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アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

小堀遠州屋敷跡  町の郷土史家からの発信

2015年11月09日 07時58分35秒 | 史跡・旧跡

 

 

この付近 小堀遠州屋敷跡   二条城から南へ徒歩10分

小堀遠州は小堀遠江守政一と言い、天正7年(1579)近江国坂田郡小堀村・

現滋賀県長浜市に生まれた。

遠州は徳川初期三代に仕えた幕閣の一人であり、

京都代官・伏見奉行・作事奉行として大いに活躍した。

特に作事には早くから参画し、

駿府城・伏見城・二条城・仙洞御所・桂離宮・大徳寺狐蓮庵・南禅寺金地院などの

造営に携わり、卓越した才能を発揮した。

また、遠州は茶人としての名声も高く、

千利休・古田織部・小堀遠州と続く茶道の本流を受け継ぎ今日に伝わっている。

寛永3年(1626)後水尾天皇の二条城行幸に際しては、

行幸御殿並びに庭園の造営に尽力し、行幸行事の全ての室札・繕部の総指揮を勤めた。

この行事は天皇家との姻戚関係の成立による

徳川家の威光を天下に知らしめる歴史的大行事であった。

本屋敷は六角越後町屋敷とも言われ、伏見屋敷・長妙寺屋敷と共に、

京都周辺の小堀家所有屋敷の1つである。

行幸の前後には大名・公家・旗本など多数の人々を招いて、

遠州主催の茶会が二条城に近い本屋敷で再々とり行われた言われている。

当時茶会は政治的意味合いも深く、この界隈は政治の一大中枢であったと思われる。

遠州から数代後の伏見奉行小堀和泉守政方の時代(1785)に伏見騒動が起り、

小堀家は失脚御役御免・領地没収となるが、本屋敷は小堀家所有として存続する。

文政13年(1830)に到り、本屋敷を町人に売却することになるが

その時の行政手続はすべて町中で行っており、

屋敷売買に関する文書は今も現存している。

遠州辞世

昨日と云い今日と暮らしてなす事も浮身の夢の醒める曙

平成22年2月22日  越後突抜町

小堀遠州ゆかりの地 ➡  人物006  小堀遠州   

 

 


茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡

2015年11月08日 13時38分30秒 | 史跡・旧跡

 

茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡

近世初頭、朱印船貿易商・糸割符商人として活躍、徳川家康の側近として

政権確立に大きな役割をはたし、京都商人総筆頭として、

角倉・後藤とともに京都三長者と称された茶屋四郎次郎清延の屋敷跡。

清延の三男新四郎長吉は天正14年(1586)上洛した家康に

茶屋屋敷ではじめて謁見したが、のち当屋敷を譲られる。

天明8年(1788)京都大火で類焼した。

茶屋家は本名を中島氏といい、中世の名門小笠原貞興の子孫といわれる。

清延の父明延は京都に住み、将軍足利義輝が訪れて

茶を喫したことから茶屋の屋号が生まれた。

新四郎長吉は慶長19年(1614)家康の命で尾張徳川家に仕え、

尾州茶屋家を創立、本家同様幕府呉服師を拝命する一方

尾張藩主に近侍しその召服御用を勤めた。

尾州茶屋家は安南貿易でも活躍、名古屋の茶屋町に広壮な邸宅を営み、

江戸にも数カ所の屋敷を拝領、別格で高貴な家柄を誇った。

当地は明治4年(1871)まで尾州茶屋家が代々所有していた。

 

百足屋町町内会 公益財団法人南観音山保存会

 

 関連記事 ➡ 茶屋四郎次郎邸宅跡 石碑

 


八橋検校 道場の跡

2015年11月05日 10時42分41秒 | 史跡・旧跡

 

