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アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

史跡右008  龍門橋 (歌詰橋)

2016年04月04日 07時01分41秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

龍門橋 (歌詰橋)

つぼの内にほひし 花はうつろひて  霞ぞ残る春のしるしに

 歌人西行がこの橋のたもとにあっ酒屋で歌を詠みあい、この歌の返歌に詰まったとの伝説がある。歌詰橋は、それに因んで付けられた名。後に天龍寺ができ、その門前に当たるところから、龍門橋と呼ぶようになったといわれる。また、橋の下を流れる瀬戸川も、かつては芹川といい、昔はこのあたりに芹が繁殖していたらしい。小倉山の麓を水源に臨川寺の東で大堰川にそそぐ。 京都市

 近辺地域記事  ➡  嵐山・奥嵯峨  

史跡前回記事  ➡  史跡下007  道元が亡くなった所 

 


天狗・太郎坊の井戸

2016年02月24日 06時52分06秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

太郎坊の井戸

太郎坊とは、愛宕山山頂の大杉に住んでいるといわれる天狗です。「天狗経」や江戸時代の天狗番付で、筆頭に挙げられるほど強い天狗であったらしく、「火伏せの神」として庶民の信仰を集めていました。ちなみに比良山(比叡山奥)には次郎坊、鞍馬山には僧正坊と、各地の信仰対象となった山には、それぞれ天狗が住んでいたといわれています。太郎坊は室町時代の軍記物「太平記」や「平家物語」の異本である「源平盛衰記」などに登場するようです。「太郎坊の井戸」と伝えられる井戸が、常磐野の太秦宮ノ前町に、なぜ在るのか、理由はわかりませんが、空を自在に飛べる天狗からしてみれば、愛宕山から常磐野も、ほんの目と鼻の先であるのかもしれません。

 

 

天狗・関連記事 ➡  浄福寺 赤門 天狗が主役  その四・最終

              西林寺  天台宗  木槿地蔵があります

  


弁慶石  

2016年02月17日 07時20分33秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

弁慶石の由来

この石は弁慶が熱愛したと謂れ弁慶は幼少の頃三条京極に住み死後この石は奥州高舘の辺りにありましたが発声鳴動して「三条京極に往かむ」といひその在所には熱病が蔓延したので土地の人が恐怖し享徳3年(約500年前)三条京極寺に移し以来当町を弁慶石町と称するに至りました。その後市内誓願寺方丈の庭に移しましたが明治26年3月町内有志者により当町に引き取られ昭和4年7月12日この場所にこんりゅうされたものであります。

京都市中京区三条通弁慶石町

関連記事 ➡  義経・源平史跡


天塚古墳 ・伯清稲荷神社

2016年02月13日 08時19分38秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

天塚古墳

塚は長さ71メートル、二段築成の前方後円墳で、ほぼ南面している。前方部が著しく拡大し、高さも前方部の方がやや高い。内部主体は横穴式石室からなり、後円部の中央西側と前方部のくびれ部との二ケ所にある。明治20年(1887)くびれ部の石室を発掘した際、鉄製馬具類や鉱金刀類等が銅鏡・碧玉類とともに出土した。それらはいま、京都国立博物館や京都大学に保管されている。

この古墳は、6世紀前半の築造で、近くの蛇塚や甲塚と同じく大陸から渡来してこの地域を開いた秦氏一族の首長の塋墳とみられる。往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりになっている。嵯峨野地方現存古墳中、墳丘・内部構造・出土遺物共にそろっているのはここだけで、貴重な存在である。石室内には、現在、白清稲荷が祀られ、信仰の対象になっている。

 

 

 

明治42年(1909)建立

 

 

 

 

ぐるっと 右回りに一周してみます

 

 

 

 

石室

 

 

墳丘部分

 

もう一方の 墳丘部分  

 

最初の入口付近

スェーデン皇太子 訪問記念碑

碑文が書かれています

大正十五年九月廿六日

    瑞典国皇太子殿下

    同      皇太子妃殿下

    両殿下御台覧ニ浴ス

 大正十五年十一月十一日

    暹羅国

       タニー親王殿下

          御台覧ニ浴ス

 

