くろたり庵/Kurotari's blog~since 2009

総務系サラリーマンの世に出ない言葉

もうすぐ終戦記念日ですね

2014-07-30 23:44:58 | つれづれなるまま

 大きな古時計

 外では絶えまない爆撃音が続いていた。

 悲鳴のような爆弾の落下音や建物の焼け落ちる音が、防空壕の壁や天井を休むことなく

震わせている。おびえる人々は薄暗い防空壕の中で身を寄せあい、戦禍が過ぎ去るのをじっ

と待っていた。壕内は婦人と年配の男でいっぱいだったが、誰もが何も話さなかった。

 良造と妻のつね子もまた、近所の者と一緒に避難してこの防空壕の片すみにうずくまっ

ていた。壁は恐怖に震える人々の息を吸い、じっとりと湿っている。そんな冷たい湿り気

が、壁にもたれる良造の国民服を濡らし、彼の背中にべったりとはりついていた。良造に

はそれがたまらなく不快だった。

 良造は防空ずきんを深くかぶり目を閉じていたが、やがてふと思い出したように腰を上

げ、口ばやに言った。まるで熱に浮かされたような言い方だった。

「そうだ時計だ、時計を忘れた」

 壕内の誰もが驚いて良造の顔を見上げた。

「時計?」つね子が聞いた。つね子の顔は煤と土で浅黒く汚れている。

「玄関の広間にかけてある柱時計だよ」良造は中腰になり、竹とむしろで作られた出入り

口に行こうとしている。「早く取ってこなければ灰になってしまう!」

「そんな、もう無理よ!」つね子は良造の腰をつかんで叫んだ。

「そうだよ、良造さん。もう無理だよ」自警団員の綱治が言った。

「つね子さんの言うとおりよ。行かないほうがいいわ」

「外は火の海だ。死んじまうぞ」

 良造を知る者達は口々に彼を止めた。壕内は騒然となった。

「あの時計は大事なものなんだ。燃やすわけにはいかん」

 良造はみんなの忠告をきっぱりとさえぎると、すがるつね子の細い腕をありったけの力

で振り払った。

 つね子は良造の力に勢いあまって冷たい土の上に手をついた。防空ずきんのすそからお

くれ毛がのぞく。彼女は顔をゆがめて哀願した。

「出ていかないで!時計ならまた買えばいいじゃないの!」

「うるさい。あの時計はただの時計じゃないんだ!」

 良造はそう言い放つと扉をずらし、外へ飛び出して行った。扉の隙間から熱気を帯びた

焦げ臭い匂いが壕内に漂った。

           *          *          * 

「それでどうなったの」

 良雄は大きな瞳をきらきら輝かせて祖母に聞いた。

「おばあちゃんは慌てて追いかけて行ったわ。そしたら、おじいちゃんたら背中に大きな

この時計をくくりつけてね、燃えさかる炎の中から出てきたんだよ」

 良雄の祖母はしわだらけの顔を、もっとしわだらけにしてくすくすと笑った。

「火の粉を振り払いながら、あついあついと言ってね」

 良雄の家には、良雄が生まれる前から古い柱時計がある。大きさが大人の背丈ほども

あり、ローマ数字の文字盤の下に真鎗製のまるい振り子がぶらさがっているやつだ。

 文字盤と振り子の部分を覆うガラスは白くくもり、時計の周囲を縁どった金枠の金メッ

キは所どころ剥げている。樫の木でできた漆塗りの外函は黒くすすけ、大小の傷があちこ

ちについていた。ぜんまいは鎖を引いて分銅を巻き上げる方式だが、今はもう動かない。

 動かなくなった時計が、どうしていつまでも家の柱に掛かっているのか、良雄にはわか

らなかった。「きっと古いから値段が高いんだ」良雄は子供心にそう思っていた。

 九つになったある日、良雄の祖母がこの古い柱時計のことを話してくれた。

「おじいちゃんが生まれた日の朝に、おじいちゃんのお父さんが買ってきたそうだよ」

 祖母は良雄にそう教えてくれた。まだ小学生だった良雄には、それは驚くべきことだっ

た。ぽくが生まれるまえからこの時計はあったんだ。ぼくよりもずっと年をとっているんだ。

そう思うと良雄は何だか不思議な気持ちになった。

「ほら、ここに大きな焦げ跡があるでしょう」彼女は時計の左側面にある、へちま形の

黒い染みを指した。「これがそのときの空襲でついた焦げ跡なんだよ」

