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アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

桂川連理樹の史跡

2015年10月06日 22時02分36秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

桂川連理樹の史跡

宝暦11年(1761)4月11日 (この場所より50メートルの川岸)の朝、男女の溺死体が浮かんだ 

身元をたづねると、京は柳馬場押小路の虎石町、信濃屋の娘と帯屋の主人であった。

ここがその後浄瑠璃や歌舞伎で広く世に喧伝された

桂川連理柵の主人公 お半・長右衛門の悲恋物語の場所である。

 露の命の置所 草葉の上と思えども

義理にしがらもこの世がら

刃では死なれぬゆえ

桂川へ身を沈めるがせめてもの言訳と

お半を背に一足毎に水の中へ

 

現在でもお半長右衛門といえば中年の男と幼い娘との思案の外の恋の代名詞の様に語りつがれている

その後郷土の先人がこの二人の物語りをあまりにも哀れにこの塔塚を建立したのであるが、

合わせて桂川水防の碑として長らく守られて来た。

なお、この塔塚については、子供の病に効能ありとして、広く信仰の対象にもなっていた。

昨今はなはだしく荒廃埋忘していたのをこのたび地元の有志方々の努力によって

ここに新しく移しかえられたものである。 昭和61年11月吉日

お半・長右衛門  法華塔保存会

 

関連記事 ➡ お半の過去帳がある寺   墓は誓願寺

 

すぐ横で咲いていた花       

オシロイバナ

 

イヌタデ

 

ツユクサ

 平成27年9月26日 撮影


山本亡羊読書室旧蹟 江戸時代の植物学2万巻の資料が保存されている

2015年10月05日 06時13分09秒 | 史跡・旧跡

 

贈正    五位    山本亡羊読書室旧蹟

昭和六年八月 京都史蹟会  

山本亡羊(1778~1859)は京都の本草学者。薬草園を備えた読書室(学校)を開いて門弟の養成にあたった。

この読書室は儒医である父封山が,西本願寺文如上人(1744~99)の学問所を下賜されて

開いたものであったが,禁門の変(1864)で焼失した。この石標は山本亡羊の読書室跡を示すものです。

 

江戸後期に本草学者として活躍した山本亡羊の邸宅(読書室)です。

亡羊は名は仲直、通称永吉 安永7年(1778)儒医山本封山の次男としてここで生まれた。

小野蘭山について本草学(植物学)を学んだ。

蘭山が幕命で江戸に下向後は京都の本草の中心となり、

邸内に薬園を設け、内外の薬草を栽培し、また自宅で物産会を催すなど医薬会の発展に貢献した。

亡羊が講習所とした「読書室」は、今は家の名となっているが、

もとは父封山が西本願寺の18世文如上人の学問所の一宇(読書室)を賜ったもので、 

蛤御門の変で類焼した。今のはその後の再建。

2万巻に及ぶ蔵書は、多くの標本類とともに今なお保存されている。

亡羊は安政6年(1859)11月27日、82歳の高齢で亡くなった。

亡羊の子は父の遺業をついで一家をなした。

墓は深草の宝塔寺にある

 

 


源融 河原院跡

2015年10月04日 22時03分50秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

源融 河原院跡

源融とは嵯峨天皇の皇子であり、源氏物語の光源氏のモデルと言われている人で、

宇治の平等院のそばにも別荘(別業)をもっていた。

この左大臣 源融公が、摂政 藤原基経の台頭により隠棲した邸第「河原院」が、

このあたり東西・鴨川の中央あたりから西へ柳馬場通、

南北・五条以南正面通あたりまでの大邸宅であった。

この榎の大樹はこの邸内にあった森の名残といわれる。

 

すくそばには、小さな社と鳥居があり榎大明神がまつられている。

この榎はその神木として崇められ、平成12年には、京都市の「区民の誇りの木」に選ばれた。

また、この河原院の名から河原町という通り名が生まれたといわれている。

平安朝の初期には、この院の庭内の林泉に鴨川の水を引き、

「殿舎・楼閣」をその間に点在させて風流を極めた生活がなされていたとのことで、

源氏物語 第一部 最終章「藤裏葉」では、

冷泉邸・朱雀院がこの河原院を訪問するところが描かれ「六条院行幸」という場面が出てくる。

なお、朱雀院は光源氏の兄弟として描かれている。

また、この邸宅の中にあり、元は歓喜光寺の鎮守社であった天満宮と歓喜光寺とが一旦合併し、

今の錦天満宮に移り、その後、明治の神仏分離で寺は東山五条(現在は山科大宅)に移築されている。

富小路五条下ルにある上徳寺辺りは、

その昔、陸奥塩竃の風景を模して造られた邸内の池が在った所といわれる。

現在の町名、本塩竃町は錦天満宮の末社で源融公を祀るという塩竃社に由来しているといわれる。

 

