もと社殿のあった平坦地をいう。今は、拝殿と社務所・御供所等があるに過ぎない。
その北側には秀頼の子 国松丸墓、秀吉の側室京極竜子(松丸殿)の墓がある。
正面の観光バスの左の階段を上がったところが 太閤坦
奉納 戦捷紀念樹
明治38年
京都郵便局長・・・
石碑
碑文
明治31年4月
明治31(1898)年,豊太閤三百年祭(没後三百年祭)が開催されたのに際し,
豊臣秀吉の「偉勲」をたたえるために建立された。
慶長4(1599)年に,秀吉に豊国大明神の神号が与えられ時の宣命から
「兵威を異域の水に振い恩沢を率土の間に施す(外国に武力を振るい恩恵を天下に施す)」の
十六字を刻している。
建碑者久米民之助(1861~1931)は群馬県出身の土木建築家,実業家。
明治31年から同37年まで衆議院議員をつとめた。実業家五島慶太の義父。
石碑の裏
墓
墓の横に建つ石碑
漏世公子及壽芳夫人遷墓記・・・・
明治44年10月
漏世公子は豊臣秀頼の子国松(1608?~1615)のことで,法名の漏世院殿雲山智西大童子からとった称。
寿芳夫人は豊臣秀吉の側室松の丸殿(?~1634)のことで,法名の寿芳院殿月晃盛久からとった称。
国松は元和元(1615)年5月8日の大坂落城のあと,家臣田中六郎左衛門と乳母の手によって逃れ,
伏見に潜居したが発見され,京都六条河原で処刑された。
祖母淀君のいとこでもある松の丸殿が哀れみ,国松を京都寺町の誓願寺中に葬った。
松の丸殿は誓願寺再興時の施主であり,
晩年は寺内に住んだことから自分の墓も国松の墓と並んで建てさせた。
明治に至り新京極の開設など近辺の環境悪化を理由に,
明治44年秀吉ゆかりの現在地に改葬した。この改葬の経緯を記したのがこの碑である。
裏