羽生市内に「砂山」と呼ばれる地域がある。
初めて耳にしたときは、読んで字のごとく「砂の山」があると思っていた。
そのイメージは間違ってはいない。
実際にこの地域には砂の山が連なっていた。
かつて古利根川の営みによってできた“砂丘”である。
いまも砂山を流れる“会の川”が、かつての利根川だった。
川が土砂を運び、それを巻き上げる冬の風によって、
川沿いにはいつしか大きな砂丘が発達した。
これを“河畔砂丘”(かはんさきゅう)と言う。
いまでもその一部を見ることができるが、
高度経済成長期以前はもっとすごかったらしい。
一番高いところで7メートル近くの砂丘があり、
その上を松林が覆っていた。
第2次世界大戦のとき、戦車をこの松林に隠すという話も持ち上がっていたそうだ。
しかし、高度経済成長期のとき、どんどん作られる高層ビルの材料として、
多くの砂が必要とされた。
河畔砂丘の砂は良質で、業者から目を付けられたらしい。
砂は瞬く間に売れ、往古の利根川の営みを伝える地形は姿を変えた。
松林は伐採され、砂丘は容赦なく削られる。
いまも残っているとはいえ、
往時に比べたら微々たるものなのだろう。
河畔砂丘は会の川沿いに発達していた。
ゆえに砂山だけのものではない。
ただ、その地名は地形に由来するものである。
地名は地域の歴史を紐解くカギでもあるのだ。
ところで、この砂山村にいつから人が住んでいたのだろうか。
おそらく、舟運によって人の行き来はあったと思われるが、
水害によって大きな集落には発展しなかったのだろう。
『新編武蔵風土記稿』によると、文禄の頃に開墾されるようなったという。
文禄年間は1592年~96年である。
実はこの時期、一つの事件が起こっている。
それは、会の川の締め切りだ。
二つに分かれていた利根川の一つ(会の川)を締め切り、
東へ流す工事が文禄3年(1594)に行われた。
これが利根川東遷の第1期工事と言われるが、
その後の研究で忍藩による単独事業という説が浮上している。
文禄3年当時、会の川はすでに利根川の主流ではなくなっていたが、
その流れを締め切ったことで、流域の村々は安定するようになったのだろう。
砂山村に開墾のクワが入り、やがて人々が定住するようになった。
上掲書には、「新田」の文字の付く小名が3つ見られる。
すなわち、白石新田、新田前、稗田新田である。
江戸時代初期に開墾が始まり、新田の数も増えていった。
締め切られた会の川は細々とした川になり、
少なくとも村を飲み込む大河ではなくなった。
そこで獲れる魚は、村人のたんぱく源になったようだ。
大型ショッピングモールができたことによって、
砂山も全く影響がないわけではない。
昔では考えられないところが交通渋滞となり、
道路も新しく敷設された。
開発によって、「砂山」は消えていく一方だろうか。
ぼくらが遊んでいた頃の砂山の景色は、すでに遠い昔になっている。
初めて耳にしたときは、読んで字のごとく「砂の山」があると思っていた。
そのイメージは間違ってはいない。
実際にこの地域には砂の山が連なっていた。
かつて古利根川の営みによってできた“砂丘”である。
いまも砂山を流れる“会の川”が、かつての利根川だった。
川が土砂を運び、それを巻き上げる冬の風によって、
川沿いにはいつしか大きな砂丘が発達した。
これを“河畔砂丘”(かはんさきゅう)と言う。
いまでもその一部を見ることができるが、
高度経済成長期以前はもっとすごかったらしい。
一番高いところで7メートル近くの砂丘があり、
その上を松林が覆っていた。
第2次世界大戦のとき、戦車をこの松林に隠すという話も持ち上がっていたそうだ。
しかし、高度経済成長期のとき、どんどん作られる高層ビルの材料として、
多くの砂が必要とされた。
河畔砂丘の砂は良質で、業者から目を付けられたらしい。
砂は瞬く間に売れ、往古の利根川の営みを伝える地形は姿を変えた。
松林は伐採され、砂丘は容赦なく削られる。
いまも残っているとはいえ、
往時に比べたら微々たるものなのだろう。
河畔砂丘は会の川沿いに発達していた。
ゆえに砂山だけのものではない。
ただ、その地名は地形に由来するものである。
地名は地域の歴史を紐解くカギでもあるのだ。
ところで、この砂山村にいつから人が住んでいたのだろうか。
おそらく、舟運によって人の行き来はあったと思われるが、
水害によって大きな集落には発展しなかったのだろう。
『新編武蔵風土記稿』によると、文禄の頃に開墾されるようなったという。
文禄年間は1592年~96年である。
実はこの時期、一つの事件が起こっている。
それは、会の川の締め切りだ。
二つに分かれていた利根川の一つ(会の川)を締め切り、
東へ流す工事が文禄3年(1594)に行われた。
これが利根川東遷の第1期工事と言われるが、
その後の研究で忍藩による単独事業という説が浮上している。
文禄3年当時、会の川はすでに利根川の主流ではなくなっていたが、
その流れを締め切ったことで、流域の村々は安定するようになったのだろう。
砂山村に開墾のクワが入り、やがて人々が定住するようになった。
上掲書には、「新田」の文字の付く小名が3つ見られる。
すなわち、白石新田、新田前、稗田新田である。
江戸時代初期に開墾が始まり、新田の数も増えていった。
締め切られた会の川は細々とした川になり、
少なくとも村を飲み込む大河ではなくなった。
そこで獲れる魚は、村人のたんぱく源になったようだ。
大型ショッピングモールができたことによって、
砂山も全く影響がないわけではない。
昔では考えられないところが交通渋滞となり、
道路も新しく敷設された。
開発によって、「砂山」は消えていく一方だろうか。
ぼくらが遊んでいた頃の砂山の景色は、すでに遠い昔になっている。
同僚が埋蔵文化財関係ということもあって、彼からも国土地理院の地図サービスを教えてもらったことがありました。
色々な方にご教示をいただき、とてもありがたいです。
空中写真はじっと見つめてしまいますね。
しかも見飽きません。
開発の波が著しい昨今、古写真は貴重な資料になっていることを実感します。
自分が幼い当時の空中写真を見ると、いまはいない故人が偲ばれて、いささかノスタルジックになります。
砂丘にも、きっと色々な方の思い出が残っているのでしょうね。
すでにご存じであれば申し訳ありません。国土地理院の地図サービスに「地図・空中写真閲覧サービス」なるものがあります。
検索していただくとすぐに出てきます。このサービスでさまざま空中写真を閲覧できますが、羽生、加須地域では古いものは1942年から見ることができます。操作方法は長くなるので省略しますが、例えば、1960年の串作、砂山地区の空中写真は
KT60AEZ(整理番号)CA111(コース番号)968(写真番号)で登録されています。
写真では砂山地区の「砂山」を見ることができます。まさに”異様"ともいえる威容を見ることができます。「志多見砂丘」のように残っていないのが残念です。