洛陽三十三観音霊場
第十六番札所
めやみ地蔵尊 仲源寺
施主 石見屋惣兵衛 事 小林虎治郎 ・・
大正十年十月 建立
雨奇晴好
表門の扁額「雨奇晴好」はこの寺の性格をよくあらわしている。
寺伝によると、鎌倉時代の安貞2年(1228)鴨川の氾濫に際し、ときの防鴨河使勢多判官為兼は地蔵菩薩が溺れ人を救う霊告によって洪水を防いだので、その報恩のため、一体の地蔵尊を安置したのが当寺の起こりと伝える。一説に夏(中国)の禹王を祀って、水害が起こらぬように祈ったのだともいわれる。
はじめ、平安時代の治安2年(1022)、仏師定朝が四条大橋より東北の田のなかに祀られていたので「畔の地蔵」とよばれたが、八坂神社へ詣る人がよく雨を避けて雨宿りをしたことから、雨止(あめやみ)地蔵とよばれた。
天正13年(1585)豊臣秀吉の命により、現在の地に移り、祇園村の惣堂として崇敬された。本堂にはこの霊験あらたかな地蔵尊(江戸時代)を本尊とし、その傍らに阿弥陀如来像(室町時代)を安置する。この阿弥陀像は、前に山形の彫刻を置き、その背後から半身をあらわした所謂「山越の阿弥陀」を彫刻化したもので、絵画にはその例が多いが、彫刻としては珍しい。
この地蔵尊は丈六の坐像、玉眼入で、その眼が少し曇っていて、あたかも風眼にかかっているようにみえることから、眼病平癒祈願の信仰が生まれ、「雨止(あめやみ)」が転じて「目疾(めやみ)」地蔵とよばれるに至った。
霊元法皇の御製とつたえるその御詠歌に
見る眼なき数多の人の嘆きには
代りわずらふ法のまなじり
とうたわれた如く、江戸時代には洛陽48願所の37番霊場として信仰をあつめた。
千手観音
観音堂に安置する春日仏師の木造の千手観音坐像(重文・藤原時代)は、丈六、金箔押の巨像で、円満な面相と流麗な衣文は、よく藤原時代の仏像の美しさをあらわしている。平安時代後期に千手観音の信仰が盛んであった。三十三間堂も造営されている。千手観音が平安後期の貴族たちに信仰されたのは、この観音の法要の1つに千手愛敬法があるからである。この法をおさめると仲の悪い男女が愛し合うようになる。白河法皇が平忠盛を供につれて祇園女御のもとに通ったことは有名な話、法皇と女御とが仲たがいしたことがあった。そのとき、勧修寺の範俊が千手愛敬法をおこなって、両者をもとの鞘におさめたという。その尊像は、もと東山の雲居寺または桂橋寺の遺仏とつたえる。
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ことわざ
大男総身に知恵がまわりかね