【史料1】北条高広・同景広宛上杉謙信書状
(前欠)ものニ候間、人ニ被為見間敷候、今一人飛脚ハ爰元見合、一功之上返可申候、万吉重而謹言、
追而、信玄甲府ニ候歟、又何方ニ候哉、聞届可申越候、又申候、十七日大手口ニ人数見え候とて注進申候間、身之馬廻春日山江返候得者如何ニも無事ニ候間、案間布候、以上、又申候、三人之飛脚書中可渡由申候得者、馬廻之者共□□時いれ候より府江帰候□□□□へ飛脚ニ越候、十七日府内さわき□□□馬廻之者、返候時分以外□□□帰とて、陣之上下驚候間、左様之義、先々越候飛脚可申候、少も不思議(後欠)
九月廿二日 謙信(花押a)
北条弥五郎殿
北条丹後守殿
この元亀3年に比定される書状(長岡市立中央図書館所蔵)は、見ての通り本文の殆どを欠き、越中国富山に在陣中の上杉謙信が、上州厩橋城の城代である北条高広・同景広父子に対して、一体何を人に見せてはいけないと注意を促しているのか、全く分からないのでもどかしさを感じる一方、あらかた残っている追而書のおかげで、謙信が、9月17日に甲州武田軍が越後国の府城である春日山城の大手口方面に姿を現したとの急報に接し、慌てて自分の馬廻衆を春日山城に帰還させたことが分かる。
【史料2】長尾顕景宛上杉謙信書状
追而、此書中大和守所へ届可給候、以上、
重而懇比ニ申越候、入心候、心馳難申尽候、山吉はしめ身之案候ニ、一度も飛脚不越候ニ、両度誠喜悦候、其元留守中簡要ニ候間、返々各其元ニ差置、同事ニ備可申付候、爰許之義者案間敷候、以上、
九月廿七日 謙信(花押a)
長尾喜平次殿
【史料3】上杉謙信書状
猶々一左右可申候、其時分待入候、身之者共、其元へ差越、無人候間、其方者共ニ、陣之番申付、昼夜辛労申候、如何様見参之折節、礼を可申候、以上、
細々入心人給候、心馳喜入候、殊従余方増人数、多差越候、人目与申肝要ニ候、如何様其口聞合、可及一左右候、其時分身之者共召連、着陣可為目出候、以上、
十月三日 謙信(花押a)
〇宛所欠
【史料4】長尾顕景宛上杉謙信書状
入心細々音信喜入候、随而爰元さへ雪断而降候間、信州境定而可為深雪候条、身之馬廻召連、早々可被越候、爰元者弥可然候、此義老母江可申候、以上、
十月十日 謙信(花押a)
喜平次殿
【史料5】長尾顕景宛上杉謙信書状
其許雪降候由註進、細々入心大慶候、爰許も雪降申候、依之馬廻之者召連可被越由、先書ニ申候キ、定而此飛脚道ニ而相候得共、返事申候、被越候者、被越候者前へ飛脚を可被越候、迎を可出候、万吉令期面候、謹言、
追而申候、爰元ニ而も上鷹しい入させ申候、おほ鷹もしゝをかけ申候、被越候者、かし可申候、以上、
十月十二日 謙信(花押a)
喜平次殿
【史料6】長尾顕景・山吉豊守宛上杉謙信書状(封紙ウハ書「喜平次殿・山吉孫二郎殿 謙信」)
今日ハてんきあしく候間、無用ニ候、明日てんきミやわせ可越申候、以上、
十月廿二日
孫二郎殿
喜平次殿
そして、こうした事情が分かることにより、富山陣での越年を決めた謙信が、越府に残留させた甥の長尾顕景(のちの上杉景勝)に対し、府城の状況を心配しているにも係わらず、同じく越府に残留させた側近衆が一度も連絡を寄越さないなか、心のこもった連絡を二度も寄越してくれたので、ひときわ喜んでいること、積雪期を迎えて甲州武田軍は信・越国境を越えられないため、先だって春日山城に帰還させた馬廻衆を引き連れて当陣へ到来するべきこと、馬廻衆の代わりを上田衆(長尾顕景の家臣団)に務めさせているので、対面の折に謝意を表すること、いずれ当地に於いて鷹狩りを催すつもりなので、その折には鷹を貸し与えること、このように謙信が甥に寄せた慈愛のほどを伝える五点の年次未詳文書(上杉家文書)を元亀3年に比定できたわけで、実にありがたい代物です。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1123・1454・1456・1457・1459・1461号 上杉謙信書状