越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年12月】

2013-10-13 15:52:37 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)12月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


朔日、攻略した常陸国小田城(筑波郡)に在陣している東方の味方中のうちの太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国太田の佐竹氏の客将)・梶原源太政景父子の許へ派遣した使者の大石右衛門尉(輝虎旗本)へ宛てて書状を発し、多賀谷(修理入道祥聯。俗名は政経。常陸国下妻城を本拠とする常陸国衆)の所から
申し越してきた様子によれば、氏治(佐竹氏らと対立する常陸国衆の小田氏治。もとの小田城主)が片野城(常陸国北郡)へ向かって攻め懸かけてきたところ、美濃守(太田道誉)が打ち出でて一戦を遂げ、大利を得て、殊に小田城を乗っ取ったそうであり、気分が好いこと、しかしながら、義重(常陸国太田城を本拠とする佐竹次郎義重)を(太田が)小田陣へ引っ張り出したので、宇都宮(弥三郎広綱。下野国宇都宮城を本拠とする)や多賀谷をはじめとする東方の衆が小田の地に勢揃いしているので、東方の味方中は輝虎方へ手合いの者(同陣してくる者)は一人もいないこと、(太田・梶原父子が)身(輝虎)との約束を後回しにして、小田の戦後処理に懸かり切りになる時には、宿願を捨て去って、片野・小田に執心する覚悟が見えたならば、早々に吾分(大石右衛門尉)は帰ってくるべきこと、もしまた、(太田父子が)岩付(武蔵国埼玉郡)・松山(同比企郡)に復帰する宿願を心懸け、身方(輝虎)への忠信をも励み続ける気があるにおいては、(大石は)小田から直接に(佐竹)義重を先導し、(佐竹へ)早々に同陣をするように努めるべきであると、申し届けるべきこと、とかく(当軍勢は)越中で百日間の張陣に及んだ労兵なので、当地(関東)に長居はしていられないこと、松山・岩付にも事情などがあるので、これまでのように美濃守(太田道誉)が心得ているのであれば、後悔する事態になるであろうこと、義重と美濃守かたへの書中を添えたので、吾分(大石)が直接手渡してほしいこと、其元の様子の逐一を手日記にまとめ、誰か適当な者に託し、この口へ寄越すべきこと、また、同陣要請について、軽く考えている者をも、大美(太田道誉)が参陣するか否かを迷っている様子をも、この飛脚に早々先へ申し越すべきこと、(ここ最近の)美濃守の様子を伝え聞く分には、多忙を極めているようには思えないこと、このところを源太(梶原政景)に申し届け、美濃守への結文(結状)を、源太も同席させたうえで、吾分(大石)が直接手渡すべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、すでに武・上両国の人数が勢揃いしていること、殊に藤田(新太郎氏邦。北条氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)から申し越された情報によれば、(甲州武田)信玄が駿州へ打ち出してきたようなので、これより輝虎も沖中(上州の中央部)へ打ち出でること、手立てを催したあとに美濃守が到着したのでは、何も用立たないばかりか、宿願も達せられないこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』864号「大石右衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、大石右衛門尉へ宛てて、続けざまに書状を発し、追って、(常陸国)小田が落居したからには、(常陸国太田の佐竹)義重は一方の手が空いたわけなので、いよいよ(義重は)何かにかこつけて(同陣を)拒めないにより、表裏がなければ、同陣するのではないかと思われること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』847号「大石右衛門(尉)殿」宛上杉「旱虎」書状写 ●『謙信公御書集』巻九)。


※ 諸史料集では「於表裏者」であるが、『謙信公御書集』では「於無表裏者」とあり、後者でなければ、意味が通りにくい。



4日、同盟関係にある相州北条氏政(左京大夫)から書状が発せられ、(輝虎が)越中から御馬を納められたそうであると、由信(由良信濃守成繁。上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)が申し越してきたこと、そうしたわけで、使者をもって申し届けたこと、殊に越中表を余すところなく御本意を遂げられたそうであり、誠にもってめでたく大慶に勝るものはないこと、詳細は(添付した)条目をもって申し届けるので、すべての条々に漏れなく御返答を願うところであること、つまりは、寒気の厳しい時分であろうとも、迅速に御越山を果たし、(甲州武田)信玄を追い詰められるための御手立てを願望していること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』848号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。


