越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年3月前半】

2013-04-14 16:01:15 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)3月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


越後国村上城(瀬波(岩船)郡小泉荘)の攻囲を続けるなか、朔日、外様衆の新発田尾張守忠敦(越後国蒲原郡の新発田城を本拠とする)に陣屋へ自筆の書状を届け、取り急ぎ申し遣わすこと、先月はじめの時分は、陣衆の各々は昨年以来の労兵ゆえか、(村上)要害を攻めた折も、まるで戦いに身が入らず、輝虎ばかりに任せっきりの状態で、ひとつも輝虎の言い付けに従わないため、慄然としたので、万が一このうえにも他国に付け込まれて凶事を招きでもすれば、何を言っても、旱虎が滅亡してからでは、どれほど多くの言葉を費やして後悔したところで、もはや誰の耳にも届かないこと、(そこで諸将に証人の提出を要求したところ)色部弥三郎(顕長。同瀬波(岩船)郡の平林城を本拠とする)の家中は、地下人までも証人を取り、そのほかでは黒川(四郎次郎平政。同蒲原郡の黒川城を本拠とする)も同様に、安田(治部少輔。同蒲原郡の安田城を本拠とする)は召し使う神子田までも(安田の地から)呼び寄せ、しっかりと差し出した気遣いぶりであるので、世間の叛意のなか、旧冬に誓詞を取り交わして確認した通り、其方(新発田忠敦)の手前承らなかったこと、そうではあっても、(この先)どのような変転があるかもしれないと思い、証人を取りたいこと、国中(越後国)には、其方(新発田)のほかには証人を差し出していない方はいないので、このように説き勧めていること、決して其方(新発田)が叛意や悪意を抱いていると考えて、このように説いているわけではないこと、其方(新発田は)爰元(村上陣)の地形を詳しく知っていること、三ヶ津というのは、阿賀野川と信濃川を打ち越えること、また荒川も激しい大河にて徒歩では越えようがなく、このような難所を数多立ち越えて、張陣したにより、もしこのうえも悪事が起こって、(国衆が)一頭でも二頭でも陣を払ってしまえば、とりもなおさず当陣の崩壊は現実となってしまうのではないか、そうなってしまえば、(国衆の)手合わせがないと滅亡してしまう愚(輝虎)の立場を弁えているにより、(国衆との関係を)おろそかにしないところは、以後も説明していくつもりなので、其方(新発田)の証人をも、この理屈をもって取りたいこと、先刻から其方へこのような説明をしたをしたところは、愚の所存に偽りはないこと、(もしこれを違えたら)八幡・摩利支天・愛宕・日本中の大小神祇に加え、旧冬に交わした誓詞の御罰を蒙ること、其方(新発田)が雑意表裏を構える事実は、今日に至るまで聞こえないこと、有事に備えるために証人を取りたいこと、詳細は孫次郎(鮎川盛長。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城を本拠とする)・源二郎(新発田長敦。忠敦の嫡男)が爰許(輝虎本陣)にて見聞きしており、いささかも愚(輝虎)の存分に偽りはないこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、其方(新発田)も五百から一千ほどの人数を預かる身であるにより、理解されているであろうこと、(輝虎が)長い間、抱いてきた宿望は、家中の証人をいずれも取り置き、安心を得るというのもで、(そうした宿望を抱いているのは)旱虎手前ばかりではないであろうこと、当然ながら理解できると思われること、自分のためではなく、国中の諸士の安心につながるので、これよりは一律に(国衆へ)こうした同様の説明をしていくこと、本庄弥次郎(繁長)には数々の懇意を加えてきたにもかかわらず、このような大事を引き起こしたので、この気遣いをもって、証人を取るのを各々へ説得したのも、仕方がない事情であると思われること、(新発田との入魂の関係を)おろそかにしないところは誓句で露わにするので、筆を擱くこと、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』674号「新発田尾張守殿」宛上杉「旱虎」書状写)。


