こんにちわ、「くまドン」です。
今回は、浅草寺(せんそうじ)の夜景です。
一応、GW期間中の浅草寺のイベントをお知らせします。
「大絵馬寺宝展 庭園拝観」
伝法院(でんぼういん、浅草寺の本坊)にある小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園です。
普段は一般には公開されていません。
東日本大震災義援金を集める為に、2013年も期間限定で公開しています。
時期:2013年3月21日(木)~5月7日(火)、入場時間:10時~16時、入場料300円
2011年に国の名勝に指定されました。
「名所江戸百景013 第90景 猿わか町よるの景」の続きにもなりますが、藤やツツジの開花が早く、そのままになっていました。
下の絵は、名所江戸百景「第99景 浅草金龍山」です。
絵の手前は「雷門(かみなりもん)」です。大きい提灯(ちょうちん)は、「志ん橋」(しんばし)と書かれていました。
奥に見えるのが浅草寺の宝蔵門(左、ほうぞうもん)と五重塔(右)です。
雪が深々と降り積もる中、仲見世(なかみせ)を通る参拝客の往来が描かれています。
現在の写真撮影なら、考えられますが、江戸時代において、名所江戸百景が売り絵だった事を考えると、手前の門と提灯のカットは、とても大胆なカットです。
(ある意味、浅草寺に行った人しか分からない、または、浅草寺に行って、初めてこの絵が分かるという感じです。)
広重の絵から、江戸時代の幕末の浅草寺と現在の浅草寺との違いを上げます。
まず、「心ん橋」と書かれている提灯は、現在は本堂に置かれています。
次に、浅草寺の五重塔は絵では宝蔵門の右にありますが、現在は宝蔵門(仁王門)のすぐ左にあります。
【宝蔵門】
門の両側に金剛力士(仁王像)が置かれていることから、以前は「仁王門」と呼ばれていました。
現在の宝蔵門は、昭和39年に、戦前の「鉄鋼王」と呼ばれた大谷 米太郎(おおたに よねたろう)という人が寄進して造られました。
「小船町」と書かれた大提灯は、江戸時代に現在の中央区の日本橋小舟町の魚河岸(うおがし)商人の信徒らが提灯を奉納したのがきっかけで始まり、同町で代々受け継がれています。
現在の提灯は、日本橋小舟町の有志が町内の個人や商店、企業約190件の寄付を集めて造ったそうです。
最後に、手前の雷門にかかっている提灯は、「雷門」と書かれています。
広重の絵と同じ様に写真を撮ると下の写真を切り取ったのようになりますが、
夜は仲見世は見えますが、宝蔵門は暗くて、よく見えません。
現在は、浅草と言えば、「雷門」は代名詞ですので、名所江戸百景の現代版「くまドン版」でも、この雷門付近の写真を「浅草金龍山」に対応する景に加えたいと思っています。
【雷門】
右側に風神、左側に雷神が配されており、正式名称は、風雷神門(ふうらいじんもん)。
浅草寺が飛鳥時代創建と言われる東京最古の寺である為、山門の歴史も古く、最初の山門は、平安時代頃に造られたとされています。
何回か、火災で焼失・再建されていますが、広重が名所江戸百景を描いた時は絵にあるように、雷門に「志ん橋」文字が書かれた大提灯が吊られていました。
その後、江戸時代の14代徳川家茂(いえもち)の時に、門が火災で焼失した後、100年間程、この山門はありませんでした。
現在の雷門と「雷門」と書かれた大提灯は、昭和35年に松下電器産業(現在のパナソニック)の創設者、松下幸之助が病気回復祈願のお礼として寄進したものです。
「雷門」と書かれた提灯の下を見ると、「松下電器」と書いてあります。
提灯は痛みも激しく、浅草寺の大提灯は、10年以上経つと新調されているようです。(提灯全体か?部分的か?は不明ですが・・・)
五重塔が宝蔵門のすぐ横にあるので、宝蔵門の裏側から五重塔を入れて撮影しました。
浅草の商店街にも、街灯がつき始めました。この商店街は夜間しまっている店が多いのですが、シャッターに書かれている絵も写真になります。
夕暮れの中、五重塔がライトアップされました。月を入れて撮影。
手前の「奥山風景」の文字が見えます。
【浅草の奥山】
江戸時代において、浅草寺西北部は「奥山」と呼ばれ、盛り場となっていて、大道芸人や見世物小屋で賑わっていました。「奥山」の言葉は、お寺(山)の奥の方にあるという意味ではないかと考えられています。
明治以降は、浅草寺西側に賑わいの中心は移り、興業(大衆娯楽)や映画の町として栄えました。現在は、「新奥山」として整備されています。
本堂のライトアップされています。「志ん橋」の文字が名所江戸百景と同程度見えています。
【志ん橋の大提灯】
この「志ん橋」と書かれた大提灯は、江戸時代は、現在の港区にある新橋(しんばし)の信徒から奉納されて、雷門に吊られていました。
現在の本堂にある大提灯も新橋地区の方々からの奉納(ほうのう)提灯です。
平成になってから、名所江戸百景と同じデザインの文字を入れた大提灯に新調されたそうです。
こちらは、本堂の東側にある二天門(にてんもん、重要文化財)です。
【二天門】
江戸時代、2代徳川秀忠(ひでただ)の頃に建築された門で、浅草寺において、焼失を免れた貴重な建築物です。
門の左右にある二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺(かんえいじ)墓地にある厳有院(4代家綱)霊廟から移されたものです。
この門が造られた時は、浅草寺境内においても東照宮(とうしょうぐう)が置かれていて、その入口に置かれた随身門だったそうです。随身(ずいじん、ずいしん)とは、日本の神道では、神を守る者として安置される随身姿の像を指します。
何故か、3代家光の寛永年間に焼失して再建されていません???
