くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

城006 兵庫県の織田家(3) 丹波柏原藩・変わりゆく時代

2014年08月23日 09時30分09秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県・丹波柏原藩(たんばかいばらはん)の信雄系織田家の続きです。柏原陣屋周辺の歴史関連のスポットをいくつか取り上げる事にします。

 柏原八幡神社の駐車場から、西に少し離れた所に、大手門の太鼓櫓(たいこやぐら)が残っています。

【太鼓櫓(たいこやぐら)】
 柏原藩の時代には大手門の付近にあったもので、内部は三層になっており、最上層の桜上には「つつじ太鼓」という大太鼓があり、時報(時の鐘)や警報に用いたとされています。
 創建年代は不明ですが、陣屋創建に近い時代と考えられています。
 明治以降に、現在の場所に移されたと考えられています(これも年代不明)。


 結局、信雄系・織田家の柏原藩は10代続いて、幕末を迎える事になります。

【織田家廟所(びょうしょ)】 町の北東側にあります。
 信雄系・織田家の菩提寺・徳源寺のあった場所で、初代藩主・信休から9代目藩主までの墓があります。明治時代になると、廃寺となって、廟所(墓)のみ残ります。
 門をくぐり、階段を登ると、墓が並んでいます。下の写真の右側が初代~3代、正面奥が4・5代、左が6~8代藩主の墓です。9代目藩主の墓は写真の右外です。

 下の写真の真中の墓が信雄系・織田家の初代藩主・織田信休(おだ のぶやす)の墓です。
 なお、織田信休は、大和・宇陀松山藩においては、第5代藩主(最後の藩主)でもあります。


 丹波柏原藩の2つの織田家の歴史を見ると、質素倹約に努め、善政を行った賢君のおかげで領民が平和だった時代もあれば、贅沢な生活で財政を圧迫した暗君により、領民が苦しんだ時代もありました。これは、柏原藩だけの問題ではなく、江戸時代の他の藩でも、多かれ少なかれ、同じような事が発生しています。
 根本的に、幕藩体制(ばくはんたいせい)は、武家諸法度(ぶけしょはっと)などの幕府の掟(おきて)に従っている限りは、藩内部は治外法権(ちがいほうけん)のようなものです。藩主一人の善し悪しで、その時代が決まってしまうような不安定で、危険な要素を含んでいます。
 この事を考えれば、国民が国を治める政治家を選挙で選び、定期的にチェックする民主主義のシステムは、指導者の暴走を防ぐ為に必要不可欠なシステムなのかもしれません。同時に国民は、政治が正しいかどうかを判断する為の知識・知恵・能力、そして選挙の義務を負うのですが。

 町中で見かけた安藤広太郎(あんどうひろたろう)という人物の銅像です。
 「明治4年に柏原町で生まれた農学者で、寒さに強い稲を作りだし、冷害に苦しむ東北地方などの米の増産などの農業技術の改良と稲の研究に尽くした」と説明板に書いてありました。

 明治時代になると、近代教育が始まり、多くの人材が輩出されるようになりました。これらの人達は、明治と言う時代を担う為に、強い使命感を持って、社会に貢献しようとしてきました。また、一般の人達も、江戸から明治に激変した時代の荒波を乗り越える為に、生きていく為に必死になっていました。
 「くまドン」は、明治という時代は、一部の指導者だけが造りだしたのではなく、名も無き人達を含めた多くの人達の努力により、造りだされた時代と思います。
 (ただし、「くまドン」は健全財政が基本ですので、いたずらに盛り上げて騒いだあげく、財政や経営が悪化する原因になる資料館(ハコ物)などを造ろうとするのはお断りです。)
 ただ、明治時代の人達は、欧米という進むべき手本(てほん)があり、それを模倣(もほう)することにより、近代・明治という時代を造り上げてきました。現代の日本は成熟した先進国であり、他の国の真似(マネ)をするのではなく、自ら考え、造り出していかなければならない時代といえるでしょう。
 言い方を変えると、明治の日本は、欧米という教科書を見ながら勉強していた学校の生徒のようなものです。
 そして、現代の日本は、教科書もなく、今まで蓄積してきた知識や経験を元に、自らも考え、秩序だった思考により新しい方法を考え続けていかなければならない時代なのです。
 (「くまドン」は、高度成長期の成功やバブル時代の一時の好景気を忘れられない人達が、過去の政策をコピーしたかのような拡大政策自体が時代遅れであり、現在の日本にとって迷惑以外の何物でもないと思っています。)

