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石碑伏0090  大石良雄 遊興之地 よろづや 跡

2016年12月18日 07時45分38秒 | 石碑

 

大石良雄 遊興之地  よろづや

大正13年12月14日

赤穂浅野の家老大石良雄が京都山科に居を移したのは元禄14年(1701)6月28日。そして、すべり石越えに廓通いを始めたのはその年の暮れのこと翌15年の6月ごろまで酒色にうき身をやつした。このとき選んだ花街が撞木町の廓「笹屋」ここは山科から一番近く、また、この廓には太夫という位の女がいない。浪人者の大石には安上がりで遊べるところだったわけ。撞木町は慶長元年(1596)に開かれた日本で2番目に古い遊郭で、伏見の発展とともに栄え、元禄のころには全盛を迎えていた。笹屋での大石は池田久右衛門という仮の名で「浮橋」や「夕霧」を相手に遊んだのである。浮橋の位は「鹿恋」といったが、他にも「天神」「半夜」といった位の遊女がいたという。当時、笹屋(笹屋の主人は代々清右衛門といった)は揚屋であったから大石は置屋から浮橋を招いて遊んだものと思われる。初めのうちは、歌を作ったり落書きしたり、あるいは杯を作ったりして、いかにも風流であったが、日がたつにつれ乱行めいてきた。もうそのころは妻子を実家の但馬へ帰し、長男松之亟(15歳、元服して大石主税)だけを手元に置いていた。この間の事情を妻子がいると討入りのさいの足手まといになり、また妻子に類を及ぼしては、との配慮からという。が、そのころの世間の口は「妻がいては十分遊べないから」とか「妻が良雄の道楽をきらって帰った」など、いろいろとウワサされた。しかし、これもあとで考えれば、世間が大石の計略にかかったといえる。やがて大石は白昼に女をつれ、雑踏の京の町を酔い歩いては、ところ構わず寝込む。この姿を見た京わらべたちが「赤穂で悪うてあほう浪人大石軽く張抜き石」と悪口をいったのは有名である。ついには同志までが疑いの目を向け、短慮の奥野将監は笹屋へきて大石をいましめたが聞きいれられない。憤慨した奥野は大石から離れていった。小山田源左衛門もあいそをつかす。かくて、そのころ125人にふくれ上っていた同志が次々と脱落して行ったのである。のちに吉良方の間者のめをごまかすたの遊興といわれているが、笹屋には、そういう種類の人間が出入した記録はない。「笹屋のお大尽」大石は、女どもに「うきさま」とイキな名で呼ばれた。これは浮橋のヒザをまくらに口ずさんだ自作のうた「里げしき」のなかにとあり、このの「うき」からきたのであろうとも、また彼のお気に入りの女「浮橋」の「うき」からきたという。大石はこのほか山科から伏見までの通い道で、気に入った景色を自分の座敷の欄間に彫らしたりして討入までの短い時間を楽しんだ。この大石にも笹屋をあとにするときが迫った。江戸へ下る少し前、二階の座敷で酔って碁盤(コタツともいう)を踏み台にして、格天井に書き残したのが「今日亦逢遊君、空過光陰、明日如何、可憐、恐君急払袖、帰後世人久不許、逗留不過二夜者也」の一文。ここに大石の自ちょうと決意がほのめかされている。その後江戸へ下った大石らは、吉良邸の討ち入りを敢行、赤穂義士の名は天下に伝わった。世が花の元禄といわれる平和な時代だったからかもしれない。やがて笹屋の格天井に書かれた一文も人気のまととなり、天明元年(1781)には、この天井を取りはずしてびょうぶのように仕立て、諸国に持ちまわり見せ物とした。その後この天井は大阪の某家に流れて伝わっているという。この撞木町も、大石が遊んだころにくらべると年々すたれた。安永元年(1772)のころは、まだ数軒の廓があり、芸姑も数十人いたというがやがては全くの草原となったとある。その後、再び廓として復活し、戦後の売春防止法施行まで火をともしていた。だが、大石良雄が遊びに行かなければ、ごくありふれたちっぽけな花街にすぎなかっただろう。このあたりは昔から何度も焼け出され、当時の面影は薄い。一昨年亡くなった

前主人が、大阪にあった「天井の落書き板」を取り戻しているのと、赤穂藩を象徴する「浅野鷹羽」の紋入り瓦が残っているくらいである。参考

 

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石碑 前回の記事 ➡  石碑伏0089  伏見・橦木町廓入口  赤穂浪士・大石良雄も通った

 

川柳

 

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