徳川幕府の時代に、東照宮(初代家康を祭る)の放置する事が認められていたとは・・・・・・・
月が西の空に高く登っていたので、本堂の屋根を入れて撮影してみました。
さらに、大提灯を大きく入れて撮影
本堂と五重塔、宝蔵門を全て入れてみました。この時間帯は撮影が楽しいです。
昨年2012年4月頃は、月と金星と木星が一列に並んでいるのが見れるのが話題になっていましたが、この日はその数日後で、月は左にずれていました。真ん中上の明るい星が、金星です。その真下にある小さな星が木星です。(金星と、下の木の先端との間の、ちょうど中間のあたりです。)
この時まで、木星が肉眼で見れるとは思っていませんでした。(明るい金星と違い、他の星の中に混ざってどれだか分からなかっただけなのですが・・・・・)
最後に帰り際に、宝蔵門の小舟町の大提灯を入れて、本堂を下に入れてみました。
名所江戸百景で浅草寺を取り上げているのは、2景のみですが、浅草はイベントが多いので、逆に選択に苦労します。
今回はこれで終了です。ありがとうございました。
休みの間に作成した分は、これが最後になり、以後はペースダウンですが、GW中になるべく多く更新できるようにします。
次回は、また、別の場所になります。
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今回は、浅草寺(せんそうじ)の夜景です。
一応、GW期間中の浅草寺のイベントをお知らせします。
「大絵馬寺宝展 庭園拝観」
伝法院(でんぼういん、浅草寺の本坊)にある小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園です。
普段は一般には公開されていません。
東日本大震災義援金を集める為に、2013年も期間限定で公開しています。
時期:2013年3月21日(木)~5月7日(火)、入場時間:10時~16時、入場料300円
2011年に国の名勝に指定されました。
「名所江戸百景013 第90景 猿わか町よるの景」の続きにもなりますが、藤やツツジの開花が早く、そのままになっていました。
下の絵は、名所江戸百景「第99景 浅草金龍山」です。
絵の手前は「雷門(かみなりもん)」です。大きい提灯(ちょうちん)は、「志ん橋」(しんばし)と書かれていました。
奥に見えるのが浅草寺の宝蔵門(左、ほうぞうもん)と五重塔(右)です。
雪が深々と降り積もる中、仲見世(なかみせ)を通る参拝客の往来が描かれています。
現在の写真撮影なら、考えられますが、江戸時代において、名所江戸百景が売り絵だった事を考えると、手前の門と提灯のカットは、とても大胆なカットです。
(ある意味、浅草寺に行った人しか分からない、または、浅草寺に行って、初めてこの絵が分かるという感じです。)
広重の絵から、江戸時代の幕末の浅草寺と現在の浅草寺との違いを上げます。
まず、「心ん橋」と書かれている提灯は、現在は本堂に置かれています。
次に、浅草寺の五重塔は絵では宝蔵門の右にありますが、現在は宝蔵門(仁王門)のすぐ左にあります。
【宝蔵門】
門の両側に金剛力士(仁王像)が置かれていることから、以前は「仁王門」と呼ばれていました。
現在の宝蔵門は、昭和39年に、戦前の「鉄鋼王」と呼ばれた大谷 米太郎(おおたに よねたろう)という人が寄進して造られました。
「小船町」と書かれた大提灯は、江戸時代に現在の中央区の日本橋小舟町の魚河岸(うおがし)商人の信徒らが提灯を奉納したのがきっかけで始まり、同町で代々受け継がれています。
現在の提灯は、日本橋小舟町の有志が町内の個人や商店、企業約190件の寄付を集めて造ったそうです。
最後に、手前の雷門にかかっている提灯は、「雷門」と書かれています。
広重の絵と同じ様に写真を撮ると下の写真を切り取ったのようになりますが、
夜は仲見世は見えますが、宝蔵門は暗くて、よく見えません。
現在は、浅草と言えば、「雷門」は代名詞ですので、名所江戸百景の現代版「くまドン版」でも、この雷門付近の写真を「浅草金龍山」に対応する景に加えたいと思っています。
【雷門】
右側に風神、左側に雷神が配されており、正式名称は、風雷神門(ふうらいじんもん)。