※ 当文書の解釈は、山田邦明氏の論考である「上杉輝虎の人質要請」(『戦国史研究』43号)を参考にした。


〔新たに友好関係を結んだ三州徳川家康との交信〕

13日、越後国上杉家側の取次である河田豊前守長親が、徳川家側の取次である石川日向守家成(西三河の旗頭)・酒井左衛門尉忠次(東三河の旗頭)へ宛てて、初信となる返状を発し、これまで申し交わしていなかったとはいえ、一札をもって申し上げること、もとより(徳川)家康から御使者をもって、格別に当方(越後国上杉家)へ仰せ談ぜられた旨は、両家の思惑が一致し、祝着であるとのこと、されば、駿州(今川家)と貴州(徳川家)の御間の事情については、御使いの弁才により、(輝虎へ)申し入れられたこと、(事情を理解した輝虎からの)委細は(徳川の使者の)口上に附与されたこと、聞き届けられて御斟酌あり、御理解されるのが適当であること、遠境ではあっても、今後も御本意を申し承れば快然であること、なお、後音を期すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』600号「石川日向守殿・酒井左衛門尉殿 御宿所」宛河田「長親」書状【封紙ウハ書「酒井左衛門尉殿・石川日向守殿 御宿所 河田豊前守 長親」】)。


※ 当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は永禄11年に仮定しているが、本多隆成氏の著書である『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争 歴史文化ライブラリー 482』(吉川弘文館)に従い、当年の発給文書として引用した。



〔常陸国太田の佐竹氏の客将である太田道誉・梶原政景父子との交信〕

15日、関東味方中の梶原源太政景へ宛てた条書(朱印状)を使者に託し、覚、一、関左の(情勢についての)条書の趣を、(味方中が)聞き届けるのが肝心であること、口上、一、其方(梶原政景)の処遇の件を、これも聞き届けてほしいこと、この補足として、父子(太田道誉・梶原政景)の処遇のこと、口上、一、この調儀(越後国本庄村上陣)のこと、口上、佐(佐竹義重)と会(奥州会津の蘆名止々斎・同盛興父子)の(和睦の)こと、一、甲(甲州武田信玄)と駿(遠江国懸川在城の今川氏真)の(争乱の)こと、この補足として、(甲州武田領内の上野国群馬郡)倉賀野ならびに信州の地利などのこと、一、(上野国利根郡)沼田の(防備態勢の)こと、この補足として、(同勢多郡
)棚下ならびに網代のこと、口上、一、(輝虎)留守中における越府の防備態勢のこと、この補足として、諸方へ施す計策のこと、口上、一、今後に遣わす使者・飛脚の予定を差し越すこと、以上、これらの条々を申し伝えた(〔岩付太田氏関係文書〕1号 「梶原源太殿」宛上杉輝虎条書【印文「梅」】)。


※ 当文書は、新井浩文氏の論集である『関東の戦国期領主と流通 ー岩付・幸手・関宿ー 戦国史研究叢書8』(岩田書院)の「第一部 岩付太田氏 第五章 岩付太田氏関係文書とその伝来過程」に所収されている。


一方、関東味方中の太田三楽斎道誉(美濃守資正。常陸国太田の佐竹氏の客将)が、3月10日、房州里見家の宿老である小田喜正木弥九郎憲時(上総国夷隅郡の小田喜城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、越府(輝虎は越後国奥郡の村上城を攻囲中)へ遣わされた御使者が早々に帰宅し、輝虎からの拙者(太田道誉)への(輝虎の)御直書を回覧するとはいえ、これというほどの内容ではなかったこと、それでもまた(輝虎の)諸方への御戦陣は大したものではなかったとはいえ、御奇特ではあったこと、言うまでもなく、この機に乗じての御精励に極まること、佐竹(義重)においても当月中に(下総国結城郡の)結城と(下野国都賀郡の)小山の間に出馬されること、伝えたい事柄は多くあるとはいえ、路次は急を要するので、(この紙面は)省略すること、このところを御理解してほしいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 房総編二』1320号「正木弥九郎殿」宛太田「三楽斎道誉」書状写)。