「瑞典」はスウェーデンの,「暹羅」はシャム(現タイ王国)のそれぞれ音訳表記。天塚古墳は前方後円墳の首長墓で国指定史跡。大正15926日に,来日中のスウェーデン王国皇太子グスターヴ・アードルフ夫妻が京都帝国大学教授浜田耕作のすすめで見学した。ついで同年1111日に,来日中のシャム王国文部大臣ダンニ親王が見学した。

 

 「瑞典」はスウェーデンの,「暹羅」はシャム(現タイ王国)のそれぞれ音訳表記。天塚古墳は前方後円墳の首長墓で国指定史跡。大正15年9月26日に,来日中のスウェーデン王国皇太子グスターヴ・アードルフ夫妻が京都帝国大学教授浜田耕作のすすめで見学した。ついで同年11月11日に,来日中のシャム王国文部大臣ダンニ親王が見学した。

スウェーデン皇太子夫妻の天塚古墳見学については山田邦和「考古学者スウェーデン皇太子入洛」(丸山宏他編『みやこの近代』2008年思文閣刊)に詳しい/スウェーデン皇太子夫妻は天塚古墳とともに至近の千石船も一見している/解説中「ダンニ親王」の表記は大正15年11月に同親王の来京を報じた一連の京都日出新聞記事に依拠した

左の石碑

 

京都の古墳  ➡  史跡  天皇の杜古墳

           蛇塚古墳 (へびつかこふん)

              稲荷古墳の上にある富岡大明神

           名勝 双ヶ丘

           清水山古墳跡

 スェーデン皇太子はここも見学しています  ➡  千石公園の石碑


清水山古墳跡  

2016年02月11日 07時07分52秒 | 史跡・旧跡

清水山古墳は,全長約60メートル,横穴式石室を持つ前方後円墳。5世紀末~6世紀初頭の首長墓と考えられている。昭和48(1973)年,宅地開発により破壊され消滅した。

 

 

関連記事  ➡  史跡  天皇の杜古墳

           蛇塚古墳 (へびつかこふん)

              稲荷古墳の上にある富岡大明神

           名勝 双ヶ丘


史跡  天皇の杜古墳

2016年02月03日 07時50分32秒 | 史跡・旧跡

 

史跡 天皇の杜古墳

天皇の杜古墳は、京都市内でもきわめて保存状態の良い前方後円墳で、古くから墳丘に生い茂る大樹が「天皇の杜」の名にふさわしい景観を見せています。墳丘の形は前方部か広がらない、いわゆる「柄鏡式」の形態で、古墳時代でも前期(4世紀)に属しています。全長83mを測る市内では最大級の古墳で、その被葬者はこの時期に桂川右岸地域を統括した有力豪族(首長)と推定されています。ここは、古来より交通の要衝であり、稲作の場である平野部も見渡すことができる大切な場所だったのです。保存整備の一環として墳丘部と周濠部の部分的な発掘調査を実施しましたが、その結果、周濠部と理解されてきた平坦部には、周濠としての掘り込みはなく、兆域(墳墓の区域)として他と区別した部分であることがわかりました。墳丘は全体を2段築造し、その平坦部には円筒埴輪が樹立していました。また、斜面には葺石が丁寧に葺かれてしたことなども明らかになりました。主体部(死者を安置した所)の調査は実施されていないため、埋葬施設や副葬品の内容までは明らかになっていませんが、桂川右岸では現存する前期の古墳が少ないだけに、かけがえのない古墳といえます。なお、天皇の杜古墳の名称は、かつてこの古墳が文徳天皇(平安時代の天皇)の御陵であるとされてきたことに由来しています。

京都市文化財保護課

 

 

 

史蹟 天皇の杜   大正13年9月

 

関連記事   ➡  蛇塚古墳 (へびつかこふん)

             稲荷古墳の上にある富岡大明神

          名勝 双ヶ丘


詩仙堂  石川丈山の隠棲地

2015年12月04日 11時08分39秒 | 史跡・旧跡

詩仙堂 入り口 付近

 