菊浜高瀬川保勝会

京都市

 

平成22年 鳥居に書かれています

 

 

中を見ました  石鳥居があり  木の上に 御神体らしきものが 鎮座してあります

 

この祠の裏手に回って見ました

 

お地蔵さんの祠もあります

この地の町名は 都市町(といちちょう)といいます

鴨川に面しています

 

サギが魚を狙っているのでしょう

 

向こうの橋は 正面橋

  六条河原 付近を 見る

 


高瀬川 船廻し場  高瀬川を静かに味わうなら このあたりです

2015年10月04日 07時06分07秒 | 史跡・旧跡

 

昭和8年の建立です

 

高瀬川船廻し場跡

豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方広寺(大仏殿)を

建立したとき、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、

伏見の港から京へ搬入するために、天正14年(1586)、当時の豪商・角倉了以に命じて、

御土居の外に沿って掘らせ、慶長19年(1614)、現・一之舟入(二条)から

伏見まで息子素庵と共に開通させた水路(運河)が高瀬川である。

その後、この高瀬川は、京に米・材木・薪炭・などの他、日常雑貨なども運び込む

大切な通路として、大正9年(1920)まで使われていた。

 

当時使われていた高瀬舟「舟兵」は、水深の浅い川に合わせた船底の浅い平らな舟で

急流を荷を積んで乗り切れるように「高背」即ち舟べりが高くつくられていた。

このような舟で5、6隻一度に14、5人の船頭たちが

両岸に作られた普通の道より一段低くなった綱場を、

ホーイ、ホーイと掛け声をかけながら背に架けた綱でひいて上がってきた。

当時この辺りの川幅は、9メートル余りあり、

岸は砂浜のようになっており船廻し場となっていた。

また、ひと・まち交流館東南角の菊浜区民会館当りに回漕店があり、

ここから上流六条坊門(五条)にかけての舟繋ぎ場には、

いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたと言われる。

 

五条~七条間に架かる橋は、人が橋の下を綱を引いて通れるように

門樋橋(榎木橋)・七条小橋などみな高くしてあり、

六軒橋・上の口橋は階段式(十段ほどの石段)と成っていたため、

人は渡れても車は渡れなかったし、

正面橋は橋までが急な上り坂に成っていたため、

材木などを積んだ車などは、両側から綱をつけてまだ後ろから

人が押してわたっていたとの事である。

 

尚、この川に因んだものとして木屋町通り・(大仏)正面通り・

梅湊町・富浜町・納屋町・材木町などの通り名や町名があり、

当時正面通り木屋町東には米の取引所が有り、その「米浜」と言う名が郵便局名として残されている。

菊浜高瀬川保勝会・京都市

高瀬川を静かに味わうなら このあたりがいいと思います

 

 

平成27年9月15日 撮影


伊香詰所  参詣者のお宿  天明の大火より237年

2015年09月29日 17時22分18秒 | 史跡・旧跡

伊香詰所の由来

当詰所は今から220年前(1778)都に大火災があり、本願寺と共に被災しました。

当時第19世乗如上人は、諸国へ再建のため巡行され、そのご努力により再建の運びとなり、

近隣近住は、もとより、全国の信徒が、故郷を離れ11年もの長き間、本山再建に、ご奉仕され、

滋賀県伊香郷の私達 先祖も老若男女を問わず御奉仕されました。

その当時の宿泊所が現在の詰所の言われであります。

 再建工事完了の後、達如上人は特に湖北三郡の門徒衆の厚い奉仕の心に打たれ

乗如上人のご寿像と御書並びにこの詰所を下賜され佛恩相続を願われたのであります。

この詰所も時代の流れと共に、広く一般の方にも、ご利用ご愛顧いただいております。

本山、報恩講には、多数の信徒が参詣され、我家同様に宿泊できる、

ふれあいの場として、愛され、ご利用いただいております。

なお、以前の建物は万延元年に火災類焼し、ただちに門徒の方々の、

木材、金品労力やご寄付により再建されました。

しかしそれも築後約150年を経過し、老朽化のため、現の建物を建築したものであります。

これからも私達は、佛恩を報じ、先人への報恩の念怠ることなく、

この由緒ある詰所を守り続けてまいります。合掌

平成18年4月吉日  伊香詰所

 

 


本願寺 太鼓楼  

2015年09月21日 19時44分02秒 | 史跡・旧跡

新選組ゆかりの地

 

 

現在、本願寺境内の北東隅に建つ太鼓楼は、旧来より時刻を報せ、

法要の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築です。

太鼓は、山科本願寺において使用されていたことが知られており、

江戸時代初期には境内の南東隅に太鼓を吊るした建物があったようです。

その後、大火による焼失などを経て、現在の太鼓楼は寛政元年(1789)に建築されたものです。

建築時に新たな太鼓が備えられることになり、内部には2つの太鼓が現存しています。

なお、古い太鼓は、胴部がツツジの木で作られたものとして著名で、

奈良の西大寺の遺品と伝えられています。  本願寺

 

新選組ゆかりの地

新選組は「池田屋騒動」(元治元年(1864))以降隊士が増え、

壬生の屯所では狭くなったこともあり、慶応元年(1865)3月10日、屯所を壬生から本願寺に移し、

境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北東にあった北集会所と太鼓楼を使用しておりました。

本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊王攘夷運動のなかで

幕府と対立していた長州藩士たちが、何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、

新選組は本願寺の中に本拠を移すことによって一石二鳥の効果をねらったものでした。

新選組は、境内で大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、

乱暴を繰り返したため参拝の門信徒や僧侶らを震撼させる毎日であったそうであります。

新選組の活動期間は6年ぐらいであり、大部分が暗殺されていった中、

結成時からの元隊士、島田魁(さきがけ)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、

終生お念仏を喜びながら太鼓番をしたという話が伝わっております。

明治6年(1873)、北集会所は姫路市の(亀山)本徳寺に一部移設されたため、

現在の本願寺に新選組の足跡を見るのは太鼓楼だけです。

関連記事  ➡  新選組 ゆかりの地  

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角屋 ・ 角屋もてなしの文化美術館

2015年09月18日 07時25分43秒 | 史跡・旧跡

 

 

角屋(すみや)

角屋は江戸時代に繁栄した旧花街・島原を代表する揚屋(現在の料亭)で、

明治時代に御茶屋業に編入された後も、昭和60年(1985)まで営業が続けられた。

島原は、我が国最初の官許の花街で、当初は二条柳馬場に開かれ、

その後、六条三筋町に移転し、更に寛永18年(1641)にこの地に移された。

正式な地名は西新屋敷というが、急な移転騒動が、当時の九州で起こった島原の乱に似ていることから、

島原と呼ばれるようになった。

鷹ケ峰・常照寺の花供養や帯祭には、太夫道中が行われる。

島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切抱えず、

置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場であった。

角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として昭和27年(1952)に重要文化財に指定された。

また、円山応挙・与謝蕪村など、当時の一流画人の作品を多く蔵し、

蕪村の大作「紅白梅図」は重要文化財に指定されている。

江戸中期には、俳壇が形成されるなど文化サロンとしての役割も担い、

また、幕末には西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王の志士たちが、

軍用金調達のために時の豪商を招いて会議を行い、

彼らを探し求めた新選組が乱舞した場所でもあった。

こうした江戸時代の社交遊宴文化の余香を今に伝える角屋は、

現在「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開されている。

 

因みに芹沢鴨は、

文久3年(1863)9月18日に角屋で行われた新選組局長クラスの宴会に出席し、

その夜屯所で暗殺されました。

 

 

新選組 刀傷の角屋              

長州藩志士  久坂玄瑞の密議の角屋

 

平成27年9月17日 ニュース

新選組の筆頭局長を務めた芹沢鴨の法要が暗殺の現場となった八木邸で16日に営まれた。

芹沢は文久3年(1863)9月に暗殺された。

ドラマ「新選組血風録」で出演した栗塚旭さん(78)も焼香した。

  関連記事 ➡ 新選組 ゆかりの地  

 

 


京の大仏さん  幾多の災難・苦難にあってきた 再興なってほしい

2015年09月09日 06時22分35秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

方広寺大仏殿跡・京都の大仏さん

天正13年(1585)、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、

東山東福寺の近傍でその工事を始めます。ほどなくこの工事は中止されますが、

六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、

高さ18mの木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。

ところが翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3年(1598)には秀吉もこの世を去ってしまいます。

