
冒頭写真は 金沢大学の人間社会学域2号館。昔の法学部と経済学部かな。
僕らが入学した時が、まさに移転問題の最盛期で、角間、三小牛、安原などが移転先候補として俎上に上ってたけど、最終的には 角間になった。一時期、法経文の単独移転!なんて話が急浮上したときもあり、法文教授会を「法経文単独移転反対」のシュプレヒコールで包囲したこともありました。
当初は、カクマ??それってどこ?山の中?? っていう感じだったけど、今は 山側環状の幹線道路も開通し、自動車を使えばそれなりの時間で到着できる。
この問題、どうしても「移転」の側面が強調されるが、「大学改革」と本当はセットになるべきだったんだけど、それは必ずしも成功しなかったね。「金沢大学民主的改革総合移転!」なんてタイトルのビラが、今となっては懐かしいね。
街中の大学が 郊外に移転するっていうケースは 決して少なくないし、移転先でしっかりと根付いて発展していった大学もたくさんあるから、ぜひ金沢大学も そうなってほしいね。
以下は 森喜朗元首相の、2011年3月7日ブログです。転載の許可は取っていません(笑)
ご存じのように、かつて金沢大学は金沢城の中にありました。この狭い大学を広い土地に移し、壮大なキャンパスの中で学生にはおおらかな気持ちで学問に取り組んでもらいたい。だから、筑波大学のケースを何としても成功させ、金沢大学総合移転の先べんにしたいと思っていたのです。(中略)
こうして筑波大学法案を成立させ、金沢大学の総合移転構想に着手した際も、かなり抵抗はされました。「筑波の矛先を金沢に向ける保守反動、右翼森喜朗をつぶせ」などと書いたビラも、金沢の香林坊や片町や、いろんな所に貼られましたが、「第二の筑波だ」と思って一生懸命やったら、文部省(当時)も一生懸命にやってくれたのです。わたしにとって金沢大学の総合移転は、衆院本会議での演説に始まり、文部科学大臣のころに仕上げし、国と県、金沢市をめぐる移転跡地の問題も、なんとか建設大臣のころに決着を付けることができたという、まさに私の政治家として最高のライフワークだったのです。
まあ 森さんが正直に言っていることは 当時から公然の秘密だったけど、だからといって「移転」に機械的に反対するのではなく、「大学の中身をどうするのか」という本質論を、移転問題と結びつけて考えよう というのが、僕らの考えだったんだけどね・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます