アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院上0100  浄福寺2 赤門、違法建築 泣き龍、洛陽48願所で有名です  その弐 

2016年06月23日 16時29分07秒 | 寺院

いきなりですが、順番なので 墓所の入り口です

ここは、光格天皇 皇女 、禁裏餅御用 川端道喜、

香川景樹門下 歌人 柳原安子  らの墓所になっています

この石碑 明暦3年 (1658年) 建立です まあ、古い方ですね

 

井戸の横にある手水舎 天和元年 (1681年) こちらも そこそこ 古い

 

南門 から 右手にある 地蔵尊 背が高いです

 

  ここの建物は 赤門以外は 享保18年(1733年)の再建です

鐘楼は 1628年の再建

 

 平成28年6月21日 説明追加

寺院上0100 浄福寺

浄福寺は、浄土宗に属する寺院で、一般には「赤門寺」の名で親しまれている。創建・由緒は不明で、その後中世までは寺地を転々とし、元和元年(1615)に現在地に移ってきた。享保年間(1716~36)には鐘楼、南門を除く諸堂を焼失した。

 本堂は、享保16年(1731)から同18年にかけて再建されたものである。入母屋造の礼堂と寄棟造の仏殿を、両下げ造の合の間で接続した複合建築で、その変化に富んだ外観に特色がある。

本堂の東側には宝暦6年(1756)の再建になる三間堂の釈迦堂が建ち、また後方には玄関、享保19年の再建と伝える方丈が並んでいる。さらに、境内の南と東にはそれぞれ門が開き、南門の後方には鐘楼が建っている。鐘楼は寛永5年(1628)の再建、南門は17世紀前期の造営になり、共に享保の火災で焼失を免れたものである。東門は、江戸時代後期に現在の姿になったと考えられる4脚門で、全体に朱塗りが施されているところから「赤門」と呼ばれている。当寺の赤門寺という名称はこの門に由来する。

浄福寺の本堂以下一連の建物は、江戸時代中期における浄土宗寺院の伽藍配置及び建築形式をよく伝える貴重な遺構であり、昭和60年6月1日 京都市指定有形文化財に指定された。 京都市

玄関 

玄関 左側                 玄関 手前で

平成27年4月12日 撮影

 続きは 次回に

寺院 前回の記事 ➡  寺院上0099  正賢寺  真宗大谷派  

  



最新の画像もっと見る