クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

「天地人」、それでも“夢”を諦めない? ―太田資正の夢―

2009年07月20日 | 城・館の部屋
大河ドラマ「天地人」(NHK)で、
“小田原合戦”が描かれた。

周知のように、後北条氏の没落の戦いである。
豊臣秀吉はこの合戦の勝利により、
天下統一を果たした。

実は、小田原合戦に最後の望みをかける人物がいた。
その男の名は“太田資正(おおたすけまさ)”。
日本初の軍用犬を使用し、智将と名高い男である。

資正の望みはただひとつ。
武蔵岩付城(埼玉県さいたま市岩槻)の奪還だった。

資正は永禄7年(1564)に、
実の息子に岩付城を追放されてしまう。
その後は“佐竹義重”の客将となり片野城主(茨城県石岡市)に就くが、
彼の命を賭してでも叶えたい夢は、
岩付城の回復だった。

天正18年(1590)当時、資正はすでに69歳の齢を重ねていた。
もし岩付城を回復できるのなら、
最後の好機と捉えていたであろう。

ところが、資正は秀吉の機嫌を損ねてしまう。
小田原城は堅固であり、兵糧や兵力も十分備わっている。
そのため、力攻めでもすぐに落城はしないだろうと述べたところ、
秀吉は鼻で笑った。
「数年北条と戦い、奴は臆病風に吹かれている」と……(『奥羽永慶軍記』)

その頃、資正が回復した岩付城では、
“浅野長吉”や“本多忠勝”らによる攻撃が開始されていた。
数年前から戦いに備えていた岩付城であったが、
城主“太田氏房”は小田原に参陣しており不在であった。

5月20日早朝、総攻撃を開始。
寄せ手はすぐに町まで攻め寄せ、次々に首を刎ねた。
『北条記』によると、
城中から鉄砲を撃ち、必死に奮戦したが多勢に無勢。
堀を越え鯨波をあげて攻め寄せたという。

激戦が繰り広げられた。
寄せ手は町外曲輪、三の丸、二の丸を破り、
城兵は次々に首を刎ねられた。
次第に戦う者はいなくなり、
城には町人、百姓、女以外はいなくなったという。

 何も役にも立候者ハ、はや皆到討死候、
 城のうちニハ、町人・百姓・女以下より外ハ、無御座候(「加能越古文叢」)

そして、岩付城は5月22日に落城。
太田氏房と、氏資の妻は小田原に送られることになった。
名のある武人の妻であるがゆえに、
丁重に運ばれたという(同掲文)

小田原城は7月5日に開城。
石田三成の水攻めをしても落ちなかった忍城(埼玉県行田)も、
同月11日に開城した。

北条氏政と氏照らは切腹。
氏直は高野山へ追放となった。
5代にわたって関東に覇を唱えた後北条氏の没落である。

太田資正はどのような思いで、
この没落を目にしただろう。
かつては上杉謙信に就き、北条と戦った日々もあった。
永禄4年の謙信の小田原城攻めでは、
第一陣に布陣し、蓮池まで攻めた資正である(「上杉年譜」)
栄枯盛衰の理を見る思いだったかもしれない。

同年8月1日、徳川家康は関東に入国した。
岩付城は太田資正には与えられず、
“高力資長”が入城することになる。
新しい時代の幕開けである。

そのときの資正の胸中はわからない。
もはやこれまでと思ったかもしれない。
まるで新時代の到来を見届けたかのように、
翌年9月8日、資正は片野城で70年の生涯を閉じた。

岩付城回復という夢はついに叶わなかった。
ただ、その「武州本意」が、
彼の大きな原動力であったことは想像に難くない。
もしその夢がなかったならば、
資正の人生は全く異なっていただろう。

人は言う。
叶わないから「夢」なのだと。

しかし、夢が生きる糧となることは確かである。
夢があるから生きられる。
夢があるから希望を持てる。
例えそれが叶わぬ夢だとしても、
諦めない限り、人は夢を見続けられる。

資正は幾度かの挫折を味わっているが、
決して夢を諦めなかった。
夢を見続ける強さがある。

結果的に、その夢は叶うことはなかった。
「つまるところ負け組ではないか」と、人は言うかもしれない。
しかし、その死から400年以上がたっても、
彼の燃やした命は確かな存在感で歴史に刻まれている。
そして、いまを生きる我々の心を打つのである。


岩付城(埼玉県さいたま市岩槻)の黒門


岩付城は別名「白鶴城」とも呼ばれる。


岩付城は現在公園になっている(鍛冶曲輪跡)


岩付城と歴男(わたし)

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2 コメント

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暑い日が続きますね (儀一)
2009-07-20 15:21:35
こんにちは。

貴ブログにてご活躍を読ませていただきました。
講演は受講者の方に分かりやすい説明をする事が大切なのでしょうから、きっと苦労なさったのではないでしょうか?

力や才能が有りながら時勢に恵まれず不遇な生涯を終えた人物は大勢います。もちろんそれは太田資正もそれに当てはまる事でしょう。
しかしながらこれらの人々が居るからこそ栄光に輝く人も居るのは事実だと思います。これは歴史が紡ぐミステリーであり、後世の我々が当時の人々の生き様を読み、感じ、考える事により、彼らの人生が活かされて行く事になるのだと思います。
先人たちの一生懸命生きたその生き様を、我々は有り難く学び、自身の生き方に反映させる事が故人への供養に繋がるのではないかと思います。

少々長くなりましたが、今後のご活躍心より応援いたしております。
では。
返信する
儀一さんへ (クニ)
2009-07-21 22:20:36
こんばんは。
コメントありがとうございます。
暑いが続いていますが、ここしばらくは天気が崩れそうですね。

光りがあれば影がある。
逆に言えば、影なくして光りはありませんね。
教科書に載っている人物の背後には、
どのくらい影となっている人たちがいるのでしょう。
書かれなかった歴史の中に、
いま我々が探している答えがあるのかもしれません。
書かれた歴史はほんの1部にしかすぎない。
我々はその外側に目を向けなければなりませんね。
そしてそこに学ぶべきものがあると思います。

羽生城講座は次で3回目を迎えます。
テーマは「羽生城の落日」です。
1週間前になると神経が張り詰めてきますが、
当時は楽しくお話をさせていただこうと思っています。

天気が崩れて気温の変化が顕著になっていますが、
お互い体調を崩さずに、この夏を過ごしたいですね。
城館の熱い夏になりますように……
返信する

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