くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景137 第108景 芝うらの風景 浜離宮恩賜庭園の鷹(1)

2014年01月03日 15時00分09秒 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回は、中央区の浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)の放鷹術(ほうようじゅつ)の撮影です。

 放鷹とは、鷹狩(たかがり)=鷹を放つ(はなつ)の意味です。
 撮影日は、昨年・平成24年1月です。(今年は、別の場所の撮影を優先したので、撮影できませんでした。)

 大手門橋(おおてもんばし)を渡り、浜離宮恩賜庭園に入ります。橋が架っている川は、築地川(つきじがわ)です。
 浜離宮恩賜庭園は、北側に築地川、西側に汐留川(しおどめがわ)により分離されていて、海側に突き出した江戸城の出城のような役割がありました。
 そのようにしてみると、下の写真のように大手門橋から見る築地川の護岸も石垣が見えます。

 大手門橋を渡った所には、方形の広場・枡形(ますがた)があり、L字方に曲がった虎口(こぐち)の形状をしています。その先に大手門がありました。一の門と二の門にある枡形は、攻める場合には兵の集まる所であり、守る時には侵入した敵軍の動きを止める役割を果たします。(実際に使用された時はありませんが・・・)
 江戸時代は、浜離宮恩賜庭園は、浜御殿と呼ばれていました。

 大手門を過ぎて真っ直ぐ進むと、内堀(うちぼり)があります。江戸時代に京都・大阪などの遠方から船で運ばれてきた物資を江戸城に移動させる中継施設としての役割がありました。


 内堀を渡ると広場があり、放鷹術の実演準備中でした。程なくして、実演が始まります。
 まずは、鷹を周囲の環境に慣れさせて、落ち着かせるためや、周辺の景色を覚えさせる為に、実演する広場を回ります。
 先頭が鷹匠(たかじょう、鷹師?)です。今年の浜離宮で行われた放鷹術の他の方のブログを見ると白髭を生やしていました。その後ろに鷹匠補や門下生の人達が続きます。今年はさらに人数が増えたみたいです。

 よく見ると、色々な種類の鷹がいます。

 2周程回ると、一列にならんで、各人の紹介が始まります。聞いてみると夫婦が2組ほどいます。
 後で調べた所、諏訪流放鷹術保存会の方々でした。諏訪流は徳川将軍家の鷹匠を務めた伝統があります。

 観客の方も一杯です。一昨年はテレビで紹介された為、もっと観客が多かったそうです。
 (逆に言うと、「くまドン」の時は混んでいないので、撮影は楽でした♪♪♪)

 とはいえ、距離があるので、超望遠300mm(フィルムカメラ換算)でも大きくは写せませんので、いつもより画像の縮小率を下げて、必要な部分だけをトリミング(画像を切り取る)しています。
 まずは、鷹匠の腕からの鷹が飛び立ち、

 会場の反対側にいる門下生の腕に飛び移ります。鷹の爪は鋭いので、皮を手や腕に付けています。


 江戸時代の将軍家の鷹狩は、鷹匠が鷹狩をするのではなく、将軍に鷹狩をさせるのが目的ですから、鷹匠以外の人の腕から飛び立たせたり、腕に飛び乗ったりする訓練をしています。
 見学者からも選ばれて、実演です。

 3人いたのですが、午前中は全員見事に成功でした。


 再び、鷹匠から飛び立つ鷹の姿です。


 この中で、どれを選ぶか迷いましたが、

 この写真を、広重の名所江戸百景「第108景 芝うらの風景」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。正月向けなので、春景になります。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 午前中の実演は、すべて成功という結果で、見事でした。
 当日の午後は、「くまドン」の予定も無かったので、午後の実演も見て帰る事にしました。
 午後の実演まで時間があるので、浜離宮恩賜庭園を見て回ることにしました。

【東京都立浜離宮恩賜庭園(とうきょうとりつはまりきゅう おんしていえん)】 国の特別名勝及び特別史跡
 潮入(しおいり)の池と二つの鴨場(かもば)をもつ江戸時代の代表的な大名庭園です。

 潮入の池とは、海水を導き、潮の干満(干潮・満潮)によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で多く用いられていた様式です。

(1)以前、江戸時代初期の頃には、江戸城の東側は、日比谷入江と呼ばれる入江が深く入り込んでいて、
 新橋付近は、江戸前島と呼ばれるの砂州の岬でした。現在の浜離宮付近は、その岬の先端部付近になります。
 その後、天下普請(てんかぶしん、幕府が諸国の大名に行わせた土木事業)により日比谷入江は埋め立てられて、大名屋敷が建てられますが、現在の浜離宮庭園付近は将軍家の鷹狩場で、一面の葦原(あしはら)となっていました。
 下の地図は、前に作成した地図を再利用しました。
 図左下の[新橋]の文字の横にある赤い星印(★)が浜離恩賜庭園です。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」

