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アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

大村益次郎が襲撃された宿舎跡

2015年06月28日 05時52分50秒 | 史跡・旧跡

周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825~69)は,

緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。

のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。

農民や町人の兵式訓練の必要を説き,

第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行った。

新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力したが,

明治2(1869)年9月4日関西の軍事施設視察時に反対派浪士に襲われ,

11月5日大阪で没した。

この石標は,大村が襲撃された宿所の跡を示すものである。

なお碑文には「十番路次」と記すが,

当時の史料や大村の伝記には「二番路次」と記している。

   

大正拾五年四月   陸軍少将山口鹿太郎建之

関連記事 ➡ 遭難碑

 


舎密局・ オランダ語の 『化学』   跡  

2015年06月27日 21時58分22秒 | 史跡・旧跡

現在の 建物は  銅駝美術工芸高校

 

舎密局跡

「舎密」とはオランダ語シェミーの訳語で化学を意味する。この地は、東京遷都により沈滞した京都の産業を振興する目的で、京都における舎密局(理化学研究所)がつくられた場所で、明治3年(1870)、明石博高の建議により府知事・槙村正直が仮設立、同6年に完成した。受講生を広く募集し、ドイツ人ワグネルら外国人学者を招き、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)等飲料の製造、七宝、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及に努めた。また、本格的な理化学の講義は島津製作所創業者・島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きな役割を果たした。明治14年(1881)、槙村知事の転任によって閉鎖、建物も同28年(1895)に消失し、その後に銅駝小学校(現在は銅駝美術工芸高校)が移転してきた。 京都市

当時の写真

 

ドイツ人 ワグネル

 

平成27年6月17日  撮影

関連記事  ➡  府立図書館のワグネル碑

        人物045  新島 八重

               ➡  島津源蔵の言葉 だるま寺    


新島襄 旧邸  22歳の時アメリカへ密航した

2015年06月27日 14時10分50秒 | 史跡・旧跡

新島襄と妻八重の私邸  1878年(明治11年)9月竣工

和に洋を取り入れた建築様式 八重は亡くなるまでここに住む

 1932年6月  87歳  

大河ドラマの時は見物の人が多かったが

今は静かです

 

新島襄  天保14年(1843年)群馬県安中藩の江戸屋敷に生まれる。

22歳の時幕府の禁を犯してアメリカへ密航、

密航船の船主ハーディーの元10年アメリカで学び

大学を卒業、帰国後学校設立に力を注ぐが15年後に病死 

墓は永観堂 若王子山頂 同志社墓地にある

八重の墓も同志社墓地にある

 

 

 

 

 

 

H27.3.28 撮影 

 

「新島襄の写真」の画像検索結果                                                       「新島襄の写真」の画像検索結果  

 

関連記事 ⇒ 人物045  新島 八重


高瀬川の源流から木屋町へ

2015年06月26日 09時39分02秒 | 史跡・旧跡

鴨川から水を支流のようにして取り入れています

向こうの橋のすぐ下流にある 堰堤の左側が取水口

 

ここらでは、鴨川よりも上を川が流れています  高瀬川 源流です

 

 

今度は 上流を見ていたのと反対に下流を見ています  

 鴨川本流の右側を流れていますが 途中から 90度 右折します

 

途中で せき止められて 流れが 右になっているのが わかるでしょうか

 

 

木屋町通りまで 流れが来ると

 

大阪からの物資を運ぶ 水運を造りました

 


木戸孝允 ここで亡くなる、明治天皇も見舞いに訪れる

2015年06月26日 00時13分30秒 | 史跡・旧跡

 

 

維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,

鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。

明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を

京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,

木戸は同月26日に死去。

この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,

昭和18(1943)年京都市に寄贈され,

敷地南端部分に孝允が没した木造二階建て家屋が残る。

 

 

 関連記事 ➡ 各所にあります 明治天皇 行幸地 など

関連記事 ➡ 小五郎・幾松 寓居跡


山紫水明処  頼山陽

2015年06月23日 07時16分47秒 | 史跡・旧跡

 

道標

 

 

 

ここから 北へ100メートルほど行きます

 

 

 頼山陽(1780~1832)は,晩年邸宅をこの地に構え

『日本外史』、『日本政記』などの執筆活動に励み,詩会や茶会を催した。

43歳の時、邸宅水西荘の敷地内に建てた書斎は鴨川に面し,

東山を望む風光明媚な景観に因んで山紫水明処と呼ばれた。

頼山陽は天保3年(1832年)9月23日 53歳で亡くなった

墓は長楽寺にあります

水西荘はその後福井藩の儒医 安藤精軒が譲り受けたが、

明治に頼家の子孫によって買い戻された

大正11年に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され,

現在は「頼山陽書斎(山紫水明処)」として国指定史跡

 