八橋検校 道場の跡

このあたりは、筝曲「八橋流(後の生田流・小西流)」の創始者として、

近代筝曲の祖と言われる八橋検校(慶 19年~貞享2年)の道場があった旧跡です。

三絃の名手、八橋検校は20歳ころより筑紫  学び

26歳で当道の最高位「検校」につき、

晩年をこの場  曲家として、筝と三絃の道場を開きました。

平調子といわれる新しい憂いほ含んだ響きの音階を考案し、

その代表作品として「八橋の13組」「六段の調べ」「みだれ」を作曲し

今も名曲として引き継がれています。

目の不自由な八橋検校し耳の不自由なベートーベンの名曲は,

洋の東西を問わず不滅の光を放っています。

八橋検校は、子の道場で数多くの門人を養成し、武家や町衆はもちろんのこと、

島原を始め鴨東の花街に筝と三絃を広め、その感動は今につながっています。

 


小野小町のゆかりの化粧橋

2015年11月02日 09時30分45秒 | 史跡・旧跡

 

門を出てすぐの天田川にかかる橋は、化粧の井戸から流れる化粧水にちなんで化粧橋といわれている

小町を思い起こせるような橋とは思えません 

関連記事 ➡ 随心院・小町寺


亀山稲荷神社  亀山藩京屋敷跡

2015年10月30日 17時49分05秒 | 史跡・旧跡

 

丹波国 亀山藩京屋敷跡

中野之町 亀山稲荷神社

江戸前期に当地は、間口11間、奥行30間の芸州広島藩42万石、浅野氏松平安芸守の京屋敷で、

その後1730年頃、丹波篠山藩5万石、形原松平紀伊守信岑(みね)の京屋敷となる。

信岑は寛延元年(1748)丹波亀山藩5万石に転封になる。

以降歴代亀山藩主は幕府の要職に就き、

京都火消役にもなり譜代大名として京都監視の重責を果たした。

新政府となった慶応3年には京都市中取締役を務め、

明治2年版籍奉還の時に藩名を亀岡と改称した。

明治3年2月当京屋敷は民有地となる。

明治7年にはこの京屋敷3棟は、稲荷焼で類焼した修徳小学校の仮校舎にも使用された。

明治25年京都市第2高等小学校校舎の建設時まで存続した。

亀山藩京都松原邸の鎮守の神として祀られていたのが亀山稲荷で、

祭神は白瀧大明神と花月大明神である。

昔は両祠があり、江戸期より衆人に尊崇され亀山講も存した。

明治以降は中野之町が奉祀する。

大正5年の旧亀岡藩士族有志の碑も存する。

往時より正月祭、初午祭、火焚祭を執行する。

その霊験は諸厄除災、商売繁昌、家庭円満に灼(あらた)かと伝える。

中野之町

 

 

石鳥居は大正11年2月の建立

石標は大正5年3月の建立  亀山藩士族の建立

手水舎

 

 

 

祠の土台に謎の穴

 

こちらにも 祠の土台に謎の穴

 

 


擁翠園

2015年10月24日 17時07分40秒 | 史跡・旧跡

 

 

室町幕府第3代将軍 足利義満の菅領細川満元

応永年間この地に金閣寺造営の余材をもって邸宅林泉を築く

 応永33年(1426)満元の没後この邸宅を岩栖院と称す。

慶長15年(1610)徳川家康が岩栖院を南禅寺に移して

この地を後藤長乗(彫金師)に与える 

長乗は加賀の前田利常小堀遠州の助力を得て「擁翠園」を造営し

後藤屋敷として名が知られるようになった。

庭園は琵琶湖を形どっている 

庭園には蓬菜島唐破風鳥居 船倉 キリシタン灯籠 名石 後藤ふじ などがあり

特に名木 白椿「欺雪」が名高い

寛文5年(1665)一乗関白兼香夫人が老後を養うため

生家の紀州徳川家から「浜御殿」を移築しこの地に住まわれた。

 

小堀遠州ゆかりの地  ➡  人物006  小堀遠州 

 

 


表千家不審庵

2015年10月24日 17時01分57秒 | 史跡・旧跡

 

