(日経10/4:総合・政治面)
「保守本流」とは何か。改めて考える。安全保障関連法の成立に至る過程で、保守本流を自任する自民党岸田派(宏池会)内で議論が割れたからだ。
宏池会は旧日米安保条約に署名した吉田茂元首相の高弟、池田勇人元首相が1957年に創設した。特に大平正芳会長(元首相)以降、保守本流を自任した。現会長の岸田文雄外相は安保法を推進した。
一方、反対論の古賀誠名誉会長は、大平の命日であることし6月12日に同派の若手衆院議員らと多磨霊園を訪れた。墓前で議員らに「保守本流の正念場」と危機感を語ったという。
30年前にも似た議論があった。85年1月5日付朝日新聞に次のような記事がある。筆者は後の編集局長、小栗敬太郎記者である。
「戦後長く続いた歴代保守政治は、『商人国家』論に象徴される通り、世界の政治面へのコミットを極力避けることにつとめてきた。米国からの防衛負担要求に対しても、(中略)一種の『交際費』とみなし、できるだけ軽くすませるのが、吉田茂以来の保守本流の『経済路線』だった」
保守本流のリベラルな解釈である。これによれば安倍晋三首相の積極的平和主義は保守本流を外れる。
ただし記事の主語は「歴代保守政治」だった。吉田路線は当時すでに宏池会の独占ではなかった。五百旗頭真前防衛大校長が指摘する「『吉田なき吉田路線』の定着」である。
五百旗頭氏は編著「戦後日本外交史」で、吉田路線を(1)日米基軸外交(2)自由民主主義(3)軍事より貿易・産業立国を求める経済優先主義――と定義した。吉田以降の首相にとり、鳩山一郎、由紀夫両元首相の対米外交を例外とすれば、程度の差こそあれ、三項目は所与だった。
保守本流は30年前には拡散していた。このためか、宏池会幹部だった田中六助は、85年1月25日初版の遺著「保守本流の直言」で保守本流の再定義を試みた。田中は31日に逝く。
池田、大平と近かった田中は、中曽根政権では自民党幹事長を務めた。古賀氏の政治の師でもある。特攻隊の生き残りで平和への思いは深かった。50年代の冷戦を日経ロンドン特派員として体験した。
田中は保守本流を「統治責任」の自覚と能力のある政治家や集団と再定義し、岸信介、中曽根康弘両元首相を加えた。「保守本流=リベラル」の修正と映る。実は岸と吉田には重要な共通点がある。
新旧安保条約を前に、岸も吉田も、人気より統治責任を選んだ。岸の新安保条約署名を伝える60年1月20日付日経1面に吉田は寄稿し「『守ってもらう』関係から『ともに守る』関係に前進するのは当然」と書いた。保守本流の祖は集団的自衛権を是としていた。
田中の10年後、新定義が提案される。95年刊行「戦後日本の宰相たち」(渡辺昭夫編)所収の北岡伸一前国際大学長による岸信介論は、保守本流を「日米協調路線の維持継続をはかる勢力」と外交方針に絞って定義した。
北岡氏は「吉田茂によって敷かれた日米協調路線が保守本流の本質」とし、官僚出身、吉田との関係は二次的とし、経済重視型の対米協調か、安保重視型の対米協調かも二次的とした。それは米政権の性格や国際環境によると考えた。
田中、北岡定義を踏まえ、歴代政権の保守本流の濃淡を統治責任能力と日米関係上の実績で判断すれば、本格的保守本流政権とは表のようになるだろうか。ここでは安倍政権は紛れもなく保守本流である。
(特別編集委員 伊奈久喜)
「保守本流」とは何か。改めて考える。安全保障関連法の成立に至る過程で、保守本流を自任する自民党岸田派(宏池会)内で議論が割れたからだ。
宏池会は旧日米安保条約に署名した吉田茂元首相の高弟、池田勇人元首相が1957年に創設した。特に大平正芳会長(元首相)以降、保守本流を自任した。現会長の岸田文雄外相は安保法を推進した。
一方、反対論の古賀誠名誉会長は、大平の命日であることし6月12日に同派の若手衆院議員らと多磨霊園を訪れた。墓前で議員らに「保守本流の正念場」と危機感を語ったという。
30年前にも似た議論があった。85年1月5日付朝日新聞に次のような記事がある。筆者は後の編集局長、小栗敬太郎記者である。
「戦後長く続いた歴代保守政治は、『商人国家』論に象徴される通り、世界の政治面へのコミットを極力避けることにつとめてきた。米国からの防衛負担要求に対しても、(中略)一種の『交際費』とみなし、できるだけ軽くすませるのが、吉田茂以来の保守本流の『経済路線』だった」
保守本流のリベラルな解釈である。これによれば安倍晋三首相の積極的平和主義は保守本流を外れる。
ただし記事の主語は「歴代保守政治」だった。吉田路線は当時すでに宏池会の独占ではなかった。五百旗頭真前防衛大校長が指摘する「『吉田なき吉田路線』の定着」である。
五百旗頭氏は編著「戦後日本外交史」で、吉田路線を(1)日米基軸外交(2)自由民主主義(3)軍事より貿易・産業立国を求める経済優先主義――と定義した。吉田以降の首相にとり、鳩山一郎、由紀夫両元首相の対米外交を例外とすれば、程度の差こそあれ、三項目は所与だった。
保守本流は30年前には拡散していた。このためか、宏池会幹部だった田中六助は、85年1月25日初版の遺著「保守本流の直言」で保守本流の再定義を試みた。田中は31日に逝く。
池田、大平と近かった田中は、中曽根政権では自民党幹事長を務めた。古賀氏の政治の師でもある。特攻隊の生き残りで平和への思いは深かった。50年代の冷戦を日経ロンドン特派員として体験した。
田中は保守本流を「統治責任」の自覚と能力のある政治家や集団と再定義し、岸信介、中曽根康弘両元首相を加えた。「保守本流=リベラル」の修正と映る。実は岸と吉田には重要な共通点がある。
新旧安保条約を前に、岸も吉田も、人気より統治責任を選んだ。岸の新安保条約署名を伝える60年1月20日付日経1面に吉田は寄稿し「『守ってもらう』関係から『ともに守る』関係に前進するのは当然」と書いた。保守本流の祖は集団的自衛権を是としていた。
田中の10年後、新定義が提案される。95年刊行「戦後日本の宰相たち」(渡辺昭夫編)所収の北岡伸一前国際大学長による岸信介論は、保守本流を「日米協調路線の維持継続をはかる勢力」と外交方針に絞って定義した。
北岡氏は「吉田茂によって敷かれた日米協調路線が保守本流の本質」とし、官僚出身、吉田との関係は二次的とし、経済重視型の対米協調か、安保重視型の対米協調かも二次的とした。それは米政権の性格や国際環境によると考えた。
田中、北岡定義を踏まえ、歴代政権の保守本流の濃淡を統治責任能力と日米関係上の実績で判断すれば、本格的保守本流政権とは表のようになるだろうか。ここでは安倍政権は紛れもなく保守本流である。
(特別編集委員 伊奈久喜)