くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景012 第91景 請地秋葉の境内 大横川の桜

2013年04月03日 09時05分11秒 | 名所江戸百景
 こんにちわ、「くまドン」です。

 予想以上に長持ちした桜も、そろそろ散りそうです。
 今回は、前回の続きで大横川公園を通り、スカイツリーの下へ向かいます。

 下の写真は、墨田区の大横川親水公園(おおよこがわしんすいこうえん)です。この辺まで来ると、スカイツリーより西側になり、北向きに進む時はスカイツリーが右手に見えます。


 前回の続きから始めますと、竪川(たてかわ)と大横川の交差部に行くと、この部分で川の様相が大きく変わるのが判ります。竪川の交差部から西側は、江戸時代からの運河を残しているに対して、東側は暗渠(あんきょ)となり、その上に河川公園が造られています。同様に大横川も、この交差部から南側は江戸時代からの運河があり、北側は埋め立てられて大横川親水公園(長さ1.8km)になっています。

 大横川親水公園の五つのゾーンに分かれていて、南側はあまり木も植えて無く、コンクリートやアスファルト面積の大きい公園になっています。それなりに撮るものもあるのですが、桜撮影には向きません。
 道は広く、自転車は非常に移動し易いのですが、大きい通りはそのまま通過することができないので、信号のある交差点まで迂回することもあります。

 公園の北側まで行くと、桜の木が増えてきます。


 公園の終点近くまで来ると、公園周辺の建物もそれなりの高さがあるのですが、スカイツリーのすぐ近くの為、建物の上に、かなりの部分が見えるようになります。さすがは634mというべきでしょうか。


 終点の業平橋に到着です。船の形をした公園管理事務所があります。以前は、ここで大横川は北十間川とつながっていました。


 墨田区・江東区の河川の話が続きましたが、再び、スカイツリーに戻ってきました。

【撮影コースについて】
 このプログの「名所江戸百景001」と「名所江戸百景007」から「名所江戸百景012」のここまでを合わせると、自転車でも一周3時間以上かかるコースになります。途中にフラットダート部分(気にしなければ自転車は普通に走れる)もありますし、限られた日数で写真撮影するための桜の季節のような場合に使用する限定コースです。
 通常は、竪川河川公園を利用して半週にしたり、一部を切り出し往復コースにして、2時間程度のコースにしています。

【撮影時間について】
 写真撮影でスカイツリーを順光で撮影する場合、前回までの北十間川と、旧中川、仙台堀川、横十間川はスカイツリーの南東側、木場公園は南側あたりますので、午前中の撮影が楽でしょう。今回の大横川は南側にありますので、お昼前後が撮影し易いでしょう。
 ただし、横光(立体表現)や逆光(夕日など)が表現目的であれば、撮影時間は全く変わってきます。それは撮影者個人の考えかた次第です。楽しんで撮影してください。

 さて、ここから北十間側を西に進みます。川沿いの道は無いので、一般道から行きます。ここから先は、午後の時間帯が、スカイツリー順光撮影に向いています。

【北十間川と源森川】
 江戸時代は、大横川の分岐点より東側を北十間川、西側を源森川(げんもりがわ)と呼んでいました。北十間川は農業用水、源森川は材木輸送の目的に別々の時期に開削された為です。
 最初は、この二つの川はつながっていたのですが、隅田川増水時の洪水がひどく、川の間に堤が築かれ、分離することになりました。現在は、両方の川を併せて、北十間川と呼んでいます。

 最初の小梅橋(こうめばし)の東側は、川を分離する樋門(ひもん)があるので、あまり撮影に向いていません。(パナマ運河の様な水位調正ができる二重式水門を造ろうとすると、基礎工事から行う大工事となり、予算がかかり過ぎて問題になりますので、ご注意ください。)

 次の源森橋(げんもりばし)に進みます。
 ここは、スカイツリーと東武線の列車と、川べりに浮かぶ屋形船の風景が撮影者に人気があります。

 夜景撮影のポイントでもあります。この時は、スカイツリー開業前の試験点灯でしたので、雅(みやび)の左半分だけの点灯です。スカイツリーが開業した今では、逆に珍しい風景です。


 隣の枕橋(まくらばし)も同じような撮影が可能です。

 この枕橋は、江戸時代は源森橋と呼ばれていました。その名前の由縁が源森橋のたもとの石に刻まれていました。
 源森川(現在の北十間川)に架かる橋の意味です。そして、枕橋(旧源森橋)北側に水戸屋敷あり、屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀に新小梅橋という橋が架けられていました。この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか二つ揃って枕橋と呼ばれるようになりました。その後、新小梅橋は消滅し、明治初期に旧源森橋は正式に名前を「枕橋」と呼ばれるようになりました。昭和13年に現在の源森橋が架けられる時に、「源森橋」の名前を引き継いだこのことでした。