 良雄は祖父のことを覚えていない。祖父は良雄が生まれた次の年に死んだのだ。アルバ

ムに残る写真の祖父は、白髪頭に丸眼鏡をかけ、どれもむっつりとして怒っているようだっ

た。

「いかめしい顔をしているけど、とても優しい人だったのよ」祖母はきまっていつもそう

言っていた。

 良雄の祖父は農学博士だった。戦後、彼は食糧不足を解消するために作物の品種改良に

尽力し、化学肥料の開発と製造のパテントをとって財を築いた。

 いくつもの苦難と挫折を乗り越え、その先に希望と喜びがあった。不屈の信念と家族へ

の愛が彼をいつも支え、どんなときにもその傍らにはつね子がいた。そして時計がふたり

をいつも見守っていた。振り子のひとふりひとふりが、ふたりの人生の一瞬一瞬を映し、

そして刻みこんでいった。

「血のにじむような思いだった。そんなすべてをこの時計は知っているのよ」

 祖母は骨と皮だけになった染みだらけの手で、いとおしそうに時計をさすった。

「いつだってこの時計が私達と一緒だったわ。最後の最後までね」

            *          *          * 

 深夜を告げる鐘の音がひとつ、静まり返った家じゅうに響きわたった。

 家の明かりはこうこうとして、誰も眠ってはいない。良造の家族とその親戚の者達は、

医者に呼ばれて良造の部屋に集まっていた。

 良造は二、三日前から体がつらいと言って床に伏せたままになっている。「ご老齢だから、

もう手の打ちようがありません」と言う主治医の言葉に、つね子が慌てて親戚一同に連絡

を入れたのだ。

 時計の低い鐘の音は、良造の部屋に集まった誰の耳にも届いた。そしてすぐに静寂が再

び人々をつつみこんだ。時を刻む振り子の音だけが規則正しく、やけに大きく聞こえてい

る。まるで良造の心臓のリズムに合わせているかのようだった。

「父さん、しっかりしろよ」長男の良一が良造の耳元で言った。

 良造にはそれが聞こえたのか、彼は目を閉じたままもぐもぐと口を動かした。

「何て言ってるの、あなた」つね子が良造の顔に耳を近づける。しかしそれは言葉になら

なず、弱々しい呼吸だけがつね子の痩せこけた頬に感じられるだけだった。

 時計の鐘の音がふたつ鳴ったとき、良造が呻き声を出してあえいだ。

「あなた?」つね子が静かに声をかけた。「父さん!」「おじいちゃん!」ほかの者も次々

に良造に呼びかける。しかし、良造はそれっきり眠ったように動かなくなった。

「失礼」 医者がつね子を制して良造の枕もとに出た。彼は黒革の鞄からライトを取り出し、

良造のくぼんだ瞼を指で開いて照らした。それから痩せこけた良造の右腕を取って脈を測

ると、神妙な顔つきで自分の腕時計を見た。

「午前二時二分、大往生です」医者の柔らかい声が室内に響いた。

 取り乱す者はいなかった。ただ声を潜めて涙を流すものがいるだけだった。

「ようがんばったなあ、父さん」良一が声を震わせると、それまで小さかったすすり泣き

が大きくなった。

 つね子は布団のシーツをしっかりと握り締め、堅く目を閉じて唇をかんでいた。ほつれ

た白髪がここ数日の看病疲れを思わせる。

 やがてつね子の痩せた肩が小刻みに震え、大きな涙の粒がぽたぽた落ちた。畳にいくつ

ものしみが広がった。

 良造が死んでからしばらくして、柱の古時計は時を刻むのを静かにやめた。まるで良造

の死を見取り、安心するかのようだった。

 時計は良造とともに生きて、良造とともに逝った。そして時計は多くの思い出だけを残

して、それっきり動くことはなかった。

 

大きなのっぽの古時計 おじいさんの時計

百年いつも動いていた ご自慢の時計さ

おじいさんの生まれた朝に 買ってきた時計さ

いまはもう動かないその時計

 

なんでも知ってる古時計 おじいさんの時計

きれいな花嫁やってきた その日も動いてた

うれしいことも悲しいことも みな知ってる時計さ

いまはもう動かないその時計

 

真夜中にベルが鳴った おじいさんの時計

お別れの時がきたのを みなに教えたのさ

天国へのぼるおじいさん 時計ともお別れ

いまはもう動かないその時計