茶道宗家表千家は、千利休豊臣秀吉から死を命ぜられた後、一家離散の憂き目にあったが、

その後、千家再興を許されて、利休の子少庵宗淳が大徳寺門前にあった利休の遺席をこの地に移し、

屋敷を構え、「不審庵」と号したのが始めである。

宗淳の子宗旦はその後を継ぎ、

正保3年(1646)には三男の宗左にゆずって隠居し、「今日庵」を営んだ。

この今日庵が不審庵の北裏にあることから「裏千家」とよばれ、

表の本家は「表千家」と称した。

現在の建物は天明の大火後の再建。

表門は紀州邸からゆずられたという重層門で武家構えの門である。

 


馬町 十三重石塔   京都国立博物館野外展示

2015年10月17日 07時35分31秒 | 史跡・旧跡

十三重石塔  馬町        京都国立博物館 野外展示

 

 

 

 

義経伝説 です

佐藤継信、佐藤忠信の墓と伝わっていた

 

 

 

 

手前の四角の芝生がないところは北塔の予定地か

 

 

 

 

関連記事 ➡ 義経・弁慶・源平物語


山科 琵琶湖疏水 トンネル出口 本日水量 少な目

2015年10月14日 13時20分12秒 | 史跡・旧跡

 

南禅寺 方面

 

 

川底がコンクリートで 運河ということがわかりやすいです

大津 方面

 

疏水沿いに きれいに 咲いていました

 

トンネル 出口  向こうから 水が流れてきます  本日は 水量ほとんどなし

 

 

近くの 民家の屋根には アオサギ でしょうか とまっています  やがて 飛んでいきました

 

 


太閤坦(たいこうたいら)  更新

2015年10月10日 19時09分35秒 | 史跡・旧跡

もと社殿のあった平坦地をいう。今は、拝殿と社務所・御供所等があるに過ぎない。

その北側には秀頼の子 国松丸墓、秀吉の側室京極竜子(松丸殿)の墓がある。

 

正面の観光バスの左の階段を上がったところが 太閤坦

 

奉納  戦捷紀念樹

 

明治38年

京都郵便局長・・・

 

石碑

 

碑文

明治31年4月

 

 明治31(1898)年,豊太閤三百年祭(没後三百年祭)が開催されたのに際し,

豊臣秀吉の「偉勲」をたたえるために建立された。

慶長4(1599)年に,秀吉に豊国大明神の神号が与えられ時の宣命から

「兵威を異域の水に振い恩沢を率土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)」の

十六字を刻している。


 建碑者久米民之助(1861~1931)は群馬県出身の土木建築家,実業家。

明治31年から同37年まで衆議院議員をつとめた。実業家五島慶太の義父。

 

石碑の裏

 

 

墓の横に建つ石碑

漏世公子及壽芳夫人遷墓記・・・・

明治44年10月

 

 漏世公子は豊臣秀頼の子国松(1608?~1615)のことで,法名の漏世院殿雲山智西大童子からとった称。

寿芳夫人は豊臣秀吉の側室松の丸殿(?~1634)のことで,法名の寿芳院殿月晃盛久からとった称。


 国松は元和元(1615)年5月8日の大坂落城のあと,家臣田中六郎左衛門と乳母の手によって逃れ,

伏見に潜居したが発見され,京都六条河原で処刑された。

祖母淀君のいとこでもある松の丸殿が哀れみ,国松を京都寺町の誓願寺中に葬った。

松の丸殿は誓願寺再興時の施主であり,

晩年は寺内に住んだことから自分の墓も国松の墓と並んで建てさせた。


 明治に至り新京極の開設など近辺の環境悪化を理由に,

明治44年秀吉ゆかりの現在地に改葬した。この改葬の経緯を記したのがこの碑である。

 

 


豊国廟  豊臣秀吉の墓所

2015年10月10日 16時57分30秒 | 史跡・旧跡

拝殿から廟まで63段の石段をのぼる。

この数字意味がありそうです。

5 63

中間の門までの石段の数は 63段ずつ  つ あります。

63は 秀吉の寿命の63の数と一致しています

 

 

