goo blog サービス終了のお知らせ 

アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

神社左0237 熊野若王子神社

2020年11月25日 20時23分41秒 | 神社

 

恵比須殿

当若王子神社の末社 夷川社の御祭神であります。

恵比須神像は木造寄木造り等身大の坐像で社宝の御神体として祀られ現在も多くの崇敬者より篤く信仰されております宝暦11年(1761)に書かれた「京町鑑」には「古老云、往古西洞院中御門―今の椹木町―に北山の下流あらはれ、またこの辺に蛭子(えびす)社有りしゆえ 恵比寿川と號し、其後次第に人家建つゝ゛きしゆえ通りの名とす、應仁の乱に此社亡滅し、川も埋もれ侍りしが不思議に蛭子の神像残り…云々」とありこの御神像が当社に祀られたと伝えられている。

熊野若王子神社

当社は永歴元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請した若王子の鎮守社で 社名は天照大神の別称若一王子に因んでこのように名付けられた。

以後 室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、寛正6年(1465)3月には足利義政により花見の宴が催された。その後応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され 社殿及び境内が整備された。

現在の社殿は昭和54年(1979)一社相殿に改築されたもので以前は本宮・新宮・那智・若宮の4棟からなっていた。

神社 前回の記事 ⇒ 神社笠置0236 稲荷社  笠置寺内

   次回の記事 ⇒ 0238

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社笠置0236 稲荷社  笠置寺内

2020年11月22日 19時43分50秒 | 神社

 

稲荷社 「その法を修するものには自由自在の力を与える」といわれる、茶枳尼(ダキニ)天を祭る。

荼枳尼天は、日本において稲荷の神格と同一であるとされ、稲荷大明神、飯縄大権現などと同等にされる。

笠置山の麓を流れる木津川は、古くより船による水運業が盛んで、笠置にも回船業が多く、鉄道が開通する以前、江戸時代~明治初期まで栄えていた。当社は大正時代に笠置町内の回船業者の発願で、愛知県 妙厳寺(豊川稲荷)より勧請したものである。

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0235   大豊神社  (後)

   次回の記事 ⇒ 

 


神社左0235   大豊神社  (後)

2020年11月10日 06時06分28秒 | 神社

 

 

良縁 招福の石

 

金運恵寿 狛巳

火難除 愛宕社    災難除 日吉社

現在は病気平癒、健康長寿の祈願にお参りになる方が多いようです。境内の末社の中で五穀豊穣を祈る美田稲荷にはキツネがいますし、愛宕社の前にはトンビ、新日吉社の前にはサルがいます。

トンビ

サル

大豊神社の末社、大国主のネズミ、右に巻物を喰わえた牡のネズミ、巻物は学問を意味します。左は玉を持った牝のネズミです。これは豊穣、薬効、長寿を意味しています。古事記では罠をかけられ、野原で火に囲まれてしまった大国主命を救ったという神話のネズミが社前をお守りしています。子供の視角にちょうどよい高さに作られています。

紀元2600年 奉納 絵馬

紀元2600年 ⇒ まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0234   大豊神社  (前)

次回の記事 ⇒ 神社笠置0236 稲荷社  笠置寺内

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


神社左0234   大豊神社  (前)

2020年11月07日 18時05分59秒 | 神社

 

大豊神社 狛ねずみの社

この社は少彦名命・応神天皇・菅原道真を祀っている。社伝によると、仁和3年(887)、宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願社であり、朝野の信仰が篤かった。建武の内乱・応仁の兵火などに遭って焼失したが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ケ谷、法然院、南禅寺一帯の産土神として信仰を集めている。特に、末社の大国社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶は、それぞれの神のお使いとして有名である。また、神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花、山野草が四季折々、参拝者の心を和ませている。更に、椿の名所としても知られている。

 

 

 

子年になると脚光を浴びる狛犬がいます。大豊神社の末社、大国主のネズミで、右に巻物を喰わえた牡のネズミ、左は玉を持った牝のネズミです。古事記では大国主命を救ったネズミが社前をお守りしています。子供の視角にちょうどよい高さに作られています。大豊神社ははじめ、後ろの椿ガ峰にあって椿ガ峰天神といわれていましたが、一条天皇の寛仁年間(1017~21)に今の地に遷したと伝わります。

現在は病気平癒、健康長寿の祈願にお参りになる方が多いようです。境内の末社の中で五穀豊穣を祈る美田稲荷にはキツネがいますし、愛宕社の前にはトンビ、新日吉社の前にはサルがいます。

皇紀二千六百年記念

宇多天皇御 平癒勅願社

御大典記念

椿の峰の御神水

大正4年12月建立

大典紀念

大典紀念

大典紀念のある所 ⇒ まとめ051 関連0008  御大典記念のあるところ

紀元2600年 ⇒ まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額  

神社 前回の記事 ⇒ 神社木津川0233 恭仁神社 

   次回の記事 ⇒ 神社左0235   大豊神社  (後)