6日、相州北条方の駿河国蒲原城(庵原郡)が甲州武田軍の猛攻によって攻め落とされる。相州北条方は、城主の久野北条新三郎氏信(幻庵宗哲の世子)、その弟である箱根少将融深(長順)・清水新七郎(清水太郎左衛門尉康英の嫡男。伊豆衆)・笠原美作守(伊豆衆)・狩野介(松山衆)らが、甲州武田方では、小幡上総介信実(西上野先方衆)の弟である小幡弾正左衛門尉信高が戦死している。清水新七郎の戦死は誤報であった。



8日、関東味方中の成田左衛門次郎氏長(武蔵国忍城を本拠とする武蔵国衆)の家老である手嶋左馬助長朝(譜代衆)へ宛てて、自筆の書状を発し、成田左衛門二郎かたから使僧を寄越してきたところ、吾分(手島長朝)は何も言って寄越さないこと、心配していること、今後は美作守(手嶋高吉)の在生時のように奔走するのが適当であること、それを伝えるために筆を取ったこと、これらを畏んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』851号「手島左馬助殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


同日、相州北条氏康(相模守)が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、山吉方(越後国上杉家側の取次である山吉豊守)から其方(由良成繁)へ糊付けの一札を回覧してもらい、まずもって本望であること、つまりは、この(輝虎から示された)一儀に極まるので、(越陣から立て続けに到来した)先使三人に存念を申し含めて送り返したこと、(輝虎が)倉内(上野国沼田城)において御越年されるように念願していること、山吉方へ念入りに申し届けられ、(輝虎の)御返答に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』852号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏政(左京大夫)が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、越(輝虎)からの御使者が到来し、彼の者の口上を漏れなく聞き届け、御返答に及んだにより、考慮を遂げられ、いよいよ(由良成繁の)適切な御奔走が肝要であると思っていること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』853号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状写)。


9日、友好関係にある奥州会津(黒川)の蘆名平四郎盛興へ宛てて返状を発し、(輝虎が)越中へ進発したについて、わざわざ脚力を寄越してくれたので、大慶極まりないこと、彼の国は思うがままに静謐を遂げたからには、北条氏政へ手合いをするために越山し、先月20日に当地倉内(上野国利根郡の沼田城)へと打ち着いたこと、(このうえは)関東の諸勢を引き連れ、氏政と同陣し、(甲州武田)信玄を追い込むための兵略の相談に抜かりはないので、御安心してほしいこと、なお、詳細は盛氏(蘆名止々斎。盛興の父)へ申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』854号「芦名四郎殿」宛上杉「輝虎」書状写)。


同日、相州北条氏政(左京大夫)が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、このたび輝虎が(関東へ)御出陣してくれたので、最前からの筋目といい、其方(由良成繁)には(越陣へ)御参陣してもらって、いちずな御精励が専要であること、委細は使僧の松(昌)甫が口上にて申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』855号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。


12日、駿河国薩埵山陣(庵原郡)の相州北条軍が後退する。


15日、輝虎の倉内着城の報に接した今川氏真(上総介。駿河国平山(千福)城に拠る)から書状(謹上書)が発せられ、兼ねての約束に任せられ、雪中を押し分けて(関東へ)の御出張は、大慶であること、(今川氏真が)本意を達するには、(輝虎の)御骨折りに極まること、その口の様子を示し給うように願うところであること、なお、(詳細は使僧の)東泉院の口上に附すこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』856号「謹上 上杉殿」宛今川「氏真」書状 封紙ウハ書「謹上 上杉殿 氏真」)。

同日、今川氏真から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の三人衆へ宛てた条書が使僧の東泉院に託され、覚、一、深雪の折、御越山は誠に御苦労の極みであり、まったく本望に勝るものはないこと、一、信・甲両国へ向かって、早々の御出勢を願うところであること、一、当口の臨戦態勢に、まずもって異常はないこと、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』857号「倉内江」宛今川氏真朱印状【印文「桶」】)。

同日、今川氏真の側近である朝比奈泰朝(備中守)から、上野国沼田城の三人衆である松本石見守景繁(すでに城将を退任している)・河田伯耆守重親(大身の旗本衆)・上野中務丞家成(譜代衆)へ宛てて、初信となる書状が発せられ、これまで申し交わしてこなかったとはいえ、申し達すること、よって、輝虎の御出張の件について、(今川氏真が)東泉院をもって申し入れられること、その地(沼田城)において、適切な御取り成しが専要であること、彼(東泉院)の口上にて申し上げるにより、(この紙面を)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』858号「松本石見守殿・上野中務丞殿・河田伯耆守殿 御宿所」宛朝比奈「泰朝」書状写)。