63段ずつ 区切られています。 63段で少し平らな所が設けてある。

 

下を見たところ  拝殿の柱が見える

石段上り口で100円を入れる

 

 

 

63段ごとに すこし ひろい 処をもうけてあります

 

平成8年   NHK 大河ドラマ  「秀吉」 のオープニングの場面に使われています

 

昼間の門があるところまで 来ました

 

門から 下を見たところ

 

門の扉に彫られている 家紋

 

門から 上を見たところ  ここからは 石段の区切りがありません 

 

途中で 下を見たところ                      途中で  上を見たところ

 

頂上に着きました  秀吉の墓所です

とても大きな五輪石塔です

豊臣秀吉の廟所(墓所)である。天下統一を果たした秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、

伏見城で63歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、ここ阿弥陀ケ峰に葬られた。

翌年4月18日、秀吉は後陽成天皇より、正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、

山腹には境内域30万坪、秀頼は社領1万石を寄進した。壮大壮麗な豊国社が創建された。

以後、毎年4月と8月の18日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、

盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、

特に慶長7年(1604)8月、秀吉の7回忌臨時祭には

京都の民衆は挙げて「豊国踊り」をおこないも風流歌舞をなして廟前に群集したという。

慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、幕府は豊国社の廃祀を命じ、

その参道中央に新日吉神宮を移して墓参の通行を妨げた。

以後は墓参する人もなくなった。

現在の廟は明治31年(1898)、豊太閤300年祭に際し、黒田・蜂須賀等の旧配下の人々と,

豊国会により全国からの募金で整備されたもので、

そのとき墳上に高さ約10メートルの巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。

なお、豊国神社は明治13年(1880)、方広寺大仏殿の地に豊国神社として再興されている。 

戦前は秀吉も大いに礼賛されたが、今は訪れる人は少ない。

 

 

樹木の間から 街が見えます  ちょうど京都御苑 方面を見ています

関連記事  ➡ 有名人ゆかりの地

 


五条大橋 今 昔

2015年10月08日 07時47分34秒 | 史跡・旧跡

はじめ平安京の五条大路(今の松原橋)に架かっていたが、天正年間、豊臣秀吉が

その下流の六条坊門小路(今の五条通)に付け替えたのがこの橋の起こりで、

名もそのまま五条橋と称した、このため元の五條橋は松原橋と名を改めた。

もとは木橋であったが、市内と伏見をつなぐきわめて重要な橋のため、

正保2年(1645)石造に改造し、擬宝珠高欄付とした。

また鴨川の氾濫や寛文2年(1662)の地震などで破損したこともあったが、

その都度、公儀によって修理されたので、公儀橋とも称した。

昭和10年(1935)6月の鴨川の氾濫に五条橋も流失し、

擬宝珠の一部は大阪湾、淡路島沖に打ち上げられたことがある。

現在の橋は昭和34年(1959)3月の改修によるもので、

御影石の高覧、青銅の擬宝珠は昔の面影をとどめている。

 

正保2年(1645)の擬宝珠

 

 

すべての擬宝珠を撮影するのは次の機会にします

橋の西詰の北側の公園内に 昔の橋脚がありました

柱の下の方に暦が彫られていました

天正17年    1589年です  秀吉が付け替えたときの橋脚です

 

公園にごろごろ とある 橋の遺物らしきもの

 

五条橋から 松原橋を見る

関連記事  ➡  五条大橋の橋脚


扇塚

2015年10月08日 06時19分57秒 | 史跡・旧跡

 

 

扇塚の記

扇は平安時代の初期この地に初めて作られたものである。ここ五條大橋の畔は時宗 御影堂の遺跡であり

 平敦盛没後その室 本寺祏祐寛上人によって得度し蓮華院尼と称し寺僧と共に

扇を作ったと言い伝えられている

 この由緒により 扇工この地に集まり永く名産地として

広く海外にまでも喧伝されるに至った いまこの由来を記してこれを顕彰する 

 昭和35年3月15日 京都市長  高山義三