 日比谷入江の話は、以前のブログ「名所江戸百景094 第3景 山下町日比谷外さくら田 日比谷公園 秋の花」でしましたので、省略します。

(2)4代将軍・徳川家綱(いえつな)の承応年間になると、
 家綱の弟である徳川綱重(つなしげ、3代・家光の三男、4代・家綱の弟、5代・綱吉の兄)がこの土地を貰い受け、
 同時に甲斐(かい・現在の山梨県)の甲府城(こうふじょう)が与えられ、甲府藩15万石の藩主となります。
 現在の浜離宮にも、海を埋め立て、屋敷が建てられました。この頃は、「甲府浜屋敷」と呼ばれました。
 綱重は家綱より先に死去した為、綱重の長男・綱豊(つなとよ、6代将軍)が継ぎます。
 なお、この綱豊が生まれたの現在の根津神社のある場所にあった屋敷です。
 (根津神社は「名所江戸百景014~015 第16景 千駄木団子坂花屋敷 根津神社のつつじ」をご覧ください。)
 下の写真は、「汐入の池」と「中島のお茶屋」です。後方には汐留(しおどめ)の超高層ビル群が見えます。


(3)4代・家綱に子供がいなかった為、上野(こうずけ、現在の群馬県)の館林(たてばやし)藩主だった
 綱吉(つなよし)が5代将軍になりますが、この綱吉も子供がいなかった為、
 綱豊が綱吉の養子となり、6代・家宣(いえのぶ)として後を継ぎます。
 これに伴い、「甲府浜屋敷」は、将軍家の庭となり、「浜御殿」と呼ばれるようになりました。
 家宣は庭を大改修して景観を整えて、大手門(おおてもん)や茶屋、観音堂、庚申堂などを建てました。
 浜御殿奉行を置き、公家の接待の場として使用したそうです。
 下の写真は庚申堂鴨場です。


(4)8代・吉宗(よしむね)は鷹狩好きで有名でしたが、浜御殿は、実用学の実験場として使用しました。
 サトウキビの栽培や、西洋騎馬術の訓練を実施したりしています。
 また、吉宗が像を見たいという事から、ベトナムから連れてこられたゾウ(像)が飼育されていました。

(5)11代・家斉(いえなり)の代になると、享保年間の火災で吉宗が放置した浜御殿の造営に力を入れます。
 庭園に西南にある新銭座鴨場と三つの茶屋を作り、家斉の時代に現在の浜離宮庭園の形になりました。
 将軍在位が50年もあり、鷹狩りが好きで、248回も浜離宮に訪れています。
 品川浦で獲れたクジラを家斉が見たのも、この浜御殿です。
 (「名所江戸百景070 第83景 品川すさき 品川浦と釣り舟」を参照ください。)
 ただ、この家斉は、治世前半は、松平定信(まつだいらさだのぶ)を中心とする寛政(かんせい)の改革と遺老(いろう)により、財政立て直しをしていましたが、後半に改革派を遠ざけて、大御所(おおごしょ)として居座ってからは、贅沢(ぜいたく)な生活を送り、贈賄(わいろ)や放漫財政(ほうまんざいせい)をはびこらせ、幕府を傾ける原因になっていった困った将軍なのですが・・・・・・

 現在では、狭い鴨場の池より、見通しのきく汐入の池に多くのカモが集まっています。


(6)家斉が亡くなり、12代・家慶(いえよし)が水野忠邦(みずのただくに)を登用して、天保の改革(てんぽうのかいかく)を行いますが、この時代も浜御殿で鷹狩りが好んで行われていたようです。
 結局、天保の改革は失敗して、水野忠邦は失脚。続いて、老中になった阿部正弘(あべ まさひろ)の時にペリーの黒船(くろふね)が来航します。

 色々な種類のカモがいるのです。


(7)黒船来航後に家慶が病死すると、13代・家定(とくがわ いえさだ)が将軍になります。
 沿岸の警備のため品川沖に台場が造られたのは有名ですが、浜御殿にも台場(砲台)が造られました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第108景 芝うらの風景」(冬景)です。
 広重は名所江戸百景を描いたのは、13代・家定の安政年間の頃です。

 現在の築地市場(つきじしじょう)から浜御殿(浜離宮恩賜庭園)の方向を眺めた絵です。
 右側の松の木が生えている所が浜御殿、左奥が品川の海に浮かぶ砲台です。
 絵の構図としては遠近法が用いられ、絵の奥には三浦半島の山並みが続いています。
 飛ぶ鳥はユリカモメですが絵に対して斜めに配置しています。よく見ると、鳥だけでなく、浜離宮の護岸や船、台場なども斜めに配置することにより、画面垂直に立つ澪標(みおつくし)対して、画面に変化を与えています。
 「澪」は小舟の航路の意味で、「澪標」は浅瀬で船が座礁しないように浅瀬と深場の境目につけた目印です。