その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、

途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、

慶長17年(1612)に大仏を事実上完成させました。

しかしその後鋳造された梵鐘の銘文 「国家安康 君臣豊楽」が徳川家を呪詛するものであるとして

徳川井家康が異議を唱えたために大阪の陣が起こり、

豊臣氏が滅亡してしまったことは歴史上大変有名です。

その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798)に落雷で炎上するまで、

「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。

巨大な石類(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、

規模は南北約260m、東西210mと推定されます、大仏殿は回廊で囲まれ、

西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていました。

仁王門跡から西へのびる道が正面通りと呼ばれることも方広寺に由来しています。

なお、「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会である方向会(ほごえ)にちなむといわれています。

大仏殿跡緑地

かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、

その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。

現在の緑地はその中心部分にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための

部分的な発掘調査が実施されました。

調査の結果大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m、東西約55mという、

現在の東大寺大仏殿をしのぐ壮大さであったことがあらためて確認されました。

発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、

小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。

 

秀吉は天正13年(1585)全国統一の基礎を固めると、

東大寺にならって大仏殿の建立を計画し、翌年5月この地で起工した。

「太閤記」によると東大寺は20年で造営したが、秀吉は5年で造ると豪語し、

総監督に前田玄以をあて、奈良の大仏師・宗貞・宗印を召し、

時間短縮のため、木像の廬舎那仏を造らせた。

人夫は近畿から、鉄は「刀狩」で没収した刀剣から、巨石は秀吉配下の諸侯から献上させた。

文禄4年(1595)に9年の歳月を費やして竣工した。

この時の大仏殿は南北(桁行)45間、東西(梁間)27間、棟高25間、

左右四方に廻廊をめぐらした。廬舎那仏坐像は高さ16丈であった。

9月25日、落慶法要が行われた。

1度目

慶長元年(1596)7月12日  大地震で大仏殿は倒壊。大仏は大破した。

 

2度目

慶長2年(1597)  信濃国善光寺の本尊阿弥陀如来像を移して代わりの本尊としたが、

残暑が厳しいというのににわか雪が降り、寒さは人の肌をさすという気候の異変を生じたので、

世人は如来の祟りだとおののいた。よって翌慶長3年(1598)信濃に返還された。それは秀吉の亡くなる前日であった。

 

3度目

大仏の再建は秀頼によって受継がれた。慶長7年(1602)12月4日

、誤って銅造大仏の腹中より火を発し、仏殿と共に焼亡した。

4度目

慶長15年(1610) 徳川家康の勧めもあって再び起工。慶長17年(1612)3月に竣工。

この時の大仏は高さ6丈3尺の金銅製の巨像で、仏殿の規模も以前の通りであった。

慶長19年(1614)8月3日に開眼供養の予定であったが、

銅鐘の「国家安康、君臣豊楽」の家康呪詛の事件が起こり、

その後大阪冬・夏の陣へとなり豊臣氏の滅亡につながった。

このとき、家康は照高院門主の当寺の別当職を罷免し、

代わりに妙法院門主を当ててその付属寺院とした。それより寺運は衰退した。

5度目

寛文2年(1662)の地震で大仏が破壊した。幕府は、黄金を以て像を造るのは無益だといい、

大仏を木像に改めた。旧像は溶解して寛永通宝(大仏銭)に改鋳した。

6度目 

寛政10年(1798)7月 雷火によって、堂宇とともに大仏は焼失した。

7度目

天保14年(1843) 尾張国の有志が旧大仏の10分の1の木像を寄進し、

これを仮本堂に安置した。しかし、昭和48年(1973)3月28日の夜、

失火によって焼失した。その後は再興されることなく本堂跡は駐車場となっている。

 

地震・雷・火事・おやじ(徳川家康)のすべての災難・苦難に遭遇してきた。

往年の大仏殿の再建はかなわないのだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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耳塚(鼻塚)  戦功の証として首のかわりに鼻や耳を塩漬けにして持ち帰った

2015年09月08日 10時42分47秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

耳塚(鼻塚)

この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、

朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598)

にかかる遺跡である。秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、

朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。

それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。

これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。

 

 

「耳塚(鼻塚)」は史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、

塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古地図にみとめられ、

塚の築城から程ないころの創建と想われる。

秀吉が惹き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の強い抵抗によって敗退に終わったが、

戦没が残したこの「耳塚(鼻塚)」は戦乱化に被った朝鮮半島の受難を、

歴史の遺訓として、いまに伝えている。     京都市説明板

 