 

 

 

 

 

 


立命館草創の地  木戸孝允・幾松の逸話の地

2015年06月22日 11時01分32秒 | 史跡・旧跡

 西園寺公望(1849~1940)の秘書官中川小十郎(1866~1944)は,

明治33(1900)年5月,法律・政治の二科を置く,

私立京都法政学校(立命館大学の前身)を開校した。

料亭清輝楼を仮校舎として講義が行われ,

翌年12月,広小路河原町の新校舎に移転した。

この石標はその仮校舎跡を示すものである。

なお清輝楼は,桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話

で知られる吉田屋のあとを受け継いだ料亭といわれ,

その後平成8(1997)年まで大和屋旅館として存続した。

料亭 吉田屋

昔 このあたりは花街だった


山名宗全 邸跡  6月21日 NEW

2015年06月21日 06時20分53秒 | 史跡・旧跡

 

 応仁の乱の 一方の陣雄

1467年~1477年

京の町は荒れ果てる

 守護大名山名宗全(持豊,1404~73.3.19)は,

室町幕府将軍足利義政(1436~90)の後継をめぐり,

義政と日野富子(1440~96)の子義尚(1465~89)を擁立して,

将軍の弟義視(1439~91)を担ぎ,

花の御所に陣を敷く管領細川勝元(1430~73.5.11)らと対立した

H27.6.21  NEW

山名、勝元が亡くなり戦火は下火になり、4年後には11年間も続いた大乱は終息した。

堀川通りの土木工事のとき、山名町付近の地下から幅、高さともに1メートル余りの横穴が発見され、

山名邸の抜け道だろうとうわさされたことがあった

 

 

 

関連記事 ➡ 日野富子の墓所

 


京都御苑内の閑院宮邸 跡

2015年06月14日 10時53分20秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 玄関

 

 

街中にあっても 静かだ 

 

 

庭が雨戸で遮られることなく眺められるように 雨戸に工夫がされていました 

 

 

 

 床 青もみじ

 

 野鳥を間近で見ることができます

 

中庭 

 

 

 平成27年6月7日 撮影

青もみじ  ➡  まち歩き左0815 5月の青もみじ


史跡 船岡山 

2015年06月07日 06時38分43秒 | 史跡・旧跡

 

本公園は,大徳寺の南に横たわる高さ112メートル余の小丘にある公園で,

その地形が船に似ていることから古来船岡と呼ばれ,

眺望が極めてよく,多くの史跡があります。


 船岡山は,大内裏の北にあたり御苑に近かったことから,

王朝時代には王候貴人の散策の地とされ,

円融天皇譲位の後は,この山に「子」の日の遊びが催されました。

その後,応仁の乱等の陣地となったこともあります。

明治13年には織田信長をまつる建勲神社

(公園区域外)が中腹に東面して建立され,その後山頂に移されました

 

階段の途中 右の家 ちょっと ユニークな屋根です 

下から 数えると 4階建てのようにも見えます

  町中の眺めも いいなあ

 


史跡北026  御土居 6

2015年06月06日 22時38分04秒 | 史跡・旧跡

 住宅街の中の御土居堀 

御土居の形状がわかりやすい

石仏は御土居から出土したもの

 

 

 御土居は、天正19(1591)豊臣秀吉が長い戦乱により荒廃していた京都を整備すべく都市計画を行ったとき、外敵の来襲に備え、その防塁として築いた土塁(土居)である。その範囲と構造は右図のとおりで延長は23㎞に及び、これによって京都は洛中と洛外に分けられた。多数の人々を動員して築造した御土居ではあったが、江戸時代になると、堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、やがて近代になると開発により次々にこわされ、北辺を中心に部分的に残存するのみとなった。ここ平野鳥居前町に残る御土居は、御土居の形状が良好に残っている部分であり、昭和5(1930)78日、市内に残る他の7ケ所とともに、京都の沿革をしるうえで、またわが国における都市計画の歴史・・重要な遺跡として国の史跡に指定された。なお、その後・・の境内の1ケ所が追加指定され、現在では9ケ所の御土居が国の史跡となっている。

 

関連記事 ➡ 秀吉が造らせた御土居堀


御土居堀  市五郎大明神

2015年06月05日 11時43分45秒 | 史跡・旧跡

市五郎大明神に残る 史跡 御土居堀

秀吉が短期間で造らせた

京都市内を一周する

城郭土塁堀

 

 

手前の石鳥居は 昭和2年 奥の石鳥居は 昭和15年 の建立

 

 

 

 

 

 

 

御土居堀の内側から見た状態 向こうが 西 つまり 洛外

切通しのようになっています 道との高低差は6メートルはありそうです

 

関連記事 ➡ 御土居堀