18日、相州北条方の取次である藤田新太郎氏邦が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、倉内(上野国沼田城)への御返事に及ぶこと、早々の御届けを頼み入ること、よって、御同陣がなされ難い事情などと、蒲原城(駿河国庵原郡)の結末について、委細は(使僧の)昌甫へ申し渡すと申されていること、輝虎が御出馬するのに伴い、我々(藤田氏邦)や遠左(氏康の側近である遠山左衛門尉康光。小田原衆)が参陣致すべきところ、蒲原の落城以来、爰元はますます余裕が失われたこと、御察しに勝るものはないこと、一両日中には鉢形城(武蔵国男衾郡)へ帰られるにより、とりもなおさず、申し達するべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』859号「由信 御宿所」宛藤田「新太郎氏邦」書状写)。

22日、在府中の藤田氏邦が、伊豆国韮山城(田方郡)に在陣中の遠山左衛門尉康光へ書状を発し、取り急ぎ飛脚をもって申し伝えること、去る20日に鉢形を罷り立ち、昨21日には当地小田原へ罷り着いたこと、此方(小田原)において御実城(氏康)の御草案と山孫(山吉孫次郎豊守)からの一札の模様を拝見したこと、使者の(三山)又六と安富が小田原から戻るのを待たずに、此方(小田原)で(氏康の)御意を直接受けるため、昼夜兼行で駆けつけたこと、とりもなおさず(氏康の)御直書を其方(遠山康光)へ寄せられるので、必ずや飛脚が参ること、こうした御実情を(輝虎に)御理解してもらえたそうなので、(氏康は)ひときわ御満足されていること、遠新(遠山新四郎康英。康光の嫡男)に数名の徒輩を添えて利根川端に寄越されたので、山孫(山吉)の御同心衆から数名を迎えに寄越してもらうべきこと、我々(藤田氏邦)が越陣に出向く際には、(氏康の)御意向により、体裁を整えるために大駿(大道寺駿河守資親。武蔵国河越城の城代)が付き添われること、これは当然の対応であろうこと、先頃に何度も承ったところでは、(氏康に)出家遁世する意思はいささかもないので、御安心してほしいこと、詳細は新四郎方(遠山康英)に同道して、そちらへ参った時分、あらためて申し伝えること、当家は存続にかかわる難局を迎えられており、使者・飛脚の遣り取りでは済ませられない状況なので、一切合切を把握して越・相両国の御連携が機能するように取り持ちたい一心であり、昼夜に関係なく奔走するつもりなので、この覚悟を山孫(山吉)に御理解してもらえるように取り次いでもらいたいこと、明後24日に此方(小田原)を罷り立つにあたり、まず申し入れたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1361号「遠左」宛藤田「氏邦」書状)。

同日、藤田氏邦の側近である三山五郎兵衛尉綱定が、由良信濃守成繁の年寄中へ宛てて書状を発し、取り急ぎ飛脚をもって申し入れること、このたび越国(越後)から到来した使者の進隼(進藤隼人佑家清(旗本衆)が、先だって越陣へ帰るのと入れ替わるように、越陣から相府小田原へ御状が送られたこと、昨晩に相府から当鉢形城に御返札が届くと、今朝方に脚力をもって新田へ発送したので、早々に越陣へ転送してほしいこと、詳細については御直札に示されていること、越陣に居る篠治(篠窪治部。相州北条氏の使者。連絡要員として越陣に在留か)から去る19日付の一札が届き、来る24日に(輝虎が)西上州へ御出張するにあたり、(越後国上杉家側から)氏照(氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)と氏邦が御同陣されるべきとの仰せを申し越されていること、必ずや御貴城(由良成繁)へも篠治(篠窪)を通じて参陣要請が寄せられるであろうこと、未だに氏邦は帰城されないこと、繰り返し事情を申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』860号「信州 参人々」宛「三五 綱定」書状)。


26日、相州北条左京大夫氏政から書状(謹上書)が発せられ、歳暮の慶賀は永続であること、三種一荷を進上すること、誠に祝儀を表するばかりであること、委細は明春に申し承ること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』861号「謹上 山内殿」宛北条「左京大夫氏政」書状)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(法性院)は、12月6日、相州北条方の駿河国蒲原城を攻略すると、敵の部将である清水新七郎(実際には別人であったらしい)を討ち取った駿河先方衆の孕石主水佑元泰に感状を与え、このたび蒲原に向かい、敵と干戈を交えた折、最前で戦いに挑み、そのうえ敵首ひとつ「清水新七郎」を討ち取ったにより、いつもながらの顛末とはいえ、武勇の名誉は計り知れないこと、よって、駿州の内で格別な一所を宛行うこと、なお、ますます戦功を重ねれば神妙であること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡している(『戦国遺文 武田氏編三』1479号「孕石主水佑殿」宛武田「信玄」感状)。

