茶道宗家表千家は、千利休が豊臣秀吉から死を命ぜられた後、一家離散の憂き目にあったが、
その後、千家再興を許されて、利休の子少庵宗淳が大徳寺門前にあった利休の遺席をこの地に移し、
屋敷を構え、「不審庵」と号したのが始めである。
宗淳の子宗旦はその後を継ぎ、
正保3年(1646)には三男の宗左にゆずって隠居し、「今日庵」を営んだ。
この今日庵が不審庵の北裏にあることから「裏千家」とよばれ、
表の本家は「表千家」と称した。
現在の建物は天明の大火後の再建。
表門は紀州邸からゆずられたという重層門で武家構えの門である。