すごい 人出でした  11月28日

詩仙堂は江戸時代の儒者石川丈山が晩年を過ごした山荘である。曹洞宗の寺。建物は多少改造されているが、今なお往時の面影をとどめ、儒者の家らしい風格を備えている。建物は仏間と居間(詩仙堂)と屋上の嘯月楼からなり、居間には四方の長押上に丈山が題賛し、狩野探幽・尚信が描いた中国の詩人36人の詩仙の額を掲げている。

庭園は建物の南にあって、東に滝をつくり、前庭につつじの刈り込みを設け、一面に白砂を敷いて枯山水とし、青山と海洋の景趣をあらわしている。丈山は三河国(愛知県)の人。徳川家譜代の家臣であったが、大阪夏の陣に先陣の功を争って家康の怒りをうけた。このため禄を辞して京都に来往し、この地に隠棲すること30余年、寛文12年(1672)5月23日、90歳の高齢で亡くなった。丈山遺愛の品を多数有し、毎年5月23日には丈山忌がいとなまれる。

添水は丈山の考案といわれる。獅子脅しである。

丈山の没後、荒廃した時期もあったが、最近では昭和42年(1967)に至って現在の如く改修された。ダイアナ妃も訪れています。

 

今年の紅葉は あまり よくない

 

嘯月楼

 

 

 

 

 

 

洛北の眺望


一乗寺下り松  宮本武蔵・吉岡一門の決闘の地といわれていますが・・・

2015年12月04日 10時31分28秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

左 宮本  吉岡  決闘之地  

右 大楠公戦陣蹟

一乗寺下り松

ここは、近江(現在の滋賀県)から比叡山を経て京に通じる平安時代からの交通の要衝で、ここの松は古くから旅人の目印として植え継がれ、現在の松は4代目に当たる。江戸時代のはじめ、この地で、剣客・宮本武蔵吉岡一門数十人と決闘を行った伝説が有名で、ここから東に約300mの所にある八大神社の境内に、決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。武蔵は決闘に向かう途中、同神社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き寸前でやめたという話もある。平安中期から中世にかけ、この辺りにあった一乗寺という天台宗の寺が地名の由来となった。南北朝の動乱以後に衰えて廃絶した。傍らの記念碑は大正10年(1921)に広島県呉の剣士・堀正平氏により建立されたものである。京都市

慶長9(1604)年,剣客宮本武蔵(1584~1645)が,吉岡又七郎およびその門弟とこの地一乗寺下り松で決闘したと伝える。この石標はその跡地を示すものである。ただし,江戸時代の地誌類にはこの逸話を記すものはなく,竹村俊則「宮本武蔵決闘地 一乗寺下り松について」(『土車』24号)は江戸時代の随筆「古老茶話」に依り北野一条下り松を推し,これが一乗寺下り松と誤って伝えられたとする。  表面に名を記す堀正平(1888~1963)は,大日本武徳会武術教員養成所を出て,各地で剣道教師を勤めた武道家。建碑者堀翁は妻佐々木氏翁  この伝説は作家吉川英治の小説「宮本武蔵」でにとりあげられ、ますます有名になり、今ではあたかも定説のようになっているが、真偽は保証できない

碑文

慶長九年宮本武蔵吉岡清十郎ト蓮台野ニ於テ剣術ヲ試ミテ之ニ勝チ又其弟伝七郎ト洛外ニ出テ雌雄ヲ争ヒ一撃ニシテ之ヲ斃ス是ニ於テ吉岡ノ門人恨ヲ含ミ清十郎ノ子又七郎ト謀リ試合ニ名ヲ仮リ数十人兵仗弓箭ヲ携ヘテ此所ニ会ス武蔵又七郎ヲ斬リ其徒党ノ者ヲ追退ケ悠然トシテ洛陽ニ帰ルト云

    大正十辛酉年                  堀      翁女建之

大楠公戦陣蹟

 『太平記』によると,建武3(1336)年正月楠木正成(?~1336)勢と足利尊氏(1305~58)勢がこの地で対陣し,正成が足利軍勢を追撃したとされる。

碑文

建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす乃ち前宵楠木 結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に 陣し明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬこれ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せりしかれとも我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせすしかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在りかゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし即ち斯に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり

昭和二十年五月二十五日建之

昭和廿年十一月建之        大楠公下松戦蹟顕揚会     撰并書     文学博士   吉沢義則

関連記事 ➡  北野一条下り松

 


右書き看板  明倫舎   説明書きがないのですが

2015年11月16日 08時14分54秒 | 史跡・旧跡

 

説明書きは何もない

 

上記の扁額 学校歴史博物館にある 扁額と そっくりだ

 下のは 学校歴史博物館の扁額

 

 全く同じもののように 見えます

 

明倫舎について

明倫舎(めいりんしゃ)跡 中京区室町通錦小路上る(現京都芸術センター

明倫舎扁額。手島堵庵の筆といわれています。

 河原町通三条に開設された明倫舎は,やはり天明の大火により焼失します。

後に錦小路室町上るの地に再建され,京都のみならず

全国の心学教化活動の拠点になっていきました。

 その後,明治2(1869)年に土地・建物が下京三番組小学校(のちの明倫小学校)に転用され,

明倫舎は新町二条上る(本記事の場所)移りました。

平成5年に,明倫小学校は附近の小学校との統合により閉校となりましたが,

現在では,若い芸術家を支援する施設である京都芸術センターとなっています。

前回の右書き看板 ➡  右書き看板  橋ッ八家本


蓮華清浄寺 跡  石碑

2015年11月15日 18時00分43秒 | 史跡・旧跡

蓮華清浄寺跡

蓮華清浄寺は、後宇多天皇の皇后遊戯門院を開山として、創建された。

のち 後水尾天皇 大聖寺 第18世陽徳宮   の隠居所として賜る。

天皇 上皇が、度々 行幸 御幸

賞翫の地となった。往時を偲ぶよすがとしてこの碑を建てる

2001年 大聖寺門跡  春岳 慈薫

 

 


橘逸勢邸址  無実の罪で非業の死を遂げた人

2015年11月11日 18時06分10秒 | 史跡・旧跡

 

 

橘   逸勢邸址

大正五年五月建之   京都市教育会

昭和三年六月   京都史蹟会引継   (昭和御大典の年です)

たちばなのはやなりていあと

平安京左京三条二坊十一町にあった蚑松殿(はいまつどの)と呼ばれた

橘逸勢(?~842)の邸宅。

逸勢は延暦23(804)年留学生として入唐,大同元(806)年帰国。「橘秀才」といわれ,

三筆の一人に数えられる。承和の変(842)で罪なくして遠流に処せられ,

伊豆下向途中の遠江で病により没した。

そのため御霊として祀られ,邸宅跡に橘逸勢社が建てられたが焼失した。

 

 関連記事 ➡ 下御霊神社  無実の罪で非業の死を遂げた人たちを祀る

 


石碑  廣野了頓邸跡   了頓辻子の名の由来

2015年11月11日 07時35分08秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

江戸時代初期の地誌である「雍州府志」によると、足利家代々の従臣である

廣野家は将軍義晴、義輝の時代にこの地を領有した。

その後、安土桃山時代になって、末裔である廣野了頓は、

剃髪してこの地に茶亭を構え茶道を広めた。

当時、豊臣秀吉は京へ入洛した折に了頓邸を訪れ、

茶を点じた了頓はその縁で280石の知行をあてがわれた。

また、山科言経の日記「言経卿記」にも文禄3年(1594)5月11日に

徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、言経、古田織部らも同席したことを記している。

了頓は江戸時代に入って徳川幕府からも知行400石を受け、厚遇されて明治に及んだ。

邸地は了頓の意志により、表門から裏門までの一般の通行が許され、

表門は将軍御成門と称した。かつてこの付近には清水が涌き、

井戸も多く、民家の裏には了頓井と称する井戸があった。

了頓図子(小路)町という名は、実際にここに住した

廣野了頓に由来して今に伝えられたものである。

京都市

 

関連記事 ➡ 廣野了頓の邸宅跡 ・将軍御成門跡


平安京  三条西殿・三条大路跡  院政時代の中心地 高級邸宅地

2015年11月10日 20時53分41秒 | 史跡・旧跡

 