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社木津川0233 恭仁神社 

2020年09月25日 07時10分56秒 | 神社

 

 

狛犬

 

狛犬のアート  新山 浩

 

拝殿です

回廊でしょうか

 

狛犬です

 

 

本殿です

天満宮

なで牛

心光庵跡とある

神社 前回の記事 ⇒ 神社長岡京0232 春日神社 1700年の石鳥居

     次回の記事 ⇒ 神社左0234   大豊神社  (前)

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 

 

 

 


神社長岡京0232 春日神社 1700年の石鳥居

2020年08月30日 08時19分13秒 | 神社

 

平安時代末期 承安4年(1174) 九条兼実による創建と伝わる

1582年に焼失、1604年再建、1845年破損・再建

江戸時代は勝竜寺村の氏神、石鳥居は1700年、石燈籠は1714年、狛犬は1865年の銘がある。

神社 前回の記事 ⇒ まち歩き長岡京1308 西国街道・調子八角 神社長岡京0231 小倉神社・御旅所 石鳥居 江戸時代のもの

   次回の記事 ⇒ 神社木津川0233 恭仁神社 

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


神社左0228 北白川天神宮 石碑・紀元2600年

2020年04月25日 06時16分05秒 | 神社

すぐ 石橋が見える

 

北白川一帯は、1万年を超える縄文時代より集落が営まれていた環境エネルギーの良地である。ここに延喜以前より天使大明神と唱え、我国病気平癒健康長寿の神少彦名命が祀られていた。八代将軍義政公が東山山荘造営に際し、今の千古山明神の森に遷座された。遠く比叡山を望み外山・丸山・瓜生山より昇る日輪と共に拝すみの宮山は、古来幽邃の仙境で悪疫伝播で始まった祇園会に列した白川黒鉾と共に永い歴史の大的・高盛・神事神輿に39個の提灯を付け、篝火の中、133段の石段を担ぎ上げ還幸、担ぎ下す勇壮な秋祭り等が絶えることなく続けられている。
平安時代ここは都に近く宮廷の貴族、大宮人が風光明媚な白河街道沿いにこぞって山荘を営み、詩歌に興じた。また、白川石と花の里で男は石工でその秀でた技術を神社前の橋に残している。女は白川女として代々受け継ぐ地域へ花を届けている。石工・白川女共に数は激減したが現存している。宮廷や貴族の影響で衣装は白黒鮮やかかつ立体的で京女人風俗中、特に優れている。名水にも恵まれ、遠方より水くみに訪れる人が多い。白川の川面になびく糸桜として都紅糸桜など見事である。 京都市

 

歌碑

 

花塚  昭和38年4月建立
白川女花行商組合結成25周年記念

 

  白川里
昭和38年4月建立
白川女風俗保存會結成15周年記念

 

 

 

忠魂碑
大正11年10月建立
帝国在郷軍人會北白川分會

 

昭和55年

 

 

 

 

 

 

 

大崎元義翁像

 

 

 

 

皇紀2600年記念 おやね乃松

 

関連記事 ⇒ まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額

      まとめ053 関連0011  慰霊碑  戦没碑 

神社 前回の記事 ⇒ 神社北0227 七面大天女宮 

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


神社北0227 七面大天女宮 

2020年03月25日 06時50分16秒 | 神社

 

 

 

 

 

日輪・月輪の滝

滝の高さは約10m、山中から流れる水を、浅い滝つぼに水垢離ができるようになっている。

寺伝によると、日像上人がこの滝の水を以て曼陀羅を書いたといわれ、妙泉寺の名もこれによるという。

傍らに天正4年(1576)日諦上人が勧請した七面社がある。

 

 

神社 前回の記事 ⇒ 神社北0226 新宮神社  紀念碑   京都市・松ケ崎

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社北0226 新宮神社  紀念碑   京都市・松ケ崎

2020年03月20日 07時58分19秒 | 神社

 

 

 

紀念碑

明治27,8年戦役

明治37,8年戦役   従軍者、応召者、戦死者

 

新宮神社
猿田彦神を主神とする旧松ケ崎村(西部)の産土神で、社伝によれば、もと大比叡大明神と称したが、徳治2年(1307)一村改宗のとき、新宮大明神を勧請し、日像上人の書いた法華経と曼陀羅を合祀し、妙泉寺によって祭祀されていたという。明治初年の廃仏毀釈に際して白髭神社と称し、明治20年(1887)新宮神社と改めた。境内には本殿・拝殿・末社二宇の建物がある。
因みに毎年10月23日に行われる当社の祭礼には、神輿の巡幸は行われない。その理由はの一村改宗のとき、旧来用いてきたものを背後の山中に埋めたからといわれ、その埋めたところを神輿塚・経塚・珠数塚と称している。