 時間がなかったので、見学する時間はなかったのですが、柏原には、歴史の古い八幡神社があります。

【柏原八幡神社(かいばらはちまんじんじゃ)】
 創建は平安時代中期と古い。
 複合社殿(本殿と拝殿)は、安土桃山時代に再建された国の重要文化財指定です。織田信長の明智光秀の丹波攻めで、光秀の陣地となり、天正7年に黒井城の赤井直正との戦火より中世からの古い建物は焼失しましたが、天正10年に羽柴秀吉が黒井城主である堀尾吉晴に社殿の造営を命じて再建されたものだそうです。
 その為か、同じ丹波地方でも、ここ柏原の地では、あまり明智光秀は人気がありません。(もっとも、明地光秀の謀反で織田信長は自害したのですから、織田家の領地だった所で光秀の人気が無いのは当たり前かもしれません。)
 江戸時代の文化年間に三重塔も再建されています。
 神社にあった石碑の写真を追加しておきます。


 丹波市立柏原歴史民俗資料館は駐車場が少なく、柏原陣屋にもありませんので、丹波市柏原支所のすぐ北にある八幡神社付近には駐車エリアがあります。柏原の観光は、この駐車場の利用が楽です。

 最後は、木の根橋(きのねばし)です。ケヤキの大木の根が川をまたいで伸びています。

 このケヤキは幹径6m、樹高22mもあり、推定樹齢は1000年の大木だそうです。
 思えば、このケヤキは、この場所で丹波柏原の歴史を、ずっと見てきたのですね・・・・・・・・

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
 「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」
 「城006 兵庫県の織田家(2) 丹波柏原藩・信雄系の織田家」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 今年の3月から作り始めた奈良県の織田家の話の流れがやっと終わりました・・・・・(汗)
 次回の放城記は別の話となり、話の展開で、奈良県の大和郡山城の前に、兵庫県の城をいくつか入れさせていただきます。
 その前に名所江戸百景関連で、亀戸天神の例大祭があるので、取り上げます。今年は、四年に一度の本祭り。

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城006 兵庫県の織田家(2) 丹波柏原藩・信雄系の織田家

2014年08月21日 07時55分32秒 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県丹波市の柏原藩(たんばかいばらはん)の続きです。前回話しましたように、信包系・織田家が途絶えてからは、幕府領となっていましたが、5代将軍・綱吉(つなよし)の時代に、大和(現在の奈良県)の宇陀松山藩(うだまつやまはん)の宇陀崩れ(うだくずれ)と呼ばれるお家騒動により、改易寸前となります。しかし、織田信休(おだのぶやす)が織田家の子孫ということで、丹波柏原藩に減移封(2万9000石→2万石)となります。ここにおいて、丹波柏原藩が信雄系・織田家として、再立藩される事になります。
 前々回の放城記「奈良県の織田家」の続きにもなります。
 柏原藩は2万石で、城ではなく、陣屋(じんや)となります。それでも、江戸時代の陣屋が、そのまま残っている所は少なく、貴重なものです。

 藩財政の窮乏と不作の為、柏原陣屋(織田家の居館)は、20年後の正徳4年(7代将軍・家継(いえつぐ)の時代)に完成します。

【柏原陣屋】
 下の写真は、柏原陣屋(左手前は長屋門、右奥が御殿)で、丹波市立柏原歴史民俗資料館の正面にあります。

 長屋門は表門で、正徳4年(西暦1714年)の居館創建の頃から残る唯一の建物です。内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫となります。

 御殿は、11代将軍・家斉(いえなり)の文政年間に焼失した2年後(’西暦1818年)に再建された建物ですが、
 明治以降に解体されて、建物の1/5面積分が現存しています。

 陣屋の所にあった説明板の一部ですが、現存しているのは、建物の右側の一部です。

 建物正面の玄関にある唐破風も見事です。

 下の写真は玄関を入った所です。

 上段の間です。

 右の部屋が、書紀の間です。


 陣屋から、大手通りを歩いて行くと、

 右手に健勲神社があります。

【健勲神社】
 信雄系・織田家の初代藩主・信休が柏原藩を再興した元禄8年(5代将軍・綱吉の時代)に、藩邸内に祠(ほこら)を建て、信長を祀ったのが始まりです。

 明治になってから、「健勲神社」に改名となり、明治13年に現在の場所に移転して、一般の人にも参拝可能になったとこのことです。
 昭和9年に火災で焼失後、そのままとなり、平成18年に再建されました。
 最初に、この神社を見た時、余りに新しいので、???となっていました。

 長くなりましたので、この続きは、次回とさせていただきます。

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
 「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、兵庫県の織田家の続きです。
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城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系

2014年08月19日 07時55分46秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、兵庫県にある織田(おだ)家の丹波柏原藩(たんばかいばらはん)です。柏原藩は、現在の兵庫県丹波市柏原にあり、ただし、柏原藩は3万6000石(後に2万石)で、城ではなく、陣屋(じんや)となります。
 柏原藩の初代藩主は、織田信包(おだ のぶかね、信長の弟)です。
 下の写真は、丹波市立柏原歴史民俗資料館(織田家と柏原地区の歴史資料)の前にあった織田信包の石像です。できたばかりで、新しいです。

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡くなる2カ月前の慶長3年(西暦1598年)6月に伊勢国(現在の三重県)・安濃津から、柏原3万6000石に移封されてます。
 豊臣秀頼(ひでより、母は茶々=淀君)の祖母・お市が、信包の妹になりますので、秀頼を守る為の移封でしょうか?

