鉄道模型工作記録帳

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【資料】C11すずらん青20号編成の記録

2011-01-01 21:16:00 | 北海道廃車体めぐりレポ


1999年の記録です。
C11が復活するに当あたり二方面で広報のお仕事の手伝いをしました。

一件が

このようなPR誌の編集主幹としての携わり。
記者兼カメラマン兼ディレクターとして。
(記者やカメラマンはサポート程度にしましたけど)


こんな紙面を「新創刊なんだから結構趣味全開で」作ったことがあります。

限られた紙面だったので人にスポットを当てて3回くらい連載記事にしたでしょうか。

このPR誌タイトルも自分案のひとつだったので思い出深い仕事です。
この仕事を3号まで編集し最期に広報会社を辞めたので仕事から脱することになったのですが、この仕事は続けたかったなぁ・・・。

そこでの取材のときのこと。

落成写真を撮りに行ったのでした。


ちょっと有名な「幻の青20号編成」です。

塗色変更されたオハ14 519・526とスハフ14 505の3両で「なんで15号じゃないんだろうなぁ」とはお仕事の中で納得できる理由があったので結構サラッとしておりました。
のちの増備車「巨峰色」のときも同じ感想。

屋根の色は14系がねずみ色でしたが、スハシは完全にGMダークグレイそっくりな色の「塗り屋根」で、ベンチレーターも一切なく腐食対策で割り切られていたことが解ります。


実はこのとき、ストーブ無しであったのでストーブ煙突もなかったんですよ。

一度スハシ改造当初に取り払われたテールライトは、オハフ51のテールライトを変形おわん型にベースを介して追造し、幌座も撤去。
外配管の不恰好なものが取り付けられておりました。

床下機器も近代的な装置が取り付けられています。
すずらん号運転当初は3連でスハシは編成端であったため取り付けたのはわかるのですが、原型とはかけ離れた姿だったのです。


後日、関係者運転会では既にぶどう色になりましたから。その姿を。
貫通扉はオハ45系の「側扉」が嵌められており、奇妙な概観を際立たせておりました。
ぶどう色のときに屋根も塗りなおされており、ジャーマングレイのような濃度になっておりました。


14系は青に塗っただけで、蒸気機関車のサウンド放送するスピーカーが別添で取り付けられている(試運転当時は録音ドラフト音で噴出しそうになった)以外は原型で、後日固定クロスシートに交換するわけですが当初は簡易リクライニングシートでした。
客車の機関区配置札入もこのときはありませんでした。




C11は前から見た目、客車と異なり非常にプレーンなスタイルで、過剰な装飾はありませんでした。
復元当初は現役時代の再整備であり、バルブひとつとっても当時のものだったのです。
現在はかなり現用品に交換されたと聞きます。

復元後しばらくして増車。スハシは中間車になりました。
考えてみればこのときのオハ14ゲテモノテールライトをちゃんと撮影しておくんだった・・・・。


各部の「構造」が原型に近かったのは復元に当たった国鉄OB、当時札幌交通機械のKさんの計画と現場艤装指導のNさんによるものであることから、当時の仕様に近かったのかもしれません。

軸受メタルも記事には書きましたが、「笹葉きさげ」と呼ばれる「削り専用ノミ」のようなもので削る作業もそのままであり、機械転削ではありませんでした。
確かに、笹の葉型の刃物で傷をつけるんだか削るんだか難しい小手で削り上げて軸を整えていく作業は、熟練を要することは良く解り、北海道のC11が何度も軸焼けを起こしたのも、この作業の伝承が如何に難しいものかを後で思ったものでした。
当時、指導にあたられていたのは当時78歳になられていたIさん。
確か手稲オリンピアでミニ弁慶号の運転手として余生されていたところを、期限付き復帰され、削っておりました。

このときの復元では、デフレクター、キャブ、炭庫、ボイラケーシングの一部、プラウを新製していました。
軸受けメタルはもちろん新製です。
水槽は元のものを再利用。
復元の条件となったのはタイヤの厚みが残っていたことと車軸が磨耗していなかったことだったと聞きました。


コンプレッサーは標津のC11からだったと聞いたかもしれませんが、現在では苫小牧のC11-133もダミーとなっているのでどのコンプレッサーかは今はわかりません。
コンプレッサーも作りにくいから探したと聞きました。

未完成の時期に当時のポスターを作るのに
標津機関区の同僚であった大井川C11-227の写真をCG改造したり、C11-207の現役走行写真を1灯に改造して使いました。
マニア(w)ですから、徹底的にこだわってCG改造したと思います。
それぞれ標識等掛けやデフレクターの裏側、煙室扉の当て板補修に違いがあり、こだわりまくって「誰もわからない精密写真」を造ったりしました(苦笑)
207の写真は鉄道写真の巨匠の作品で、「巨匠の写真をいじっていいのかなぁ」なんて思いながら。
あとで207が復帰したときはちょっと驚いたもんです。

秩父別からの依頼の写真はそうやって改造したんです。



後部はかなり現役時代と異なるというか、保存状態の炭庫を見本に新規設計&合理的に作成してあります。
「予算が足りなくてここまでしか造りかえられなかった」と聞きました。
本当は水タンクも痛みがあったので作り変えたかったそうです。
そのような事情や、マニア的ではなくコンディション重視のため現役時代との機能は同じでもディテールと異なるのは当然です。
キャブも新製ですから炭容量含めてサイズが全て微妙に異なるのですから。

この炭庫は札幌交通機械の工場内で作成されており苗穂工場に搬入されています。


このときの予断でマニアな私は取材にかこつけていろいろ馬鹿なこと聞いておりました。
「9600は・・・だめだったんですかねぇ」
「9600はだめだ。ボイラがどれも激しく痛みが来ていて、現役末期もギリギリだった。フレームの歪みもどれも酷い。軸重も重いから扱いにくいだろう。バックも難しい。C11のような「新しくて」手軽な機関車が一番だよ。C11-171でも決して状態は良くないからね。軸とタイヤだけで選んだようなものだもの」
ぐうの音が出ませんでした(笑)

「D51は・・・」
「C62で懲りているのと同じだよ。一般に人気はあるかもしれませんけどね、維持費も運用コストも膨大だ。C11が一番なんですよ」

「移送のときの苦労話は・・・?」
「現地で解体するときだったかな、とにかくあちらは湿地地帯でしょ、かなりばらばらにしないとC11といえど重すぎて運べないことがわかって、とても悩んだよ。ばらすのは昔は簡単だったけど、何せ今の若い本社の人たちはSLをあまりばらしたことが無いから、説明が大変だった。そして、いざ解体するときに、ちょっと目を放した隙に若い人がガス切断機で灰箱周辺に火を当てている。もう慌てた慌てた(笑)あの部分は部厚い部品でもう日本では造れないからね。切られたら全てが終わるところだった!怖いね」

「復元の苦労話は」
「とにかく若く良い人たちを選んで集めたけど、知らないことはしょうがない。説明しながらだから大変時間が掛かっているよ。特に私の仕事は検査計画の策定が中心だから、いろいろなことを知って居なきゃならない。D51-603の最終検修まで見守った自分たちから数えても30年近い。本社現場が誰も知らないからとにかく大変だよ・・・Iさんだって作業開始前の10日位前かな、暇しているってんで呼んだの。誰も軸受けを削れないんだもの。今は機械でやればいいものばかりだけど、SLはそうはいかないからね」


などでした。


    ↑なんか・・・熱ぼったいなぁ


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