アートプラス京めぐり

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まとめ010  京の水

2016年12月18日 23時46分29秒 | テーマ数々

 

 

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現役の名水

 1  銅駝会館

 2  下御霊神社

 3  染井 (梨木神社)    

 4  右書き看板43  六源勢伊  やなばちた  創業 宝永5年  創業以来 307年 

 

煮沸してから使ってください

 

1    新滋野井

2  若一神社

 

名水 水は出ています

 

1  柳の水

2  染殿井 雨宝院 (西陣五水)

3   手洗井        

 

昔の名水 井戸はあるが使っていない

 

1  いさら井

2  梅雨の井

  千代野井  西陣五水の1つ

4  銀水

5    名水上007  滋野井 古くは平安時代から


 

史蹟としての名水

 

1   化粧水(けしょうのみず)

2  牛若丸 首途の水

3    石碑 左女牛井・さめがい   

4  菊水の井                            

5    水薬師寺  平清盛ゆかりの寺・名水「岩井」      

6    名水・芹根水 と 書家 烏石葛辰 

7  親鸞聖人 御聖水  湧出しています         

 

 

誇りの銘水 

 

1  石野味噌の「石井筒」

 

パワースポットとして

 

1  晴明の井

 

信仰の水

 

1  解穢れの水  月読神社

 

未分類

 

2  桜井  ・西陣五水

3  安居井・西陣五水・個人宅

4  鹿子井・西陣五水・個人宅 

5  染殿井・京都御所・清和天皇の母の住居内にあった

 


祠伏024  伏見・撞木町の祠

2016年12月18日 17時52分05秒 | 町内の小さな祠

しっかりした石の台に祀ってありました

土台の石の色からして 最近ではなさそうだ 年数を経ているようです

 

祠 前回の記事 ➡  祠伏023  青木ケ瀧   弘法の瀧

近辺の記事  ➡  石碑伏0089  伏見・橦木町廓入口  赤穂浪士・大石良雄も通った

 

川柳

 

三月前 教えた将棋で 孫に負け    /西森

 

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地蔵尊伏027  伏見・撞木町の地蔵尊

2016年12月18日 09時46分27秒 | 地蔵尊

地蔵尊のとなりに 神様が祀られています

この近辺 撞木町廓跡  ➡  石碑伏0089  伏見・橦木町廓入口  赤穂浪士・大石良雄も通った

地蔵尊 前回の記事  ➡ 地蔵尊伏026  疏水べりの地蔵尊  墨染

 

川柳

 

天井に見るものほしいエレベーター   /吾亦紅

 

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石碑伏0091  橦木町廓之碑 

2016年12月18日 09時07分10秒 | 石碑

 

 

 橦木町廓之碑

絶世の英雄豊太閤伏見城を築くに及び伏見の殷賑は一躍して天下の中枢となれり当遊郭は此殷賑時代の創設にかゝり慶長元年林又一郎なるもの伏見田町に遊郭を起したるを其前身とし伏見落城後幾くもなく廃滅に帰せしかば 渡辺掃部前原八右衛門の両名は時の伏見奉行長田喜兵衛芝山小兵衛に請ひ慶長九年十二月二日富田信濃守邸址を開地して再興す花街の形状撞木に似たるにより撞木町の名あり実に今を距る三百十四年の昔なり其後幾盛衰を経たるが元禄宝永の頃は最も繁栄せしものゝ如く各書には都に近く島原の流れを汲めるにより鄙びずと嘗て京都の公家衆の多数が屡々来遊せし事をも載す殊に赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂苦肉の一策として当遊郭笹屋清左衛門方に遊興せることは人口に膾炙せられ義士の名とともに撞木町の名は天下に伝はり且義士が此処に復讐の謀議を凝らして目的を達せるより後来当遊郭に於て謀議する時は何事も成就すべしとて来遊する人々多しと云

大正七年十一月 高橋桃城誌

遊雲散士書

町内には大石が彫ったといわれる天神木像があるとのこと

関連 記事  ➡  まとめ009 赤穂浪士の史跡・ゆかりの地

石碑 前回の記事 ➡ 石碑伏0090  大石良雄 遊興之地 よろづや 跡

 

川柳

 

ファミレスでわあいと言ってくれたころ   /だてこき

 

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石碑伏0090  大石良雄 遊興之地 よろづや 跡

2016年12月18日 07時45分38秒 | 石碑

 

