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一乗寺下り松  宮本武蔵・吉岡一門の決闘の地といわれていますが・・・

2015年12月04日 10時31分28秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

左 宮本  吉岡  決闘之地  

右 大楠公戦陣蹟

一乗寺下り松

ここは、近江(現在の滋賀県)から比叡山を経て京に通じる平安時代からの交通の要衝で、ここの松は古くから旅人の目印として植え継がれ、現在の松は4代目に当たる。江戸時代のはじめ、この地で、剣客・宮本武蔵吉岡一門数十人と決闘を行った伝説が有名で、ここから東に約300mの所にある八大神社の境内に、決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。武蔵は決闘に向かう途中、同神社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き寸前でやめたという話もある。平安中期から中世にかけ、この辺りにあった一乗寺という天台宗の寺が地名の由来となった。南北朝の動乱以後に衰えて廃絶した。傍らの記念碑は大正10年(1921)に広島県呉の剣士・堀正平氏により建立されたものである。京都市

慶長9(1604)年,剣客宮本武蔵(1584~1645)が,吉岡又七郎およびその門弟とこの地一乗寺下り松で決闘したと伝える。この石標はその跡地を示すものである。ただし,江戸時代の地誌類にはこの逸話を記すものはなく,竹村俊則「宮本武蔵決闘地 一乗寺下り松について」(『土車』24号)は江戸時代の随筆「古老茶話」に依り北野一条下り松を推し,これが一乗寺下り松と誤って伝えられたとする。  表面に名を記す堀正平(1888~1963)は,大日本武徳会武術教員養成所を出て,各地で剣道教師を勤めた武道家。建碑者堀翁は妻佐々木氏翁  この伝説は作家吉川英治の小説「宮本武蔵」でにとりあげられ、ますます有名になり、今ではあたかも定説のようになっているが、真偽は保証できない

碑文

慶長九年宮本武蔵吉岡清十郎ト蓮台野ニ於テ剣術ヲ試ミテ之ニ勝チ又其弟伝七郎ト洛外ニ出テ雌雄ヲ争ヒ一撃ニシテ之ヲ斃ス是ニ於テ吉岡ノ門人恨ヲ含ミ清十郎ノ子又七郎ト謀リ試合ニ名ヲ仮リ数十人兵仗弓箭ヲ携ヘテ此所ニ会ス武蔵又七郎ヲ斬リ其徒党ノ者ヲ追退ケ悠然トシテ洛陽ニ帰ルト云

    大正十辛酉年                  堀      翁女建之

大楠公戦陣蹟

 『太平記』によると,建武3(1336)年正月楠木正成(?~1336)勢と足利尊氏(1305~58)勢がこの地で対陣し,正成が足利軍勢を追撃したとされる。

碑文

建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす乃ち前宵楠木 結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に 陣し明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬこれ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せりしかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせすしかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在りかゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし即ち斯に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり

昭和二十年五月二十五日建之

昭和廿年十一月建之        大楠公下松戦蹟顕揚会     撰并書     文学博士   吉沢義則

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