文久3年8月18日の政変は、攘夷についても穏健派であり、公武合体を専一と考えていた中川宮(青蓮院宮)と、会津・薩摩の合議によってなされた、過激派公卿と長州藩追放を目的としたクーデターであった。もっとも当時、孝明天皇御自身も、過激派に乗ぜられた大和行幸、神武帝陵参拝、春日社の礼拝につづく御親征という、幕府追討の親征に赴かれるという思召しはなかったので、このような軍議は全く廃されて、三条実美以下過激派の追放と、長州藩の洛中退去という結果になった。
そこで以後は長州藩の志士を中心とする尊攘の志士達は、巻返しを計り、政局を打開いるために、中川宮と会津藩を血祭りにあげようと、京都に潜入してその機会を狙っていた。
会津守護職側も、尊攘志士達のこのような行動には十分警戒し、新選組などにも勤王の志士の行動の監視を命じた。ある日、宮部鼎蔵の下僕忠蔵が、南禅寺で新選組に捕えられ、ついに主人宮部の潜伏場所を白状したために、桝喜こと古高の家が新選組の探索を受けたという。
元治元年(1864)6月5日の早暁であった。ようやく梅雨も上がって、夏を迎え、祇園祭も間近になった頃、木屋町四条上ルの高瀬川沿いの(割木屋薪炭商)、桝屋喜右衛門が、突如踏み込んだ新選組に引き立てられて、牢屋に入れられた。桝屋は家探しされて、何やら悪事の証拠を新選組が持ち帰ったそうだ、と突然の出来事に町内の人たちは青くなった。
桝喜こと湯浅喜右衛門の店は、丹波世木村(肥後領)から積出される割木を主として扱っていたが、先代喜右衛門が労咳で死んだ後、江州出身の古高俊太郎正順が同志湯浅五郎兵衛の世話でその親戚の桝喜へ養子に入っていたのである。
古高は、父の周蔵の代から山科毘沙門堂門跡、一品慈性法親王に仕え、前は堺町丸太町下ルに住んでいた。古高は日本外史を読み、また鷹司家に奉公する妹から、朝廷と官臣の窮状を聞き、いよいよ勤王の志を固めた。
古高の家には、宮家の侍や公卿侍が集まり、勤王、攘夷、倒幕の密議をこらす集会所のようになるにつれて、幕吏の目をくらますために、自宅を骨董屋にした。たまたま店先に並べた家重代の宝刀が縁で、浪人梅田雲浜との交流が始まり、古高は以来、薩長土肥の浪士たちとの交わりも増えた。それについては彼は幕府側の目にとまり、ついには、外出もままならぬことになった。
そのような折であったから、桝喜への養子に入る話はもっけの幸いであり、早速に湯浅喜右衛門にまりすました。(万延2年3月)。木屋町四条上ルのこの家を本拠として、またぞろ勤王活動をつづけた。
桝喜の店の北側、高瀬の舟入を挟んで向こうの浜には、長州藩御用の小林嘉助の蔵があり、長州藩士の出入も多く、桝喜の宅ともども日下玄瑞、寺島忠三郎、乃美織江、平野次郎國臣、吉村寅太郎、藤本鉄石、藤村四(紫)郎、河田佐久馬など勤王家の連中が出入した。文久3年8月以降の古高は、幕吏の目を逃れて、一時上長者町の粟津右馬亮方に、1年半ほどひそみ、再び四条木屋町へ帰り活躍した。
元治元年に入ると、長州の吉田大二郎、岡田幸吉、内山太郎左衛門、佐藤一郎、山田寅之助、土佐の本山七郎、松尾甲之進、所山弥作、松山良蔵、肥後の宮部鼎三兄弟、松山重助、和州の大中主膳、沢井帯刀、作州の安藤鉄馬、ほか数十名は、古高俊太郎を謀主として、連判状に署名血判し、壬生の襲撃、朝廷への哀願、長藩の入京を計ることを決議した。以後の会所を長州藩の定宿池田屋と丹虎に定め、続々と同志の増加をみた。そして6月5日、池田屋に会合し、発動いる予定でした矢先、新選組の近藤勇の率いる30名の手入れとなった。
連判状は新選組の手に入ったのである。新選組手入れの報は、番頭の利助が河原町の長州藩邸へ駆けつけて知らせた。
吉田、宮部、松田ほかの浪士は5日夜池田屋に集まり、古高奪還の策を練っているところを、新選組に急襲された。池田屋事変がこれである。古高俊太郎は六角牢中で7月20日に殺された。
古高邸跡を示す石柱標は、元の場所から西へ入った所に移されて立っている。
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五七五
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