黒田官兵衛 豊前への入国
中津城造営開始12年ほどで 関ケ原
関ケ原の活躍で 筑前へ転封
ま~ ここが いろいろ思う所であります
豊前へは 九州制圧した秀吉の命
問題は それまで 400年収めてきた
宇都宮家 は 今治に移封
これを 宇都宮鎮房 が 拒否
黒田官兵衛が嫡男 長政と内戦となる
死闘の末 鎮房 の娘 鶴姫と長政の婚姻
ということで和睦
とみせかけて
中津城で 婚礼酒宴の席で 鎮房 謀殺
鶴姫は 長政に 山国川で 磔 殺害
鎮房 嫡男 朝房 は 官兵衛が殺害
同行した 家来は 合元寺で 討死
所領安堵と引き換えになった 鶴姫は十三
たしか 助命を拒んだのではなかったかな
という 謀 が付いてまわる 中津城
その後 十年
関ケ原では 家康方についた 長政
関ケ原以後 細川家が 入国
それから 十五年後 豊臣家滅亡
いろいろ あるのだが…
復興天守は
下見板張り 黒天守
もろ 豊臣の城
とても かっこよく 模擬されている
お手本は 萩城だとか
黒田時代の資料が残ってない
この位置には 二重櫓しかなかったようだ
本丸中央から見ると 北東の位置にあり
鬼門 となる
それもあって 濠 石垣が 角 すみ がないのかも
それを 知っていても
ここに 400年 鎮座してたかのような 佇まい
左の 二層櫓も 復興
このくらいのが あったのかと思う
戦後 復興に 尽力したのは
四代藩主だった 奥平家一族
よくぞ ここまで
もともと あったものでもないのに…
東側から
逆光と黒天守 ということもあり
400年ものの土台に 60年物の天守
最初に造営を始めた 黒田官兵衛
天守はもちろんのこと
十余年しか いなかったのに
黒田官兵衛 の 城と
勘違いしてる人も 少なくないかもしれない