 枕橋の西側は隅田川に通じる水門があります。写真の右側に水戸屋敷があったことになります。ここまでが、北十間川となります。


 枕橋のすぐ北側に墨田公園があります。墨田公園は隅田川を挟んで、両岸の墨田区と台等区にまたがる公園です。桜の名所として知られています。
 隅田川の桜は八代将軍・吉宗の命にて植えられました。江戸時代から花見シーズには多くの出店で賑わう場所として有名だったそうです。
 下の写真は墨田区側の公園で撮影した写真です。まだ、桜が咲く前の事前確認だったため、池の奥の桜がさいていません。


 墨田公園の北側に撫牛(なでうし)で有名な「牛嶋神社」があります。


 この神社の撫牛は何頭いると思いますか?


 神社の両側に狛犬とは別に、下の様な石像があります。どこかで見た事がありますでしょうか?


 くまドンのプログ「名所江戸百景006」の神田明神にあった「獅子山」の親獅子像と、そっくりです。
 神社の反対側には、もう一頭の親獅子と子獅子がありました。神田明神の子獅子は、落されて登ってくる途中でしたが、ここの子獅子は親獅子の所まで登ってきた所のようです。


 撮影角度を変えてみると、親獅子が笑っているように見えるのは気のせいでしょうか?


 このプログの第一目標は、名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作ることです。この墨田公園の付近で、下で説明している名所江戸百景「第91景 請地秋葉の境内」に対応する景を作ってみたいと思っています。(秋葉神社の周りは住宅地に囲まれているの、撮影が難しいのです。)

 下の絵は名所江戸百景「第91景 請地秋葉の境内」です。

 この絵は秋景なので、赤く見えるのは紅葉です。
 構図は池全体を「く」の字型に曲げる形で全景から切り取り、池の左右を絵の外に出して、画面に広がりを与えています。水面には、紅葉や松の影を映す情景を描いています。
 左手前と右に参拝客(観光客)を点景として配置して、左上部の池を飛ぶ鳥を小さく描いています。

 広重が描いた秋葉神社は、元は鎌倉時代中頃に千代世(ちよせ)稲荷大明神を祭ることから始まりました。江戸時代初めの頃、善財と呼ばれるお坊さんが秋葉権現の神影を刻んで社殿に収め、その後、元禄時代に葉栄(ようえい)という修験者が幕府の寺社奉行に願い出て、秋葉神社、または、秋葉稲荷両社と呼ばれるようになりました。
 秋葉神社は江戸時代は火災が多かったことから、火災・火除けの神様として信仰されてました。
 題名にある「請地」とは、中世の荘園制で、地頭(鎌倉時代・室町時代の荘園管理の役職)などが毎年一定額の年貢を請け負って納入する代わりに、支配権の委任を受けた土地を意味します。とは言え、江戸時代に地頭はいませんから、それ以前の名残りでしょうね?
 江戸時代の秋葉神社は、上の絵のように広い境内があり、紅葉の名所でした。現在は境内の大分部は住宅地となり、狭いエリアになってしまいましたが、今でも秋葉神社はあり、桜の木が花を咲かせれています。
 11月17日頃に鎮火祭があります。(変更になる場合もありますので、インターネット等で事前確認をお忘れなく)

 秋葉神社の住所は、東京都墨田区向島4-9-13
 東武伊勢崎線曳舟駅(ひきふねえき)の西側約400m程。墨田公園牛嶋神社から北東に約700m程。

【秋葉神社】
 秋葉神社のほとんどは、静岡県浜松市を流れる天竜川の近くにある秋葉山(あきはやま、標高866m)の山頂にある秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)を起源とします。火防(ひぶせ)の神である秋葉権現(あきはごんげん)を祭っています。
 電気街(現在は別の意味で有名だが)で知られる秋葉原(あきはばら)の地名は、明治2年の大火により明治天皇が、現在のJR秋葉原駅に「鎮火社」を置いた所、人々に秋葉大権現が置かれたと勘違いされ、「秋葉様」「秋葉さん」と呼んだことに始まります。火災の延焼を止める為に、緩衝地帯ちしての空き地だった社域を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼び、現在の秋葉原の地名が誕生したそうです。江戸時代は神田(かんだ)の一部でした。現在は略称の秋葉(あきば)が有名。


 これで、今回は終了です。ありがとうございました。

 次回は墨田公園の続きとなります。


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