若い女性に人気のあったお店)を探してしまう私は、少しだけ下の世代。
道を歩きながらタバコを吸うショーケンがそのまま喫茶店に入ると、レジの横にはピンク電話。
駅には「伝言板」があり、山手線はグリーン一色・・・それが「昭和」だったのですよね。
ショーケンといえば、ザ・テンプターズの頃からファンでした
(「あら、ジュリーじゃなかったの?」という声が聞こえてきそうですが、それはそれ、これはこれ)
ザ・テンプターズ時代の LP
左のレコードジャケット「5-1=0」は、メンバーが一人でも欠けたらザ・テンプターズじゃない
という意味でしょうが、既に「5-3」です。
わずか3年間の活動期間に、ザ・テンプターズとして出演した映画『涙のあとに微笑みを』(昭和44年)
『青春の蹉跌』の5年前の作品ですが、失礼ながら演技は学芸会レベル
グループ解散後の、ショーケンの水を得た魚のような活躍ぶりなど想像もできなかった時代です。
俳優として映画やドラマで活躍しながら、昭和50年に久々に再開した歌手活動でリリースしたアルバム
すべて私物で他にカセットテープもありますが、レコードプレーヤーもカセットデッキも無し。
私がショーケンのステージを観たのはたった一度、「最後の日劇ウェスタンカーニバル」です。
70代を迎えることさえなかった萩原健一という俳優の、若かりし日の作品の余韻に浸っています。
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映画館近くのカフェから向かい側のビルを見上げましたら、
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