こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県・丹波柏原藩(たんばかいばらはん)の信雄系織田家の続きです。柏原陣屋周辺の歴史関連のスポットをいくつか取り上げる事にします。
柏原八幡神社の駐車場から、西に少し離れた所に、大手門の太鼓櫓(たいこやぐら)が残っています。
【太鼓櫓(たいこやぐら)】
柏原藩の時代には大手門の付近にあったもので、内部は三層になっており、最上層の桜上には「つつじ太鼓」という大太鼓があり、時報(時の鐘)や警報に用いたとされています。
創建年代は不明ですが、陣屋創建に近い時代と考えられています。
明治以降に、現在の場所に移されたと考えられています(これも年代不明)。
結局、信雄系・織田家の柏原藩は10代続いて、幕末を迎える事になります。
【織田家廟所(びょうしょ)】 町の北東側にあります。
信雄系・織田家の菩提寺・徳源寺のあった場所で、初代藩主・信休から9代目藩主までの墓があります。明治時代になると、廃寺となって、廟所(墓)のみ残ります。
門をくぐり、階段を登ると、墓が並んでいます。下の写真の右側が初代~3代、正面奥が4・5代、左が6~8代藩主の墓です。9代目藩主の墓は写真の右外です。
下の写真の真中の墓が信雄系・織田家の初代藩主・織田信休(おだ のぶやす)の墓です。
なお、織田信休は、大和・宇陀松山藩においては、第5代藩主(最後の藩主)でもあります。
丹波柏原藩の2つの織田家の歴史を見ると、質素倹約に努め、善政を行った賢君のおかげで領民が平和だった時代もあれば、贅沢な生活で財政を圧迫した暗君により、領民が苦しんだ時代もありました。これは、柏原藩だけの問題ではなく、江戸時代の他の藩でも、多かれ少なかれ、同じような事が発生しています。
根本的に、幕藩体制(ばくはんたいせい)は、武家諸法度(ぶけしょはっと)などの幕府の掟(おきて)に従っている限りは、藩内部は治外法権(ちがいほうけん)のようなものです。藩主一人の善し悪しで、その時代が決まってしまうような不安定で、危険な要素を含んでいます。
この事を考えれば、国民が国を治める政治家を選挙で選び、定期的にチェックする民主主義のシステムは、指導者の暴走を防ぐ為に必要不可欠なシステムなのかもしれません。同時に国民は、政治が正しいかどうかを判断する為の知識・知恵・能力、そして選挙の義務を負うのですが。
町中で見かけた安藤広太郎(あんどうひろたろう)という人物の銅像です。
「明治4年に柏原町で生まれた農学者で、寒さに強い稲を作りだし、冷害に苦しむ東北地方などの米の増産などの農業技術の改良と稲の研究に尽くした」と説明板に書いてありました。
明治時代になると、近代教育が始まり、多くの人材が輩出されるようになりました。これらの人達は、明治と言う時代を担う為に、強い使命感を持って、社会に貢献しようとしてきました。また、一般の人達も、江戸から明治に激変した時代の荒波を乗り越える為に、生きていく為に必死になっていました。
「くまドン」は、明治という時代は、一部の指導者だけが造りだしたのではなく、名も無き人達を含めた多くの人達の努力により、造りだされた時代と思います。
(ただし、「くまドン」は健全財政が基本ですので、いたずらに盛り上げて騒いだあげく、財政や経営が悪化する原因になる資料館(ハコ物)などを造ろうとするのはお断りです。)
ただ、明治時代の人達は、欧米という進むべき手本(てほん)があり、それを模倣(もほう)することにより、近代・明治という時代を造り上げてきました。現代の日本は成熟した先進国であり、他の国の真似(マネ)をするのではなく、自ら考え、造り出していかなければならない時代といえるでしょう。
言い方を変えると、明治の日本は、欧米という教科書を見ながら勉強していた学校の生徒のようなものです。
そして、現代の日本は、教科書もなく、今まで蓄積してきた知識や経験を元に、自らも考え、秩序だった思考により新しい方法を考え続けていかなければならない時代なのです。
(「くまドン」は、高度成長期の成功やバブル時代の一時の好景気を忘れられない人達が、過去の政策をコピーしたかのような拡大政策自体が時代遅れであり、現在の日本にとって迷惑以外の何物でもないと思っています。)
時間がなかったので、見学する時間はなかったのですが、柏原には、歴史の古い八幡神社があります。
【柏原八幡神社(かいばらはちまんじんじゃ)】
創建は平安時代中期と古い。
複合社殿(本殿と拝殿)は、安土桃山時代に再建された国の重要文化財指定です。織田信長の明智光秀の丹波攻めで、光秀の陣地となり、天正7年に黒井城の赤井直正との戦火より中世からの古い建物は焼失しましたが、天正10年に羽柴秀吉が黒井城主である堀尾吉晴に社殿の造営を命じて再建されたものだそうです。
その為か、同じ丹波地方でも、ここ柏原の地では、あまり明智光秀は人気がありません。(もっとも、明地光秀の謀反で織田信長は自害したのですから、織田家の領地だった所で光秀の人気が無いのは当たり前かもしれません。)
江戸時代の文化年間に三重塔も再建されています。
神社にあった石碑の写真を追加しておきます。
丹波市立柏原歴史民俗資料館は駐車場が少なく、柏原陣屋にもありませんので、丹波市柏原支所のすぐ北にある八幡神社付近には駐車エリアがあります。柏原の観光は、この駐車場の利用が楽です。
最後は、木の根橋(きのねばし)です。ケヤキの大木の根が川をまたいで伸びています。
このケヤキは幹径6m、樹高22mもあり、推定樹齢は1000年の大木だそうです。
思えば、このケヤキは、この場所で丹波柏原の歴史を、ずっと見てきたのですね・・・・・・・・
前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」
「城006 兵庫県の織田家(2) 丹波柏原藩・信雄系の織田家」
今回は、これで終了とさせていただきます。
くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
今年の3月から作り始めた奈良県の織田家の話の流れがやっと終わりました・・・・・(汗)
次回の放城記は別の話となり、話の展開で、奈良県の大和郡山城の前に、兵庫県の城をいくつか入れさせていただきます。
その前に名所江戸百景関連で、亀戸天神の例大祭があるので、取り上げます。今年は、四年に一度の本祭り。
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今回は、兵庫県にある織田(おだ)家の兵庫県・丹波柏原藩(たんばかいばらはん)の信雄系織田家の続きです。柏原陣屋周辺の歴史関連のスポットをいくつか取り上げる事にします。
柏原八幡神社の駐車場から、西に少し離れた所に、大手門の太鼓櫓(たいこやぐら)が残っています。
【太鼓櫓(たいこやぐら)】
柏原藩の時代には大手門の付近にあったもので、内部は三層になっており、最上層の桜上には「つつじ太鼓」という大太鼓があり、時報(時の鐘)や警報に用いたとされています。
創建年代は不明ですが、陣屋創建に近い時代と考えられています。
明治以降に、現在の場所に移されたと考えられています(これも年代不明)。
結局、信雄系・織田家の柏原藩は10代続いて、幕末を迎える事になります。
【織田家廟所(びょうしょ)】 町の北東側にあります。
信雄系・織田家の菩提寺・徳源寺のあった場所で、初代藩主・信休から9代目藩主までの墓があります。明治時代になると、廃寺となって、廟所(墓)のみ残ります。
門をくぐり、階段を登ると、墓が並んでいます。下の写真の右側が初代~3代、正面奥が4・5代、左が6~8代藩主の墓です。9代目藩主の墓は写真の右外です。
下の写真の真中の墓が信雄系・織田家の初代藩主・織田信休(おだ のぶやす)の墓です。
なお、織田信休は、大和・宇陀松山藩においては、第5代藩主(最後の藩主)でもあります。
丹波柏原藩の2つの織田家の歴史を見ると、質素倹約に努め、善政を行った賢君のおかげで領民が平和だった時代もあれば、贅沢な生活で財政を圧迫した暗君により、領民が苦しんだ時代もありました。これは、柏原藩だけの問題ではなく、江戸時代の他の藩でも、多かれ少なかれ、同じような事が発生しています。
根本的に、幕藩体制(ばくはんたいせい)は、武家諸法度(ぶけしょはっと)などの幕府の掟(おきて)に従っている限りは、藩内部は治外法権(ちがいほうけん)のようなものです。藩主一人の善し悪しで、その時代が決まってしまうような不安定で、危険な要素を含んでいます。
この事を考えれば、国民が国を治める政治家を選挙で選び、定期的にチェックする民主主義のシステムは、指導者の暴走を防ぐ為に必要不可欠なシステムなのかもしれません。同時に国民は、政治が正しいかどうかを判断する為の知識・知恵・能力、そして選挙の義務を負うのですが。