浅草寺が飛鳥時代創建と言われる東京最古の寺である為、山門の歴史も古く、最初の山門は、平安時代頃に造られたとされています。
何回か、火災で焼失・再建されていますが、広重が名所江戸百景を描いた時は絵にあるように、雷門に「志ん橋」文字が書かれた大提灯が吊られていました。
その後、江戸時代の14代徳川家茂(いえもち)の時に、門が火災で焼失した後、100年間程、この山門はありませんでした。
現在の雷門と「雷門」と書かれた大提灯は、昭和35年に松下電器産業(現在のパナソニック)の創設者、松下幸之助が病気回復祈願のお礼として寄進したものです。
「雷門」と書かれた提灯の下を見ると、「松下電器」と書いてあります。
提灯は痛みも激しく、浅草寺の大提灯は、10年以上経つと新調されているようです。(提灯全体か?部分的か?は不明ですが・・・)
五重塔が宝蔵門のすぐ横にあるので、宝蔵門の裏側から五重塔を入れて撮影しました。
浅草の商店街にも、街灯がつき始めました。この商店街は夜間しまっている店が多いのですが、シャッターに書かれている絵も写真になります。
夕暮れの中、五重塔がライトアップされました。月を入れて撮影。
手前の「奥山風景」の文字が見えます。
【浅草の奥山】
江戸時代において、浅草寺西北部は「奥山」と呼ばれ、盛り場となっていて、大道芸人や見世物小屋で賑わっていました。「奥山」の言葉は、お寺(山)の奥の方にあるという意味ではないかと考えられています。
明治以降は、浅草寺西側に賑わいの中心は移り、興業(大衆娯楽)や映画の町として栄えました。現在は、「新奥山」として整備されています。
本堂のライトアップされています。「志ん橋」の文字が名所江戸百景と同程度見えています。
【志ん橋の大提灯】
この「志ん橋」と書かれた大提灯は、江戸時代は、現在の港区にある新橋(しんばし)の信徒から奉納されて、雷門に吊られていました。
現在の本堂にある大提灯も新橋地区の方々からの奉納(ほうのう)提灯です。
平成になってから、名所江戸百景と同じデザインの文字を入れた大提灯に新調されたそうです。
こちらは、本堂の東側にある二天門(にてんもん、重要文化財)です。
【二天門】
江戸時代、2代徳川秀忠(ひでただ)の頃に建築された門で、浅草寺において、焼失を免れた貴重な建築物です。
門の左右にある二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺(かんえいじ)墓地にある厳有院(4代家綱)霊廟から移されたものです。
この門が造られた時は、浅草寺境内においても東照宮(とうしょうぐう)が置かれていて、その入口に置かれた随身門だったそうです。随身(ずいじん、ずいしん)とは、日本の神道では、神を守る者として安置される随身姿の像を指します。
何故か、3代家光の寛永年間に焼失して再建されていません???
徳川幕府の時代に、東照宮(初代家康を祭る)の放置する事が認められていたとは・・・・・・・
月が西の空に高く登っていたので、本堂の屋根を入れて撮影してみました。
さらに、大提灯を大きく入れて撮影
本堂と五重塔、宝蔵門を全て入れてみました。この時間帯は撮影が楽しいです。
昨年2012年4月頃は、月と金星と木星が一列に並んでいるのが見れるのが話題になっていましたが、この日はその数日後で、月は左にずれていました。真ん中上の明るい星が、金星です。その真下にある小さな星が木星です。(金星と、下の木の先端との間の、ちょうど中間のあたりです。)
この時まで、木星が肉眼で見れるとは思っていませんでした。(明るい金星と違い、他の星の中に混ざってどれだか分からなかっただけなのですが・・・・・)
最後に帰り際に、宝蔵門の小舟町の大提灯を入れて、本堂を下に入れてみました。
名所江戸百景で浅草寺を取り上げているのは、2景のみですが、浅草はイベントが多いので、逆に選択に苦労します。
今回はこれで終了です。ありがとうございました。
休みの間に作成した分は、これが最後になり、以後はペースダウンですが、GW中になるべく多く更新できるようにします。
次回は、また、別の場所になります。
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