たわごと~産業カウンセラーとして~

資格取得後もまだまだ研鑽の日々です。勉強会で感じたことを中心に、日々思う事や季節のことレシピまで自分を表現する日記です。

無意識の中の健康

2011-09-29 20:15:13 | 交流分析
交流分析士2級の試験ようやく終わりました。
といっても、最後までまとめていないのは、中途半端なので、書いておこうかな~

前回は、拮抗禁止令の中の「ドライバー」について書きました。
「ドライバー」は、なんとなく自分の行動とか、考え方なんかで、思い当たるところがあるのではないかと思います。

禁止令は、何度も言いますが、無意識なので、自分でもわからないものです。
その禁止令を乗り越えたいためのドライバー…

たとえば、「健康であるな」の禁止令を持っている人が、ドライバーは、「一生懸命やれ」だったとします。

何事も駆り立てられるように一生懸命してしまう人が、遂には、病気になってしまう・・・よくあることのように思いますが、何か頑張り過ぎると病気になってしまう人は、禁止令に「健康であるな」が隠れているかもしれません。これは、無意識なので本当はわかりません。

実際、身体の内部、心臓や肝臓など、意識して動かしているわけではありませんよね。
これこそ、無意識です。
無意識で動いている内臓が、不具合もなく動いているとしたら、まさに感謝だと思います。
自分の身体は、無意識に、正常に働くように調整しているのです。

禁止令が、「健康であるな」であれば、無意識のうちに体調が悪くなるのは、当然のような気がします。

食についても、栄養、栄養と取り沙汰されていますが、本来は、粗食で十分健康でいられるそうです。
この飽食の時代、心に何か足りないものがあると食べ過ぎてしまうそうです。なんとなくわかるような気がしませんか。

ちょっとそれてしまいました。
最終的には、ドライバーに気づき、それをどのようしてよい脚本に書き換えるかの「ミニスクリプト」について書きたかったのですが…

次回にします…

自分を駆り立てる命令~拮抗禁止令~

2011-09-22 20:26:11 | 交流分析
試験間近になってしまったというのに、ブログにはまとめきっていないとは…

■拮抗(きっこう)禁止令…養育者の言語によるメッセージ

拮抗禁止令は、子どもが言葉を話すようになって(~3才)、親からの命令を受け取って自分の自我状態にファイルしたものです。

親の命令といっても、ほとんどが危険を回避する命令や、しつけなどなので、多くは、肯定的な(良い)脚本に用いられます。(ここは親としてちょっと安心)

とはいえ、親も人間ですから、日々、聖人君子ではいられません。
ネガティブな感情からのメッセージを発していることもあります。

その中で、親からの否定的なメッセージを、繰り返し言われ続けると、子どもはなんとか親の気に入るようにしたいと思い、何が何でもそれをしなければというような、駆り立てられるような気持ちになります。

そして、大人になってもその駆り立てられる命令に従ってしまいます。
それが、ドライバーといわれるものです。

ドライバーは、「完全であれ」「他人を喜ばせろ」「一生懸命にやれ」「強くあれ」「急げ」の5つです。

これは、自分が身に付けた無意識の「禁止令」があまりにも苦しいので、それを乗り越えたいとの本人の欲求が隠れています。

ちなみに私は、めっちゃせっかちだったので「急げ」かと思いきや、よく考えて先生にシェアしていただいたら「他人を喜ばせろ」でした。
「急げ」は、多かれ少なかれ、皆、持っているものだそうです。
そういえば、「早くしなさい」は小さい頃、誰でも言われると思います。


自分のドライバーはどれでしょうか?
必要以上に駆り立てられるものがあったらそれが自分のドライバーです。

ドライバーは、禁止令が隠れています。
駆り立てるように行動しても禁止令がじゃまをして、結果うまくは働かないもののようです。

ドライバーを知るところから、禁止令に気づき、苦しい脚本を書き換えることが可能になるのです。

自分でもわからない弱点~禁止令~

2011-09-16 15:01:37 | 交流分析
人は、人生脚本を、子供の頃の親の影響を受け、無意識に書いているということを書きました。

自分を振り返ったり、子育てを振り返ると、ちょっとゆううつになってしまいますが、親だって人間。
完璧な人間なんてひとりもいないはずです。
私の持論ですが、完璧だったら「神」であろうから、人間として生まれてこないのだと思っています。