 織田信包は、慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に味方する事になりますが、東軍勝利にも関わらず、改易されずに済み、大坂城で豊臣秀頼に仕えています。
 この時点では、徳川家康(とくがわいえやす)も、秀頼には手を出せず、2代将軍・秀忠(ひでただ)の妻が江(ごう、お市の娘)だったのも幸いしたのかもしれません。
 続く、大坂冬の陣(慶長19年)の直前に死去してしまった事により、三男の織田信則(のぶのり)が、江戸幕府に判断により、2代藩主となります。続く3代藩主・織田信勝(のぶかつ)死去し、嫡子なく廃絶(はいぜつ)となりました。

【成徳寺(じょうとくじ)】 臨済宗(りんざいしゅう)の寺 (柏原駅から南に離れていますので、車で移動です)
 室町時代に開かれた古い寺院で当初は竜翔寺と言う名でした。

 江戸時代の初期は、見性寺(けんしょうじ)と言う名に改称し、信包系・織田家の菩提寺(ぼだいじ、先祖の位牌を納めてある寺)でした。信包系・織田家が途絶えてからは衰退しました。

 その後、信雄系・織田家が柏原藩に入ると、再興されて、3代・信勝の戒名(かいみょう)に因んで、「成徳寺」に改称しました。
 下の写真は成徳寺から柏原の町を眺めた風景です。法事中だったらしいのですが、観光できたので遠慮していると、お寺の年輩の女性の方が、「どうぞ、ご覧ください」と言っていただいたので、なるべく短い時間で供養塔を見学させていただきました。ありがとうございます。

 境内にある元禄時代に建てられたと推定されている3代藩主・信勝の宝篋印塔(供養塔、丹波市指定文化財)です。

 さらに、信勝350回忌に合わせて初代・信包と、NHK大河ドラマ 「江」の放映に合わせて、2代・信則の供養塔(墓)が、隣に新しくできていました。
 成徳寺の隣に神社らしきものもありましたので、これも一枚撮影しておきました。


【織田神社】 丹波市柏原支所の近くにあります。
 祭神は信包系・織田家の3代・信勝です。

 信包系・織田家の3代・信勝は、新田開発や堤防建設などで善政を行ったそうです。
 信勝の死後(お家断絶後)に、信勝の旧居館跡に祭神として祀られたのが始まりで、
 その後、信雄系・織田家の時代に現在の場所に移され、織田権現(おだごんげん)として信仰を集めたらしいです。

 丹波市立柏原歴史民俗資料館は駐車場が少なく、柏原陣屋にもありませんので、丹波市柏原支所のすぐ北にある八幡神社付近には駐車エリアがあります。柏原の観光は、この駐車場の利用が楽です。

 信包系・織田家が途絶えてからは、幕府領となっていました。また、柏原藩の家臣で、織田信包の子孫だった人には、そのまま元の土地を与えて、旗本(幕府の家臣)として続いた家もあるようです。
 さて、ここからが、前回の放城記「奈良県の織田家」の続きとなりますが、大和(現在の奈良県)の宇陀松山藩(うだまつやまはん)から、信雄系・織田家が移封されてくる事になります。

前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 「城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺」
 「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回は、兵庫県の織田家の続きです。
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名所江戸百景198 第4景 永代橋佃しま 深川祭り・神輿連合渡御

2014年08月16日 12時25分29秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、江戸三大祭りの一つ、江東区(こうとうく)の富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)の例祭、深川祭(ふかがわまつり、深川八幡祭り)です。今日は、神幸祭(しんこうさい)の日ですが、明日の各町神輿連合渡御の風景です。
 今回の写真は前回・平成24年8月に撮影した写真です。(すべて絵画調です)

 神輿は、第16番東陽二、第17番東陽三、第18番東陽四・・・と続きます。
 なお、神輿の順番は前回のもので、今年・平成26年は、第1番東陽二、第2番東陽三、第3番東陽四・・・・と先頭の神輿になります。前回、先頭だった深濱(ふかはま)の神輿は第55番で最後尾です。
 出発点の富ヶ岡八幡宮を先頭の神輿が7:30出発、最後尾の神輿が9:00出発の予定ですから、とんでもない行列です。なお、神輿の到着は先頭の神輿が13:00、最後尾の神輿が15:30です・・・・!!!

