森の空想ブログ

時空を駆ける馬:神馬の居場所/「神楽」と「仮面」の民俗誌(8)[展示品解説⑧]/オンライン展覧会<4-8>]

この「神馬」が私どもの手元に来て、およそ40年になる。当初、100点の「民俗仮面」を南九州在住のコレクターから譲っていただいた時に、一緒だったものである。それは、幾つかの仮面とともに西都原周辺の神社に奉納されていたものが流出し、古美術業界を点々としていたものだということであった。第一期の「由布院空想の森美術館」が、オーナーの急死という突発時を乗り越えて開館した時、100点の仮面展示の前面を飾った。風化によって足も頭部の一部も尻尾も失われていたのだが、むしろそれによって余分のものが削ぎ落とされ一点の「オブジェ」として美が宿り、独立していた。その形態は、唐三彩の様式を残し、アジアの草原地帯を風を切って走る姿や風の音を展示空間に甦らせた。騎馬民族が日本国を樹立したという説には簡単には同意しかねるが、「馬」とともに生き、馬を神聖視する民族との何らかの文化的交流があり、それが渡来し、日本列島の政治や生活文化に影響を与えたものであることは、これによってわかる。

古代、朝廷や貴族に馬を献上する儀礼があった。各地の古墳には馬の埴輪が存在し、平安時代の文書には、ある貴族の庭に献上された馬があふれて困ったという記事がある。その後、「馬」は彫刻や板に描かれた「絵」で代用されることとなった。「絵馬」の起源がこれである。作今の合格祈願の絵馬などは、神格を持った馬の零落の果てというべきだろう。

軍馬として重用された時代は武田の騎馬軍団に象徴されるが、鉄砲の伝来により、その戦法は過去のものとなったはずだった。が、太平洋戦争においては軍馬は兵の命よりも大切にされたという歴史の皮肉がある。軍艦から大砲が発射され、戦闘機が空を飛ぶ時代に、人と馬で戦った無知で愚かな戦争は、負けるべくして負けたのである。

農村や山村では、田畑の耕運や林業資材の運搬などで活躍した。人と馬とが家族のように暮らし、生活と労働をともにしたのである。重い荷を峠を越えて運ぶ時など、懸命に引いてもなお荷の重量がその力に余る時、馬は飼い主の顔を見つめ、ぽろりと大粒の涙を流すことさえあったという。人と馬とは、情を通じ合う仲間だったのだ。

掲示の「神馬」は、2001年の空想の森美術館閉館後、東京での企画展に展示されたり、京都の古美術商が主催するカタログオークションに出品されたりしながら、流浪の旅を重ねて、いま、ここ西都原古墳群にほど近い「九州民俗仮面美術館」で、100点余りの仮面とともに展示され、南の国のあたたかな冬の陽射しを受けてようやく安息の吐息をついているようにみえる。その風姿が、本来の居場所に還ってきたことを物語っている。


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