 

 

 

この石碑の内容は 不明

 

 

石柵は往年の芸能人によって寄進された。

先代・中村鴈治郎、中村扇雀、井上正夫、曾我廼家五郎、桃中軒雲右衛門らの名が刻まれている

 

それらしき 石柱柵は

 

中村扇雀        中村鴈治郎 

 

松本幸四郎        市川猿之助

そのほかは 文字が判別しにくく、役者に詳しくないので割愛します

名前入りの石柵は全部で 81本ありました。

 

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まち歩き下1422 仏師・定朝らの仕事場だった 平等院の阿弥陀如来坐像はここで造られ、舟で宇治まで運ばれた

2015年09月04日 06時17分22秒 | 史跡・旧跡

2015年9月4日の記事

七条仏所跡(しちじょうぶっしょあと)

この地は、平安時代中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)定朝をはじめ、

その一族・子弟・子孫が長く居住して彫刻に励んだ「仏所」のあった所で、

「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていた。

定朝は、平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で、

「和様」と呼ばれる優れた彫刻様式を完成したほか、

卓越した技術によって僧綱位の法橋を与えられ、

仏師の共同組織として仏所の制度を整えるなど、仏師の社会的地位の向上に努めた。

 

これらのことから、定朝は我が国における仏師の祖と仰がれている。

鎌倉時代に入って、この部所から運慶・湛慶・快慶らが相次いで現れ、

剛健な、また写実的な多くの名作を世に送った。

しかし、室町時代に入って、彫刻は全体としてふるわず、

この仏所も21代康正のとき四条烏丸に移転した。

その後、幕末の兵乱で火災に遭い、仏所の遺構は完全に失われた。(京都市 駒札)

 

 

 

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「五摂家」の二條家邸跡の地下通路と井戸

2015年08月27日 10時35分26秒 | 史跡・旧跡

二條家邸跡

江戸時代、現在の京都御苑の天皇の居所である内裏(京都御所)を中心に

宮家や公家が集住いる空間(公家町)でした。

今出川通の北側にも屋敷が並び、

当地(同支社女子大学東半分)には二條家が広大な屋敷地を構えていました。

二條家は藤原氏を祖とし「五摂家」の1つとして朝廷内では格式の高い家柄にあたります。

 ここに展示した礎石は、女子大学構内の発掘調査(2007年度)で出土したもので、

かつてあった二條家邸の存在を今に伝える貴重な遺産です。

当時の情景に思いを馳せながら、

京都公家社会の息吹を少しでも感じていただけると幸いです。説明板より

幕末期の二條家当主である二條斉敬(1816~1878)は、孝明天皇の関白、明治天皇の摂政となり、

朝廷での重要な舵取りを担った。

彼を訪ねて会津藩主松平容保を始め、将軍・諸大名が数多く屋敷に通っている。

移築した井戸は幕末動乱の中、歴史上重要な二條家屋敷にあった遺構として、

その当時をうかがい知る好資料といえる。

 

二條家邸(江戸時代中期)検出の地下通路

2014年度の新校舎建設に伴う発掘調査で、江戸時代中期の石組の地下式通路を数基確認し、

その1つを移築した。

近世における屋敷図等には「下々道」と記載されるものであり、

この遺構の上部には渡廊下が設置されていたと推測される。

数基の地下式通路は渡り廊下の位置を示しており、

複数の建物が渡り廊下によって接続される上級の公家屋敷であったことがわかる。

二條家が公家の筆頭五摂家であることを感じさせる考古学的に貴重で重要な建築遺構である。

 

 

 

井戸の検出

2014年度の発掘調査で検出された井戸。幕末期の二條家邸で構築された井戸数基のうち1基を移築した。

井戸の深さは、約2.5mであるが、安全を考慮し60㎝に留めて保存を行った。

 