 錫杖(しゃくじょう)の音や、太鼓(たいこ)や囃子(はやし)の音が道にあふれます。

 錫杖を持つ人の半被(はっぴ)から判断して、三好一、白河二、平野三などからなる混成隊(多分・・・)

 今年、平成26年(2014年)の日程の情報からです。
【深川八幡祭り(富岡八幡宮例祭)】
  日時: 8月15日(金) 例祭(神社の社殿内で行われる神社の儀式です)
      8月16日(土) 神幸祭(鳳輦渡御)
      8月17日(日) 各町神輿連合渡御(深川祭りの名物といえる神輿(みこし)が五十数基の大行列です)
      8月13日(水)~17日(日)は、空手(からて)、琴、太鼓、能(のう)等の行事あり。(日ごとに変わります)

 今年・平成26年は、深川祭りの五十数基の神輿(みこし)が揃う年です。(通常は3年に一度ですが、前回が東日本大震災の影響で自粛して1年後に行ったので、2年ぶりとなります。)
 詳細は、インターネットなどで、お調べください。

 深川祭りは、江戸三大祭にも数えられ、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様。」というように、現代でも、本祭りの時に、氏子各町会の神輿(みこし)が五十数基も勢ぞろいして、氏子エリアの8kmを練り(ねり)歩きます。
 担ぎ手と観衆が一体となって盛り上がるその姿は、まさに壮観(そうかん)の一言です。

 深川祭りは、水かけ祭りですから、いたるところで、神輿に水かけまくりです。

 バケツだけでなく、消防ホースでの水かけも派手です。こちらは町の消防隊。江戸時代の町火消しのような存在です。


 神輿を担ぐ人たちへの給水ポイントです。次から次へときますので、大忙し! スカイツリーも見えます。

 前回は、午前は曇り一時雨、午後は晴れと、めまぐるしい天気でしたからね・・・・

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第4景 永代橋佃しま」(春景)です。


 昨年と前回作成した名所江戸百景関連のブログは、以下の通りです。クリックすれば、そのブログに飛びます。
 「名所江戸百景064 第69景 深川三十三間堂 深川祭(1)」
 「名所江戸百景065 第69景 深川三十三間堂 深川祭(2)」
 「名所江戸百景067 第57景 みつまたわかれの淵 深川祭(3)」
 「名所江戸百景068 第4景 永代橋佃しま 永代橋と深川祭(4)」
 「名所江戸百景196 第69景 深川三十三間堂 深川祭り・神幸祭」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 次回は、訪城記の続きになると?と思います。名所江戸百景の全く残分が進みません・・・(汗)

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名所江戸百景197 第70景 中川口 旧中川の灯篭流し

2014年08月15日 12時25分17秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今日・8月15日は、旧中川(きゅうなかがわ)の灯篭流し(とうろうながし)の日です。
 昨年・平成25年に撮影した旧中川の灯篭流しの写真からです。
(絵画調)


【旧中川の灯篭流し】 (毎年、8月15日の終戦記念日に行われています。)
 日時: 平成26年8月15日(金)
      式典:18:30  献灯:19:00
 場所: 旧中川の「ふれあい橋」付近 (JR総武線の南側にある橋です。JR平井駅(ひらいえき)が最寄りです。)
 内容: 東京大空襲(昭和20年)で、小松川平井地区の被災者(ひさいしゃ)は約40,000人、
      旧中川での死者は約2,800人と伝えられています。
      東京大空襲の犠牲者の慰霊(いれい)の為、恒久平和を願い、旧中川で灯篭流しが行われています。

 流れは、ほとんど無く、灯篭が舟の形をしている為、風に流されて、灯篭が進みます。

(絵画調)

 恒久平和と鎮魂(ちんこん)の祈りを込めて、合掌(がっしょう、素直で偽りのない祈りの心を表現、日本では亡くなった人への哀悼の意味もあります)です。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第70景 中川口」(夏景)です。


 その他の情報として、平成26年の隅田川の灯篭流しは、翌日の8月16日(土)です。一応、情報です。
【浅草夏の夜まつり とうろう流し】
 日時: 平成26年8月16日(土) 式典は18:30~
 場所: 隅田公園親水テラス
 なお、昨年作成したブログは、以下の通りです。クリックすると、そのブログに飛びます。
 「名所江戸百景066 第36景 真崎辺より水神の森 浅草の灯篭流し」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 次回は、深川祭りの勇壮な神輿連合の風景からです。

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