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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

金山城にて越相同盟を決める対談が行われた? ―上州争乱(33)―

2013年10月23日 | 戦国時代の部屋
群馬県太田の金山城を初めて知ったのは、
18歳か19歳のときだったと思う。
夜にレンタルビデオ屋さんで高校の同級生とばったり会い、
彼はなぜか金山城を教えてくれたのだ。

そのときは、ただ夜景が綺麗な場所としか思わなかった。
「金山城」という城を聞いたのもそのときが初めてで、
言い換えれば、その頃のぼくは城に興味を持っていなかったことになる。

それから十年以上が経ち、年を追うごとに金山城はいろいろな表情を見せた。
すなわち、城や郷土史に興味を持ってはじめて、
この城の奥行きを知ったのだ。
新たな知識が入るたび、その都度表情を変えた。

金山城主由良成繁が、越相同盟の仲介者として奔走し、
金山城内において対談が行われたと知ったのはいつだったろう。
武田信玄の駿河進攻によって、後北条氏は上杉謙信と和し、
武田氏に対抗するという政治的転換に迫られた。

この後北条氏と上杉氏の「一和」について実務的に動いていたのは、
沼田三人衆の松本景繁・河田重親・上野家成であり、
その仲介役を務めたのが由良成繁だった。
いずれも上野に駐在する国衆であり、
彼らなくして越相同盟は成立しなかった。

その沼田三人衆が同盟をまとめるにあたって、
北条方の担当者と対面し、会談しなければならない。
会談の日取りを決めるべく、
遠山康光と垪和康忠が金山城へ向かったのは、
永禄12年3月16日のことだった。

対談は、翌月の7日か8日頃にすること。
小川夏昌を介すことなどを決め、金山城をあとにした。
仲介者である由良成繁は、このことを沼田三人衆に伝える。
成繁は神経をすり減らすように立ち回り、
同盟を何とかまとめあげようとしていただろうか。
この頃の成繁の苦労が偲ばれる。

そんなことに想いを馳せながら金山城に足を運ぶと、
それまでとは別の表情を見せてくる。
単に夜景が綺麗な場所なだけではない。
いろいろなドラマが潜んでいる。

郷土史に興味を持ったのも、
切り口一つで変わる景色に新鮮さと衝撃を覚えたからだった。
ぼくはまだ歴史の「れ」の字も知らない。
この先、金山城はどんな表情を見せてくれるのだろう。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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金山城 (treasure)
2013-10-23 18:39:22
この城も、謀略で落城したと聞かなければ、落城するイメージがしません。遺構は昭和の失業対策による工事によるものというのが残念ですね。由良氏も謀略で金山城を手にしているので、自分のしたことは自分に帰ってくるということでしょうかね。
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treasureさんへ (クニ)
2013-10-24 07:55:03
謀略は、ほとんど無傷で城を手に入れられるのが長所ですよね。
決してうまくいくとは限りませんが、力攻めよりも焦点が合っていたと思います。
金山の本丸まで行ったときはびっくりしました。
それまで展望台止まりだったのですが、
まさかあんな風に整備されているとは知らず、
城に興味を持ってからの新規開拓でした(笑)
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強襲 (treasure)
2013-10-24 19:03:35
攻城戦には籠城兵力の3倍の兵力がいると、孫子にはあったと思います。この山城に強襲(ごうそ)なんてしたら、どれくらいの被害が出ることやら。

クニさんが驚いたのも分かります。おまけにあの水の手なんでしょうが、池も見事です。

最近は、資料館もできましたが、行かれましたか?
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treasureさんへ (クニ)
2013-10-25 07:54:34
綺麗に整備されてますよね。
池もリーフレットなどに使われているのを見たことがあります。
昨年か一昨年だったか、金山城を背景にしたリーフレットのイラストは格好良かったですね。
残念ながら資料館にはまだ行ってないです。
ということは、金山にもしばらく足を運んでないということですね。
たまには顔を出しに行こうかな・・・
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