倉野立人のブログです。

日々の活動を みなさんにお伝えしています。

〈 いったい どんなやり取りが・・・ 〉

2013-07-13 | インポート
7/12 Fri. [ クラちゃんの起床時刻  5:35 AM ]

自治体の市役所で、男が火炎瓶を投げ火災が発生、ケガ人が出る事件が発生し、衝撃が走りました。
現場は、市役所の 「 市税収納課 」 窓口で、固定資産税を滞納し、財産 ( 預金 ) を差し押さえられた男が 督促状が届いたことに腹を立てて窓口を訪れ、話しのさなかに口論となり 犯行に及んだそうです。
自宅からガソリンや火炎瓶を持ち込んだことから、計画性もある とされています。
万一、ガソリンが人の身体にかかり引火すれば 命に関わるところでした。ケガ人だけで済んだのは 不幸中の幸いと申せます。


・・・。
いったい、どんなやり取りがあったのでしょう。
報道によると、加害者男性は 腕のイイ溶接工だったそうで、現役時代は評判も良かったそうですが、いつから凋落の道を歩むようになったのか。


今回の現場となった納税の窓口や、生活保護などの厚生関係の窓口には、さまざまな状況を抱えた市民が訪れることから、窓口対応には 一層の気遣いが求められています。
長野市においても、従前に厚生関係の窓口で職員が暴力を振るわれる事案が生じたことがありますが、日々の業務の中での窓口業務の大切さ=難しさ、もっといえば市民の方々との 「 向き合い方 」 が機微(きび)に触れると、それは ときに感謝の材料になったり、ときに争議の火種になったりする、何とも 微妙な面 を感じさせられるものです。
今回の事案は、放火の行為そのものは許されるものではなく、この男の身勝手は言い分や振る舞いは罰せられて余りあるものですが、その 伏線 になったこと ( 窓口対応だけでなく、社会背景や ここに至る経緯、本人の人物像など ) は何か、改めて検証する必要があると思います。( 事実は当事者のみが知るところであり、報道を聞いただけの者が軽々に言えるものではありませんが )
対面 という点では、例えばお店の接客態度について疑問を呈したくなることがあったり、規則には則(のっと)っているものの、あまりに杓子定規な対応をされて世知辛い思いをすることもあります。
行政自治体においては、市民は納税者(顧客)であり、それに対して市(職員)は受益者、もって 受益者は納税者に 感謝と敬意の気持ちをもって接するべきです。
そのうえで 納税義務を果たさない者には、規則に基づき然るべき対応をするところですが、その 対応 の際に、ことばひとつ、ちょっとした態度ひとつでひとたび琴線に触れてしまえば、互いに不幸な結果を招いてしまうことになりかねません。
職員にしてみては、規則に則り真面目に業務を遂行したのに苦情の対象になったのでは甲斐もないところです。
いずれにしても、まさに 市と市民との 「 接点 」 である窓口業務の 大切さ と 難しさ、また ことばひとつが誤解を招いたりして争議の火種にもなる、ことばの機微 を改めて感じた事案でした。


/
一方、名古屋市の中学校で 「 いじめ 」 により生徒が自殺したことが報じられ、またか・・・の思いと共に胸が苦しくなったものでした。
いじめられていた生徒は、日常的に明るく、皆に親しまれる存在でしたが、その一方で 一部の同級生から心無いことばを浴びせられ、心に重く辛い荷物を独り抱えたまま、自ら命を断つに至ってしまいました。


ここで、またぞろ表面化したのは、その場にいた生徒の言い分と、学校(担任)の言い分が全く食い違っていることです。
ここでもやはり 「 いったい どんなやり取りがあったのか・・・。 」 が 問われるところ、事実はどこにあるのか、が注視されるところでしょう
報道を見る限りでは、周囲にいた生徒は 「 いじめ 」 を認識し、学校(担任)には その認識が無かった、ということのようです。
「 いじめ 」 については、その〝定義〟が見直され、それまで いじめ と捉えられなかった事案も いじめ と認定されるようになりました。
(その 定義 の中にもありますが)いじめなどの事案は 「 された側(被害者)がどう感じたか 」 が基準になるべきものと考えられます。
混雑する電車内、ハイヒール踵で足を踏んづけられました。踏まれた方は激痛に悶絶するも、踏んずけた女史は、大概 「 アラ すいません。 」 で済ませてしまいます。

踏まれた者の痛みは、踏んだ方(ほう)には分からないものです。
今回、被害生徒は、クラスで気丈に振舞うも、心に大きな痛みを抱えていたのでしょう。でも残念ながら、学校(担任)は、その痛みを共有できていなかったと思われます。( または 知っていても、その 痛みの大きさ を理解していなかった か・・・まさか知っていて知らぬふりをしていたとは思いたくありませんが )
せめて望むべくは、今回の学校(担任)が、過去に起きた事案で いくつもの教育委員会が醜態をさらしたような〝保身〟や〝隠ぺい〟をせず、詭弁を語らず事実は事実として公表し、その事実を真摯に受け止める 「 心 」 をもってもらいたい、ということです。


〝言い分の違い〟がつくった溝は、簡単に埋まるものではありませんが 「 心 」 があれば、やがて理解を得られる ( 真実に辿りつく ) と信じたいものです。
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