(8)15代・慶喜(よしのぶ)は鳥羽伏見(とばふしみ)の戦で敗れ、幕軍の軍艦で江戸に戻り、ここの「将軍お上り場」から江戸城に戻ったそうです。

 諏訪流放鷹術の13代・小林鳩三までは徳川将軍家に仕えた鷹匠です。

(9)明治時代になると、皇室の離宮となります。
 諏訪流放鷹術の14代・小林宇太郎は宮内省(現宮内庁)に仕えた鷹匠です。
 小林宇太郎には実子がいなかった為、諏訪流の伝統は、弟子である宮内省の職員であった15代・福田亮助氏、16代・花見薫氏と受け継がれていきました。

 下の写真は、旧稲生(いなぶ)神社です。創建時期は不明ですが、明治27年の東京湾を震源とする地震で社殿が倒壊したため、翌年、宮内省が浜離宮内の複数に神社をまとめて再建されたそうでうす。

 その後、放置されて朽ち果てる寸前だったのを、東京都が平成17年から全解体・復元をしたものです。
 なお、この旧神社には、ご神体が無く、神社としての機能は無いそうです。(あくまで遺跡です。念のため)

(10)昭和20年に東京都所有となり、翌21年に整備されて現在の公園となりました。
 宮内庁も、公式の鴨猟に鷹狩を行わないようになった為、弟子の育成が不可能となり、諏訪流放鷹術の伝統は消えかかっていました。
 16代・花見鷹匠は、宮内庁に配慮して、定年退職した後に伝統的な放鷹術の火種を残す為、田籠善次郎(たごもりぜんじろう、平成8年から諏訪流17代鷹師・宗家)氏に指導を行いました。
 昭和58年には、田籠氏は当時の仲間であった篠崎隆男氏、室伏三喜男氏と共に「日本放鷹協会」(諏訪流以外も含みます)を設立。平成18年には「諏訪流放鷹術保存会」を設立して、諏訪流の門下生育成しています。

 1月2日にブログの作成が間に合わなかったので、後から作成したもの差し替えました。
 一応、参考に浜離宮恩賜庭園の平成26年正月イベント情報は残しておきます。

 正月(1月)の2日・3日には、その他の都立8庭園(入園料は有料)で、正月関連のイベントを行っていますので、
 一応、2014年の情報だけでも参考に流します。

【浜離宮恩賜庭園の正月イベント(平成26年分)】 (中央区、JR新橋駅の近く)
 日時: 平成26年1月2日(木)・3日(金) 9:00~17:00
 入園料: 一般300円、 65歳以上150円、(小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)
(1)新春の空に鷹が舞う!放鷹術(ほうようじゅつ)、の実演 (雨天中止) 11:00、14:00時(各回約1時間)、場所: 内堀広場
  浜離宮恩賜庭園は将軍家の鷹狩場であった場所です。毎年・正月に伝統ある鷹狩の技「放鷹術」を行っています。
(2)お楽しみ広場 (羽根つき、独楽回しなど昔懐かしい正月遊び) (雨天中止) 10:00~15:30
  場所: 野外卓広場

(3)軽飲食の販売  (天候により中止の場合あり)
  将軍家斉の食事記録に記されたレシピに基づき再現された「将軍の雑煮」や、温かい飲食物などを販売
  場所: 内堀広場
(4)抹茶の提供
   ①中島の御茶屋 9:00~16:30 費用:500円 (上生菓子付きは700円)
   ②松の御茶屋  10:00~16:00(30分ごとに12回) 定員15名程度
     費用  800円 (上生菓子・建物ガイド付き)
(5)庭園ガイド 10:00・13:00(各回約1時間) サービスセンター前集合

 浜離宮恩賜庭園内には、水上バス停(別料金)があります。
 水上バス(日の出桟橋─浅草)・東京水辺ライン(両国・お台場行)の2便あります。


(1)日比谷入江の話は、
 「名所江戸百景094 第3景 山下町日比谷外さくら田 日比谷公園 秋の花」
(2)根津神社の話は、
 「名所江戸百景014 第16景 千駄木団子坂花屋敷 根津神社のつつじ(1)」
 「名所江戸百景015 第16景 千駄木団子坂花屋敷 根津神社のつつじ(2)」
(3)品川浦と捕獲されたクジラが浜離宮に運ばれた話は、
 「名所江戸百景070 第83景 品川すさき 品川浦と釣り舟」
(4)築地市場と築地川に関する話は、
 「名所江戸百景085 第43景 日本橋江戸ばし 築地市場」
 「名所江戸百景086 第77景 鉄砲洲稲荷橋湊神社 築地川・鉄砲洲」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 正月2日のブログを書きなおしました、1週間程度過ぎた後に、順番を整理するために日付を1/2に移動させます。

 次回は、放鷹術の続きで、午後の実演です。

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