だから、誰しも、「生きにくいな」と感じる瞬間ってあると思うのです。でもそれが普通です。
その自分のわからない弱点に気づくこと…

その弱点を気づくために人生脚本を分析します。
以前書いた禁止令とドライバーですが、交流分析協会としての順番が違うようなのですが、内容は同じです。

■禁止令…養育者から非言語(言葉ではなく態度や感情)によってネガティブなメッセージを受け取ります。

■許可…養育者から非言語(言葉ではなく態度や感情)によってポジティブなメッセージを受け取ります。(許可のほうが基本的に多い)

子どもは、母親のお腹にいる時から言葉が話せない時期(~8ヶ月)までに、母親の言葉を聞いたり、母親の感情を無意識に受け取っています。
胎教が大切だというのもここに働きかけるからです。

でも、母親(養育者)も人間なので、毎日おだやかで居続けるというのは、難しいものです。ネガティブな感情は、親となった養育者でも必ずあります。それでいいのです。
(親はやさしくなければならないとか、ネガティブになってはいけないと思うと、もっと深い問題になってしまいます)

禁止令は、どのネガティブを受け取るかによって人それぞれ違います。同じ対応をしても、ある子にとっては、「存在するな」であるかもしれないし、違う子にとっては、「重要であるな」かもしれない・・・

それは、まだ意識もはっきりしていない胎児または乳児が決めているので、大人になっても、なかなかわからない無意識の領域です。

なんだかわからないけど、苦しい気持ちがある時、また、苦しいかどうかもわからないもやもやとしたものがある時は、この禁止令が働いているかもしれません。

ここに気づくのは至難の業?のようですが、このあとに続く、拮抗禁止令に気づいて、少しでも肯定的な脚本に書きかえるヒントをつかめればと思います。

絶頂期からなぜ転落の道へ~人生脚本~

2011-09-09 19:55:47 | 交流分析
人生脚本とは…

「人生早期に養育者の影響で発達し、現在も進行中のプログラムをいい、個人の人生の最も重要な場面でどう行動するか指図するものである。」とエリック・バーンが述べています。

人間は、みんな自分の人生の脚本を、幼い頃(人生早期)に書いているのです。
え~幼い頃って、人生なんてわからないのに、そんなもの書けるの?って思いました。

でも書いているのですね。
人生態度の時にでてきた「幼児決断」です。

だから、間違って認識したことや誤解、思い込みなども無意識の中にすり込まれているのです。しかも人生の重要な局面でその行動がでてきます。

どうしていつもここで失敗するんだろう?
普通の生活をしていたのに、なんで破滅的な行動をしてしまうんだろう?
幸せの絶頂から、なぜ転落してしまう方向を選んでしまうんだろう?

なんてことに思い当たることがあれば、歪んだ人生脚本を書いているのかもしれません。

「人生態度」のところで書いたのですが、誰でも乳児期に傷つく感覚を持っています。なので、みんな少なからず、歪んだ脚本を持っています。苦しい脚本です。

その歪んだ脚本に気づき、理解することで修正することが可能になります。

よくポジティブシンキングでありなさい。とか、
あるがままでいなさい。とか、
愛と感謝が重要だ。とか

言われますが、歪んだ脚本に気づかないと、どれも「きれいごと」としかうつらないようです。
でも歪んだ脚本は、無意識の中にあるので気づくのがとても難しいのです。

生きていくのに苦しいな~と思ったら、それに気づくために、後述する「禁止令」「拮抗禁止令」「ドライバー」があり、楽になる修正の脚本に書き換えていくことが可能となるのです。

否定的なほうが安心~心理ゲームの罠~

2011-09-07 12:51:05 | 交流分析
分析が苦手と思っていた私ですが、交流分析を深く学ぶほど、わかりやすい理論だと感じています。人の心の不可思議さを知るためにもとても有効だと思います。

なぜこんな行動をとってしまうのか、なぜこんなことを言ってしまうのか…

人生に抱えるほとんど問題は、子供の頃の体験からうけた感情であるということです。
それは、子供の頃にうけたストロークの影響です。

親の愛情(ストローク)をもらいたいために問題を起こし、否定的ストロークでも欲しがるということは前回書きました。
子供の頃、否定的ストロークばかりもらい続けると、それに慣れ親しんでしまい、嫌な感情になるけれど、逆に安心もするのです。ここが不可思議なところです。
なので、大人になってもその慣れ親しんだ否定的ストロークが欲しいために心理ゲームを仕掛けるのです。もちろん、無意識なので、本人はまったく気づいていません。

近くに、良いストロークを受けつけない人っていませんか?
なぜか、つっかかってくる人っていませんか?

慣れ親しんだ否定的ストロークが欲しくてそのような態度になってしまうのです。
ダメだとわかっていても、あとで自己嫌悪になるのはわかっているのだけれど、そのほうが安心なのです。あ~不可思議です。

そのような人とは距離をとることが一番の解決と言われるのですが、本当は、その相手はあなたに助けて欲しいのです。
ストロークをもらいたいのです。
もちろん良いストロークが欲しいのですが、それをもらい慣れていないので、苦手なのです、反発したいのです。

他人の場合、距離をとっても問題ないかもしれませんが、親子など近い存在では、距離をとるだけでは、相手も自分自身も解決にはなりません。いつまでも苦しいような違和感があり、幸せは感じられません。

では、どうすれば…

・ゲームの罠にはまらないこと。
・あくまで肯定的ストロークを与え続けること。

問題行動や、否定的な言葉を言う相手に肯定的ストロークを与え続けることは至難の業です。
でも、それが自分自身の成長の機会なのかもしれません。

前回は、メインテーマ?の「人生脚本」だったのですが、うまくまとまられず、長くなるので、分けて投稿しようと思っています。

なぜいつも同じようなケンカになるのでしょう~心理ゲーム~

2011-09-03 20:18:35 | 交流分析
交流分析、明日の復習…

人は欲しいストロークがもらえないと、否定的なストロークでも手に入れようとします。周囲の人達と繰り返し不快なやりとりをして飢餓状態から脱します。

いつも同じようなパターンでケンカが始まり、お互いに嫌な気分で終わる・・・このような関わりを繰り返ししてしまう事を、交流分析では、「心理ゲーム」と呼んでいます。

代表的なものに「キック・ミー」他あります。

なんだかゲームというと楽しいような気がしますが、不快な感情になるものです。
近い存在(親子・兄弟・夫婦・上司と部下など)で多くみられます。
なんでいつも同じようなことで、もめているんだろう~なんてこと、誰でも経験があると思います。きっと心理ゲームの罠に、はまっているのです。

このゲームには、「仕掛ける人」と「乗る人」がいます。
ゲームを仕掛けるということは、仕掛ける人がストローク不足であるということです。

でも、人はなぜ、そこまでしてストロークが欲しいのでしょうか。

以前、書いたことがあるスーザンの記録映画にもあるのですが、赤ちゃんの時から「無視や無関心」などのノーストロークでは、精神的な成長はもちろんですが、身体的な成長もできない、生きていくことが困難なのです。

たとえ大人になっても「無視や無関心」が続くと、強烈な無価値感を感じ、自分は存在するに値しない人間だという感情をよび、生きていくことが辛くなるのです。
この感情はどうしても回避したい…ですから、否定的なストロークでも求めてしまいます。

でもこのゲームは繰り返し、終わることがなく否定的ストロークがたまっていくばかりです。
「これはゲームだ」と気づいた側がゲームをしない決断をすれば終わることが可能です。

自分の近くにゲームを仕掛ける人がいたら、「あ~ストロークが欲しいのね」と冷静に受け止め、肯定的ストロークで返してみる(たとえば、ありがとう)な~んて言ってみたら面白いかも・・・ゲームにならないでしょう。

あ、こっちのゲームだったら面白いかも…仕掛け人がどんな反応をするのか楽しむゲームに。