大石良雄 遊興之地  よろづや

大正13年12月14日

赤穂浅野の家老大石良雄が京都山科に居を移したのは元禄14年(1701)6月28日。そして、すべり石越えに廓通いを始めたのはその年の暮れのこと翌15年の6月ごろまで酒色にうき身をやつした。このとき選んだ花街が撞木町の廓「笹屋」ここは山科から一番近く、また、この廓には太夫という位の女がいない。浪人者の大石には安上がりで遊べるところだったわけ。撞木町は慶長元年(1596)に開かれた日本で2番目に古い遊郭で、伏見の発展とともに栄え、元禄のころには全盛を迎えていた。笹屋での大石は池田久右衛門という仮の名で「浮橋」や「夕霧」を相手に遊んだのである。浮橋の位は「鹿恋」といったが、他にも「天神」「半夜」といった位の遊女がいたという。当時、笹屋(笹屋の主人は代々清右衛門といった)は揚屋であったから大石は置屋から浮橋を招いて遊んだものと思われる。初めのうちは、歌を作ったり落書きしたり、あるいは杯を作ったりして、いかにも風流であったが、日がたつにつれ乱行めいてきた。もうそのころは妻子を実家の但馬へ帰し、長男松之亟(15歳、元服して大石主税)だけを手元に置いていた。この間の事情を妻子がいると討入りのさいの足手まといになり、また妻子に類を及ぼしては、との配慮からという。が、そのころの世間の口は「妻がいては十分遊べないから」とか「妻が良雄の道楽をきらって帰った」など、いろいろとウワサされた。しかし、これもあとで考えれば、世間が大石の計略にかかったといえる。やがて大石は白昼に女をつれ、雑踏の京の町を酔い歩いては、ところ構わず寝込む。この姿を見た京わらべたちが「赤穂で悪うてあほう浪人大石軽く張抜き石」と悪口をいったのは有名である。ついには同志までが疑いの目を向け、短慮の奥野将監は笹屋へきて大石をいましめたが聞きいれられない。憤慨した奥野は大石から離れていった。小山田源左衛門もあいそをつかす。かくて、そのころ125人にふくれ上っていた同志が次々と脱落して行ったのである。のちに吉良方の間者のめをごまかすたの遊興といわれているが、笹屋には、そういう種類の人間が出入した記録はない。「笹屋のお大尽」大石は、女どもに「うきさま」とイキな名で呼ばれた。これは浮橋のヒザをまくらに口ずさんだ自作のうた「里げしき」のなかにとあり、このの「うき」からきたのであろうとも、また彼のお気に入りの女「浮橋」の「うき」からきたという。大石はこのほか山科から伏見までの通い道で、気に入った景色を自分の座敷の欄間に彫らしたりして討入までの短い時間を楽しんだ。この大石にも笹屋をあとにするときが迫った。江戸へ下る少し前、二階の座敷で酔って碁盤(コタツともいう)を踏み台にして、格天井に書き残したのが「今日亦逢遊君、空過光陰、明日如何、可憐、恐君急払袖、帰後世人久不許、逗留不過二夜者也」の一文。ここに大石の自ちょうと決意がほのめかされている。その後江戸へ下った大石らは、吉良邸の討ち入りを敢行、赤穂義士の名は天下に伝わった。世が花の元禄といわれる平和な時代だったからかもしれない。やがて笹屋の格天井に書かれた一文も人気のまととなり、天明元年(1781)には、この天井を取りはずしてびょうぶのように仕立て、諸国に持ちまわり見せ物とした。その後この天井は大阪の某家に流れて伝わっているという。この撞木町も、大石が遊んだころにくらべると年々すたれた。安永元年(1772)のころは、まだ数軒の廓があり、芸姑も数十人いたというがやがては全くの草原となったとある。その後、再び廓として復活し、戦後の売春防止法施行まで火をともしていた。だが、大石良雄が遊びに行かなければ、ごくありふれたちっぽけな花街にすぎなかっただろう。このあたりは昔から何度も焼け出され、当時の面影は薄い。一昨年亡くなった

前主人が、大阪にあった「天井の落書き板」を取り戻しているのと、赤穂藩を象徴する「浅野鷹羽」の紋入り瓦が残っているくらいである。参考

 

関連記事  ➡  まとめ009 赤穂浪士の史跡・ゆかりの地 

石碑 前回の記事 ➡  石碑伏0089  伏見・橦木町廓入口  赤穂浪士・大石良雄も通った

 

川柳

 

ヘルパーさん育てた娘より優しくて   /三浦

 

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