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高瀬川 船廻し場  高瀬川を静かに味わうなら このあたりです

2015年10月04日 07時06分07秒 | 史跡・旧跡

 

昭和8年の建立です

 

高瀬川船廻し場跡

豊臣秀吉が天下統一の後、その権勢を誇るものとして「天下泰平」祈願の寺・方広寺(大仏殿)を

建立したとき、その資材(石材)を瀬戸内の島より諸大名に命じて、

伏見の港から京へ搬入するために、天正14年(1586)、当時の豪商・角倉了以に命じて、

御土居の外に沿って掘らせ、慶長19年(1614)、現・一之舟入(二条)から

伏見まで息子素庵と共に開通させた水路(運河)が高瀬川である。

その後、この高瀬川は、京に米・材木・薪炭・などの他、日常雑貨なども運び込む

大切な通路として、大正9年(1920)まで使われていた。

 

当時使われていた高瀬舟「舟兵」は、水深の浅い川に合わせた船底の浅い平らな舟で

急流を荷を積んで乗り切れるように「高背」即ち舟べりが高くつくられていた。

このような舟で5、6隻一度に14、5人の船頭たちが

両岸に作られた普通の道より一段低くなった綱場を、

ホーイ、ホーイと掛け声をかけながら背に架けた綱でひいて上がってきた。

当時この辺りの川幅は、9メートル余りあり、

岸は砂浜のようになっており船廻し場となっていた。

また、ひと・まち交流館東南角の菊浜区民会館当りに回漕店があり、

ここから上流六条坊門(五条)にかけての舟繋ぎ場には、

いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたと言われる。

 

五条~七条間に架かる橋は、人が橋の下を綱を引いて通れるように

門樋橋(榎木橋)・七条小橋などみな高くしてあり、

六軒橋・上の口橋は階段式(十段ほどの石段)と成っていたため、

人は渡れても車は渡れなかったし、

正面橋は橋までが急な上り坂に成っていたため、

材木などを積んだ車などは、両側から綱をつけてまだ後ろから

人が押してわたっていたとの事である。

 

尚、この川に因んだものとして木屋町通り・(大仏)正面通り・

梅湊町・富浜町・納屋町・材木町などの通り名や町名があり、

当時正面通り木屋町東には米の取引所が有り、その「米浜」と言う名が郵便局名として残されている。

菊浜高瀬川保勝会・京都市

高瀬川を静かに味わうなら このあたりがいいと思います

 

 

平成27年9月15日 撮影



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