クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“焔の人”長井五郎 -清水卯三郎研究の先駆者-

2006年09月22日 | 羽生城跡・城下町巡り
清水卯三郎の生家跡である入山商店には、
画像のような木札が立っています。
南側に並ぶ自動販売機のすぐ隣で、
そこには清水卯三郎に関する事柄が記されています。
実はそれを書いた人物こそ、卯三郎研究の先駆者「長井五郎」氏です。
いまでこそ清水卯三郎の名は羽生市のみならず、
全国に知られるようになりましたが、
長井氏なくして現在の知名度はなかったでしょう。

長井五郎氏は大正14年3月31日に埼玉県熊谷市で生まれました。
陸軍士官学校、東京文理理科大を経て埼玉県職員になると、
1957年には同県教育長に就いた人物です。
行田の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」を、
国の指定文化財の手続きに尽力したり、
伊奈学園総合高校をはじめとする高校の新設で、
全国に先駆けて総合選択制を導入したりと、
埼玉県の文化財の保護や発展に大きく貢献しました。

そんな長井氏が清水卯三郎研究をはじめたのは昭和44年のことです。
雑誌に掲載された杉村武氏の「ものわりのはしご」に触発されて以来、
幕末から明治にかけて活躍した清水卯三郎という人物に傾斜していきました。
翌年の昭和45年には『しみづうさぶろう畧伝』を刊行。
さらに、昭和59年には『焔の人 しみづうさぶろうの生涯』を出版しました。
これによって卯三郎研究は確立され、
彼の著書を読んだ後進の者が、相継いで現れるようになったのです。

長井氏が亡くなったのは平成6年7月29日。
多くの人々から惜しまれながらの死でした。享年69。
葬儀に参列し、また生前懇意だった方の話によると、長井五郎という人物は、
とてもハキハキとした生一本な性格の持ち主だったそうです。
卯三郎研究のほかにも『埼玉風土記』や『埼玉の民俗・年中行事』を著しており、
胸の内に情熱を燃やし続けた人物だったということでしょうか。
県の教育長として、または郷土史家として尽力した長井五郎本人こそ、
「焔の人」だったのかもしれません。
没後から十年以上もの歳月が流れましたが、
彼が生前に灯した焔はいまでも消えることなく、
後進の者に受け継がれているのです。

参考文献
埼玉県教育委員会・埼玉県立文書館編『埼玉人物事典』

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