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本阿弥光悦京屋敷跡 58歳までこの地に暮す

2015年08月26日 07時11分57秒 | 史跡・旧跡

本阿弥光悦京屋敷跡

この地は足利時代初期より、刀剣の研ぎ、拭ひ、目利きのいわゆる三事を以て、

世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡として、「本阿弥辻子」の名を今に遺している。

その本阿弥家歴代の中にあって、日本の芸術史上に著しい光彩を放っている光悦は、

永禄元年(1558)実にこの處に呱々の声をあげたのである。

光悦はその家業の三事において、達人の名をほしいままにしたが、

彼の天成の高雅な芸術的人間性は、特に書道に、かつ茶道に、

気韻あふるる富麗清逸の美的境地を聞き、天下の数奇者の敬仰をあつめた。

光悦は元和元年(1615) 58歳、徳川家康から洛北鷹峰に地を与えられ、

寛永14年(1637)、その80歳の生涯を終ふるまでの晩年を、

鷹峰に風流の生を送ったが、

彼の壮んなりし58年の前半生は、ほかならぬ此の地にあって、

家業にいそしむと共に、芸に遊び風月を楽しむ日常を過ごしたのであった

上京区文化振興会書

 

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伊藤仁斎宅(古義堂)跡  家は燃え再建だが蔵は当時のまま残る

2015年08月01日 10時42分47秒 | 史跡・旧跡

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江戸初期の漢学者、伊藤仁斎の住宅で、仁斎の学問にちなみ古義堂と称する。

現在の建物は明治23年に遺構をもって再建したもので、2階建て、

土蔵造りの書庫は仁斎在世当時のものである。

仁斎は寛永4年(1627)ここに生まれた。

父了室は篤学の人であり、母は連歌師里村紹巴の孫にあたる。

仁斎は初め朱子学を修めたが、後にこれを排して古義堂を唱え、

寛文2年(1662)から宝永2年(1705)79歳で没するまでの約40年間、

私塾を開き教授に努めたので、

仁斎、東涯の学派を堀川学派、古義学派と呼んで名高く、

全国各地から堀川の流れを慕って学徒はここに集まった。

子孫は永く学派を伝え、

寛文2年(1662)から明治39年(1906)に至るまで実に244年に及んだ。

 

墓所は 二尊院

 

 

 

儒者伊藤仁斎(1627~1705)は,自邸に古義堂と名付けた塾を開き,

上層町衆の子弟や武士などを対象に講義した。

古義堂は堀川学派の拠点となり,代々伊藤家の家塾として存続した。

この石標はその邸宅と塾跡を示すものである。

大正11年に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され,

現在は「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国指定史跡

 

西 史蹟伊藤仁斎宅古義堂阯並書庫

南  史蹟名勝天然紀念物保存法二依リ

   大正十一年三月内務大臣指定

北                   大正十三年九月建設

 

蔵の一部が写っています 当時のままのです

伊藤仁斎手植えの松といわれています

 

古義堂の扁額

伊藤仁斎が寛文2年(1662)に創立した私塾の看板

この扁額は、元文3年(1738)に仁斎の5男の蘭嵎(らんぐう)が篆書(てんしょ)したものが

天明の大火で消失したため、文化元年(1804)に花山院愛徳の書によりつくられたもの。

古義堂の史跡は現在の建物は住居に改築されているが、二階建ての蔵だけは当時のもの

 

京都学校歴史博物館

 

 

 


高瀬川一之船入り

2015年06月29日 01時08分21秒 | 史跡・旧跡

高瀬川 最上流域です

船の先の右から 鴨川から取り入れた水が流れてきます

高瀬舟 森鴎外作品にもなっています

関連記事 ➡ 作品・高瀬舟の話の元 神沢杜口

 

 

伏見から北上するときは 船引の人が ひっぱっていました 

 そんな古い写真を見たことがあります 大正9年まで 使われていた。

 

 

 

この柵の向こうは  こんな具合です

 

高瀬川を上る船  川沿いの道で船を押す人が写っています

樹木をてこの支点に使っています

綱で引っ張っている人もあるのかな

 

 

角倉了以  墓は 二尊院

角倉素庵  墓は 化野念仏寺

 

 

 

 


桂小五郎・幾松 寓居跡

2015年06月28日 07時27分42秒 | 史跡・旧跡

木戸孝允(1833~77)は,桂小五郎といった長州藩士時代,

花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり,

時に新選組に追われながら苦難の時代を過ごした。

両人は鴨川西岸に住み,蛤御門の変のあとには新選組に追われて,

幾松の機転で助かったこともあると伝える。

幾松は維新後木戸公夫人松子となり,

明治10(1877)年夫を亡くした松子は

剃髪して翠香院と号し京都に住まいし,明治19(1886)年44歳で没した

幾松は天保14年(1843)福井県に生まれた。本名は計

9歳で舞妓になり14歳で幾松(2代目)を名乗る

桂小五郎と知り合ったのは20歳前後らしい

 

 

 

 

 

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