 

 

関連記事 ⇒ まとめ053 関連0011  慰霊碑  戦没碑

神社 前回の記事 ⇒ 神社北0225 末刀 岩上神社

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社北0225 末刀 岩上神社

2020年03月17日 06時57分18秒 | 神社

 

式内 末刀 岩上神社

大正2年4月 建立

 

 

巨大な自然石を神体とされています

口碑によれば、この岩はむかし兵庫の海中から得たものといわれ、岩上大明神と号し、牛馬漁労の神として崇敬されているという。

一時、式内末刀(まとう)神社を併称したことがあったが、近年旧名になった。

神社 前回の記事 ⇒ 神社北0224  貴舩神社

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社北0224  貴舩神社

2020年03月09日 07時07分44秒 | 神社

 

 

 

ちから石 文政8年4月(1825年)

 

深泥池 貴舩神社の由来
深泥池の旧鞍馬街道には保元2年(1157)に、京の六地蔵の1つ、御菩薩池(みどろいけ)地蔵(現鞍馬口地蔵)が祀られ室町時代には関所が置かれていた。
当神社の御祭神は高龗神(たかおかみかみ)と申し上げ、雨水を司る龍神で古くから鞍馬山麓の貴船に鎮座せられる貴船神社の分社として、深泥池の農民によって、勧請したものである。
貴布禰総本宮貴船神社は平安遷都より、皇居の御用水と人々の生活用水や農業用水である賀茂川の水源にあたる所から川上神(弥都波能売神(みずはのめのかみ))と水を司る高龗神が御祭神として朝野の尊崇が篤く、洛中からの参詣が絶えなかった。しかし、本宮への参詣に遠くて大変だったので、寛文年間(1660~70)の10月23日に、御分霊が行われ、街道筋の当地に鎮座され、農耕をはじめ、住民の安寧、徐災招福の守護神として信仰され、今日に至っている。例祭は10月23日。

生誕地  池大雅 ゆかり之地

 

南宋画を大成した池大雅(1723~1776)は、深泥池の畔で生まれ、それを忘れまいとして池という姓を名乗ったとされる説が有力である。また、妻の玉蘭は、祇園三才女の一人とされ、時代祭にも登場していることでも知られている。
本記念碑は、地域の誇りとして氏の多大なる功績を讃えると共に深い敬意を表するために建立するものである。

 

 

 

すぐきの神様 秋葉神社の縁起
昔みぞろが池は、七つ森七軒村と云われ一番森を消し山と称し、火伏の秋葉神社が1200年前から祭られていました。所が此の神社が神仏混交である事を因として、明治の廃仏毀釈の令により、賀茂社の社家が社を打ち壊しました。
翌年の3月春、修復を怠った村に大火が発生し家財農具も一切が焼失しました。失意の村人達が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも漬け物桶だけが焼けながら中身が焼け残っていました。疲労と空腹に耐えていた人々が其の漬け物を開けると、「あっ火が入っている、いい匂いがする」と村の長が漬け物の茎を一本試食しました所「酸い茎や」と云いました。
これが「すぐき」発祥の歴史であります。火の神である秋葉神社の神様が私共に罰を与えると共に反省を求め、生命の根源である酵素の漬け物を恵み賜わったのであります。
秋葉神社再建  柴垣光男 記

 

 

忠魂碑

 

 

 

 

関連記事 ⇒ 池大雅

       まとめ053 関連0011  慰霊碑  戦没碑

神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0223 石清水八幡宮 供御所井

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 

 


史跡八幡076 石清水八幡宮 八角堂跡

2020年02月22日 17時31分56秒 | 神社

 

鎌倉時代の初め、順徳天皇の御願により建てられた隅切り八角形の仏堂の跡で、堂内には像高約3mの金色に輝く阿弥陀如来坐像が納められました。その後、慶長12年(1607)には、豊臣秀頼により再建されました。明治になり、神仏分離令にため撤去されることとなり、正法寺の住職・志水円阿が、明治3年(1870)に所有地であった、西車塚古墳の後円部上に移築しました。西車塚古墳は、墳長約120mの木津川左岸最大級の前方後円墳で、山麓の東高野街道を約1.5㎞南に位置する、松花堂庭園の北西にあります。
八角堂は、廃仏毀釈をまぬがれ市内に唯一現存する仏堂です。古墳の上に建つその姿は、八幡に生きた人々が、当時の文化を守ろうとした気持ちを今に伝えています。

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡075 石清水八幡宮 表参道 愛染堂

関連記事 ⇒ 寺院八幡0600 正法寺 浄土宗鎮西派 重要文化財

       寺院八幡0604 八角堂  重要文化財

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます