大黒菴武野紹鴎邸址 (だいこくあんたけのじょうおうてい)
昭和四年春稟京都三宅安兵衛遺志建之
武野紹鴎(1502~55)は,室町後期の茶人で大黒庵・一閑と号した。招鴎は名は仲村、通称新五郎。文亀2年(1502)奈良に生まれ、父信久のとき境にうつり、武野と改めた。商人であるが、連歌を志し
父は堺の有力町衆。24歳で上洛した紹鴎は,36歳で堺に帰るまで当地に居を構えた。その間,三条西実隆(1455~1537)について13年間、古典・連歌を,村田宗珠からは茶の湯を学んだ。
茶の湯において紹鴎は,四畳半の侘び茶をさらに簡素化し小座敷などを創作し,村田珠光(1422~1502)から千利休(1522~91)への橋渡し役をはたした。この石標は,武野紹鴎の邸宅跡を示すものである。現地は菊水之井と呼ばれた名水のあった地でもあり,紹鴎もそれを求めてこの地に邸宅をいとなんだという。大黒庵は恵比須神社とともに天明の大火に焼亡し、井水も涸れてしまった。
晩年は堺に帰り、弘治元年(1555)10月29日、54歳で亡くなり、堺の南宋寺に葬られた。
大黒菴武野紹鴎邸址
昭和四年春稟京都三宅安兵衛遺志建之
菊水の井
説明版の上方の石に 「菊水」 の文字が彫りこまれています
菊水の井跡
中世、室町時代、当地に夷を祀る社があり、社殿の隅に名水、「菊水の井」が有りました。茶道の始祖千利休が師事した、茶人の先覚者武野紹鴎は、この井をこよなく愛し、此処に庵を結び茶亭を大黒庵と称しました。菊水の井と呼ばれる所以は、能楽「菊慈童」から着想「菊の葉より滴る露を飲み長寿を得た」という中国の故事に起因します。当ビル建設にあたり、跡地に旧井戸より発見された「菊水」の文字入りの井桁組み石等を利用して建立しました。菊水鉾はこの「菊水の井」に因んで名づけられました。平成14年9月 菊水鉾町
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