同日、上野国岩櫃城代の真田一徳斎(号幸隆。信濃先方衆の真田弾正忠幸綱)・真田源太左衛門尉信綱父子へ宛てて、直筆の書状を発し、取り急ぎ一筆を染めたこと、今6日に蒲原城の根小屋に火を放ったところ、在城衆の総勢が出撃してきたので、一戦して勝利を挙げ、城主の北条新三郎(氏信)を始めとして清水(新七郎)・狩野介ら主要な部将を残らず討ち取ると、即時に城を乗っ取ったこと、まさに前代未聞の戦果であること、本城に山県三郎兵衛尉(昌景。譜代衆)を置いて防備を整え、この表の勢力図を一変させて本懐を遂げたので、安心してほしいこと、これらを恐れ畏んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1480号「一徳斎・真田源太左衛門尉殿」宛武田「信玄」書状写)。

10日、濃(尾)州織田弾正忠信長へ宛てて書状(謹上書)を発し、こたび良い機会を得たので申し上げること、輝虎は上州沼田まで出張してきたが、上意(足利義昭)と貴辺(織田信長)の御計略が進むなか、某(武田信玄)の分国に攻め入ってこないはずであること、ただし、迂闊にも手出しをしてきたならば、その無意味な行為を後悔するはめになるであろうこと、家老の者共が、先ずは信州へ出馬して諸城に厳重な防備を申し付けるべきであるとの意見を具申してきたこと、上意(足利義昭)の御下知に加え、貴所(織田信長)の和睦の御調停も半ばに達しており、深慮した結果、駿州への出張を選択したこと、去る6日に蒲原城を攻め落とし、北条新三郎以下の凶徒を全滅させると、信玄自ら当城を確保したので、御安心してほしいこと、今後の輝虎の出方については、ひとえに信長の調略に掛かっていること、近日中に使者の市川十郎左衛門尉(直参衆)をもって詳述すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1481号「謹上 弾正忠殿」宛武田「信玄」書状)。

同日、徳秀斎へ宛てて返状を発し、蒲原の落着について、早々と御音問が寄せられたので、めでたく喜ばしいこと、去る6日に当宿城の攻撃を始めて火を放ったところ、例の如く向こう見ずな四郎(勝頼。信玄の四男で世子となった)・左馬助(信豊。信玄の甥)が、無謀にも要害を攻め上ってしまったので、大いに肝を冷やしたが、意外にも両者の率いる軍勢は立ち向かってきた敵を追い崩し、城主の北条新三郎兄弟・清水・笠原・狩野介ら主立った部将に加え、要害に立て籠もる士卒を残らず討ち取ったこと、当城は海道一の険難な地であり、このように容易く攻め落とすなど、人のなしうる業ではないこと、そればかりか味方は全員無事なので、御安心してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1482号「徳秀斎へ 御返報」宛武田「信玄」書状写)。

19日、西上野先方衆の高山大和守(実名は泰重か。上野国高山城を本拠とする上野国衆)へ宛てて返書を発し、蒲原の落居について、わざわざ書状を寄せてくれたので、めでたく喜ばしいこと、海道随一の当地を瞬く間に攻め落とし、そればかりか北条新三郎(氏信)・狩野介・清水以下の凶徒を残らず討ち取ったので、御安心してほしいこと、この勢いに乗って相・豆両国の間に攻め入るべきところ、輝虎の沼田在陣には色々と疑念を感じるので、当城の修復を終え次第、帰府してから信濃国岩村田(佐久郡)まで出馬すること、なお、面談の時を期していること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『
戦国遺文 武田氏編三』1485号「高山大和守殿」宛武田「信玄」書状)。

23日、濃(尾)州織田信長の側近である佐々伊豆守良則(御馬廻衆)へ宛てて書状を発し、市川十郎右衛門尉長々と岐阜に留め置いているところ、格別に手厚くもてなしてもらっており、感謝してもしきれないこと、よって、先月20日に輝虎が上州沼田まで出張してきたが、深慮の結果、駿州へ出陣すると、思い通りに勝利を挙げたので、すこぶる満足していること、詳細は彼の者が口述するので、この紙面を略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編三』1486号「佐々伊豆守殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『謙信公御書集』(臨川書店)

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