 

南を三条通り(三条大路)、北を姉小路通り(姉小路)、東を烏丸通り(烏丸小路)、

西を室町通り(室町小路)に囲まれた一画は、平安時代の表示では

「左京三条三坊十二町」に当たる。

この付近は、平安時代後期には皇族や有力貴族の所有になる高級邸宅街であった。

特に十二町は白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院の御所として、

ここをクリック ➡ 待賢門院の陵墓

院政時代の政治の中心となった「三条西殿」の遺跡として知られている。

この三条西殿の東南部分にあたる「烏丸ビル」の敷地は、

財団法人古代学協会・平安博物館が昭和44年と56年に二度にわたり発掘調査を実施した。

調査の結果、後世の削平などにより、建物跡の検出はできなかったが、

宅地の南と東を限る、三条大路北端と烏丸小路西端の側溝を検出し、

その位置を確認することができた。

また、検出された側溝は平安京全体の町割りを復元する上でも重要な定点となった。

なお、敷地東南隅では平安時代から江戸時代にかけての

各時期の三条大路の側溝と路面の一部を検出し、

当初の路幅八丈(約24メートル)が徐々に狭められて現在に至っていることが判明した。

発掘では大量の屋瓦類や土器・陶磁器類が出土した

他室町時代の三条の溝からは、西国三十三所巡りの巡礼札も出土し、

いつの時代にも賑わう三条界隈の様子が窺われる。

財団法人古代学協会

 

 


廣野了頓の邸宅跡 ・将軍御成門跡  

2015年11月10日 13時53分45秒 | 史跡・旧跡

 

 

廣野了頓の邸宅跡 将軍御成門跡

この一帯には安土桃山時代の茶人、廣野了頓の邸宅があったといわれる。

廣野家は足利家代々の従臣で、将軍義輝の時にこの地を領有した。

市井人となった了頓が、ここに茶亭を構え茶道を広め、豊臣秀吉もしばしば訪れたという。

また、山科言経の日記「言経卿記」にも文禄3年(1594)5月11日に

徳川家康がここを訪れ、言経、古田織部らも同席して茶の湯を楽しんだ様子が記されている。

 

明治維新前までは、六角通に面して表門があり、裏門まで一般の南北通り抜けを許したため、

了頓辻子と呼ばれる小路が成立した。

六角通面の町が玉蔵町であるため、玉蔵辻子とも称されたこの路は、

夜間には通行を禁じ、表門を将軍御成門と呼んだといわれる。

 京都市

 

 


三條南殿の遺址  三条烏丸  源頼朝はここで働いていた

2015年11月09日 22時03分28秒 | 史跡・旧跡

 

 

三條南殿の遺址

この建物の敷地には、昔三條南殿という邸宅があった。

三條南殿は、三条、烏丸、六角、室町の4つの道に画された方121メートルの邸宅であった。

初め左大臣藤原実能の邸宅であったこの三條南殿は、

長承2年(1133)ごろ実能によって鳥羽上皇に献上され、上皇の御所になった。

これがいつ鳥羽上皇の皇女の上西門院(統子内親王)の御所になったかは不明であるが、

恐らくそれは仁平元年(1151)のことであったらしい。

それ以来、三條南殿は文治5年(1189)7月に崩御されるまで、上西門院の御所となっていた。

クリックでジャンプします  ➡ 上西門院(統子内親王)の陵墓

 

特記されるのは、保元3年(1158)から翌年平治元年にかけて、

若き日の源頼朝(1147~1199 11歳ぐらい)が上西門院の官人としてこの御所で勤務していたことである

 

 

その後、すなわち建久8年(1197)三條南殿は後鳥羽天皇の生母の

七條院(藤原殖子)の御所となり、安貞2年(1228)に崩御されるまで女院はここに住んでおられた。

平安時代後期から鎌倉時代中期まで勢威ある女院の御所であったため、

歴代の天皇はしばしば三條南殿に行幸された。また女院の女房には才媛が多かったため、

この御所は和歌文化の有力な中心の1つをなしていたのである。

昭和50年5月  平安博物館

 

12月5日 撮影  12月10日 追加