町中で見かけた安藤広太郎(あんどうひろたろう)という人物の銅像です。
「明治4年に柏原町で生まれた農学者で、寒さに強い稲を作りだし、冷害に苦しむ東北地方などの米の増産などの農業技術の改良と稲の研究に尽くした」と説明板に書いてありました。
明治時代になると、近代教育が始まり、多くの人材が輩出されるようになりました。これらの人達は、明治と言う時代を担う為に、強い使命感を持って、社会に貢献しようとしてきました。また、一般の人達も、江戸から明治に激変した時代の荒波を乗り越える為に、生きていく為に必死になっていました。
「くまドン」は、明治という時代は、一部の指導者だけが造りだしたのではなく、名も無き人達を含めた多くの人達の努力により、造りだされた時代と思います。
(ただし、「くまドン」は健全財政が基本ですので、いたずらに盛り上げて騒いだあげく、財政や経営が悪化する原因になる資料館(ハコ物)などを造ろうとするのはお断りです。)
ただ、明治時代の人達は、欧米という進むべき手本(てほん)があり、それを模倣(もほう)することにより、近代・明治という時代を造り上げてきました。現代の日本は成熟した先進国であり、他の国の真似(マネ)をするのではなく、自ら考え、造り出していかなければならない時代といえるでしょう。
言い方を変えると、明治の日本は、欧米という教科書を見ながら勉強していた学校の生徒のようなものです。
そして、現代の日本は、教科書もなく、今まで蓄積してきた知識や経験を元に、自らも考え、秩序だった思考により新しい方法を考え続けていかなければならない時代なのです。
(「くまドン」は、高度成長期の成功やバブル時代の一時の好景気を忘れられない人達が、過去の政策をコピーしたかのような拡大政策自体が時代遅れであり、現在の日本にとって迷惑以外の何物でもないと思っています。)
時間がなかったので、見学する時間はなかったのですが、柏原には、歴史の古い八幡神社があります。
【柏原八幡神社(かいばらはちまんじんじゃ)】
創建は平安時代中期と古い。
複合社殿(本殿と拝殿)は、安土桃山時代に再建された国の重要文化財指定です。織田信長の明智光秀の丹波攻めで、光秀の陣地となり、天正7年に黒井城の赤井直正との戦火より中世からの古い建物は焼失しましたが、天正10年に羽柴秀吉が黒井城主である堀尾吉晴に社殿の造営を命じて再建されたものだそうです。
その為か、同じ丹波地方でも、ここ柏原の地では、あまり明智光秀は人気がありません。(もっとも、明地光秀の謀反で織田信長は自害したのですから、織田家の領地だった所で光秀の人気が無いのは当たり前かもしれません。)
江戸時代の文化年間に三重塔も再建されています。
神社にあった石碑の写真を追加しておきます。
丹波市立柏原歴史民俗資料館は駐車場が少なく、柏原陣屋にもありませんので、丹波市柏原支所のすぐ北にある八幡神社付近には駐車エリアがあります。柏原の観光は、この駐車場の利用が楽です。
最後は、木の根橋(きのねばし)です。ケヤキの大木の根が川をまたいで伸びています。
このケヤキは幹径6m、樹高22mもあり、推定樹齢は1000年の大木だそうです。
思えば、このケヤキは、この場所で丹波柏原の歴史を、ずっと見てきたのですね・・・・・・・・
前回までのブログは、以下の通りです。なお、ブログ右欄の「カテゴリーアーカイブ」にある「訪城記」をクリックすると、過去のお城周りのブログ一覧が表示されます。
「城005 奈良県の織田家 織田信雄の宇陀松山城(山城、陣屋)」
「城006 兵庫県の織田家(1) 丹波柏原藩・織田信包の家系」
「城006 兵庫県の織田家(2) 丹波柏原藩・信雄系の織田家」
今回は、これで終了とさせていただきます。
くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
今年の3月から作り始めた奈良県の織田家の話の流れがやっと終わりました・・・・・(汗)
次回の放城記は別の話となり、話の展開で、奈良県の大和郡山城の前に、兵庫県の城をいくつか入れさせていただきます。
その前に名所江戸百景関連で、亀戸天神の例大祭があるので、取り上げます。今年は、四年に一度の本祭り。
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