花と山を友として

何よりも山の花が好き、山の景色が好き、山で出逢う動物が好き、そして山に登る人が好き。
写真と紀行文で綴る山親父日記

金色姫伝説の蚕影神社を訪ねて

2013年03月04日 | 登山

蚕影神社拝殿脇にある休憩舎(たぶん)に掲げられている
彩色絵の奉納絵馬
多分に金色姫伝説の「からびつ」を空けて蚕を見て驚く権太夫夫婦
を描いたものと思われる。
この写真をトリミングして部分拡大すると、老夫婦の表情が
見事に描かれている事に驚く。

右の爺様の表情


左の婆様の表情

実にいす生き生きと描かれていて、伝説の絵巻物を見ているような
錯覚を覚える。
この額を奉納したのは、長野県の小県郡(ちいさがたぐん)神川村の人らしい。
ちなみに小県郡神川村で調べてみると、明治22年に大屋村、国分村、
岩下村、蒼久保村の4村が合併して出来た村だと出ている。

この他にも、彩色絵が本殿等にも有ったが、長年風雪にさらされて
何を描いたのか判らないのが多数有った。
誠に残念と言うほか無い。

2月中旬、燧ヶ池を尋ねた帰り、蚕影山(こかげさん)にも登って、蚕影神社
を訪れた時の写真である。
結エディットが出版している「郷土の先達とゆく筑波山」によれば、205段の
石段を登ると出ているように、付近の自然石を用いて作ったという形も
バラバラの石段を登っていく。

最初の石段


2番目の石段


鳥居の向こうに3番目の石段が見える。


3番目の石段を見上げると、やっと拝殿が見えてくる


拝殿の正面


屋根を見上げると「蚕」の文字が飾ってある。
天の虫と書いて「蚕」という文字が出来ているのに納得。


拝殿の脇に有る休憩舎とおぼしき建物、この中に彩色の絵馬が
飾られている。

この神社の回りは、養蚕に関係する団体や個人の奉納額で
埋め尽くされていると言っても 過言ではない。
流石に養蚕発祥の地と言われる由縁である。

神社の石段の登り口に、蚕影神社の沿革を説明する看板が
立っている。
その中に、「金色姫(こんじきひめ)」の由来が書かれている。
それについては、先ほど紹介した本にも書かれているが
相模原の歴史シリーズ」というサイトに、番外編として
蚕影神社の紹介が出ていたので、そちらを紹介する

相模原の歴史シリーズ

この中で面白いのは、3番目の和気広虫の伝説だ。
コカゲサンの名前の起こりが最もらしいのが良いですね。

ところで、私が訪れた時、神社の回りの巨木が、軒並み切り倒され
無惨な姿をさらしていた。





あまりにも酷いので、つくば環境フォーラムの代表を務める
田中さんに聞いてみたところ、地震で壊れた建物などを撤去
するため、車道を造っているらしいとの事だった。
それでは仕方が無いと思いつつも、残念な気持ちも有った。


拝殿の裏に立つ本殿
よく見ると床がボロボロだった。


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金色姫伝説には、インドから中が空洞な桑の丸木舟で
筑波山麓の豊浦に流れ着いたという事が書かれている。
現在の筑波山麓からは想像も出来ない話で有るが、その昔
筑波山麓まで海が入り込んで、入り江を作っていたという。
これは、筑波書林が出版している「筑波山」という本に
出ている。
著者は朝日新聞の科学部長などを歴任した木村 繁さんで

それによれば小田、北条、沼田と海岸が続き最奥は椎尾の
あたりまで入り江が入り込んでいたという。
その証拠として、筑波山麓の各地に貝塚が残っているという。
北条や豊里町田倉、真壁の椎尾、八郷町柿岡などに貝塚が
あると書かれている。
しかも、その貝塚から、タイやスズキなどの魚の骨、シカ
イノシシ、イヌなどの骨、黒く焼けたサザエ、木を燃やした
灰、極めつけは、石で作ったオノ、オモリ、矢じり等も
出てきたという。

つまり、実際にはあり得ないけれども、理屈ではインドから
海を超えて筑波山麓に流れ着く事は可能だったのだ。
伝説とは言え、実に面白いではないか。

尚、「郷土の先達とゆく筑波山」には、次のことも書かれている
近くの「」という集落には、「豊浦」という地名があり
そこに「権太夫」を祭った権太夫宮がある。
またの向かい側の立野に、舟が着いた「舟の宮」が有る
と書かれている。








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