〔同盟交渉中の越・相の交信〕

駿河国在陣中の当主の氏政に代わりに交渉を担っている御本城様こと相州北条氏康(相模守)は、越後国村上陣の輝虎の許へ使者の猿楽八右衛門尉を派遣するため、輝虎とその重臣、上野国沼田城の在城衆へ宛てた書状を用意する。

3月3日、直状を認め、去る頃に、心底の趣は宝印を翻し、(使僧の)天用院をもって申し届けたこと、これにより、重ねて申し上げること、もとより、薩埵陣の様子は、小河を挟んで対陣に及んでいること、この機会を逃さずに飯山口(信濃国水内郡)に向かって御出張を一日も急がれるのを念願していること、万が一にも氏政が敗北することにでもなれば、後悔してもどうにもならないので、心腹を残らず申し入れること、御同意を仰ぐところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』675号「上杉弾正少弼殿」宛北条「氏康」書状)。

同日、越後国上杉家の重臣である柿崎和泉守景家(譜代衆)、同じく直江大和守景綱(大身の旗本衆)のそれぞれに宛てた書状を認め、去る頃に善徳寺茄首座(今川氏真の使僧)ならびに天用院(相州北条氏康・同氏政父子の使僧)をもって、申し届けたところ、(両使僧は)沼田の地に押し留められ、松石(松本景繁)が越山されたそうであること、それ以来の様子が伝わってきておらず、心配に思っているので、猿楽(勝田)八右衛門という久しく信頼を寄せて召し仕っている者を(輝虎の許へ)向かわせること、さて、薩埵山陣の様子は、いよいよ間近に詰め寄り、去る2月26日と同28日の競り合いで勝利を得て、両日で敵百余人を討ち取ったこと、殊に長延寺(実了師慶)の弟である本郷八郎左衛門尉をはじめとした主立った者共であること、このように敵の動きを堅く封じているからには、(輝虎が)一日もその口(信濃国)へ御出張を急がれるのを念願していること、そのために重ねて彼の者(猿楽八右衛門尉)をもって申し届けること、委細は(猿楽の)口上のうちにあること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』677号「柿崎和泉守殿」宛北条「氏康」書状写、676号「直江太和守殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、沼田在城衆の松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てた書状を認め、一、越・相の間を取り扱う立場から、旧冬以来、源三(北条氏照)と新太郎(藤田氏邦)は必ず成し遂げる覚悟で、ひたすらに思い詰め、様々に精励致していること、とりわけ、新太郎は愚老(北条氏康)が申し付け、由信(由良信濃守成繁)と共に取り扱うについて、確実に調えていること、源三の方も力の及ぶ限り奔走しているところで、放って置けないので、天用院をもって誓句を届ける折には、源三・新太郎の扱いを一つに致し、(誓詞)両判をもって副状を申し付けること、ところが、それぞれの陣中から届くのが三日も遅れ、2月13日に来着したこと、(誓詞を持参する)天用院は10日に当地(小田原)を出立したこと、そうしている間に、その折に両判副状を差し押さえ、愚老が預り置いていたのを、このたび届けること、一、今後の取り扱いの件については、(氏照・氏邦の)両人共に奔走させるか、またはそうではなくて、一人だけを奔走させるのか、とにもかくにも輝虎の御作意次第であること、愚老(氏康)の心底としては、両名共に奔走させてもらえれば、ますます満足であること、ともかく適切な取り扱いを各々(沼田在城衆)に頼み入ること、一、源三(氏照)の方も、由信方(由良成繁)を頼み入り、その同じ手筋をもって申し入れること、なお、爰元に嘘偽りはないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』678号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・上野中務少輔(丞)殿」宛北条「氏康」書状写)。


駿河国薩埵山陣の相州北条氏政(左京大夫)は、父氏康が寄越した遠山左衛門尉康光を輝虎の許へ派遣するため、輝虎と上野国沼田城の在城衆へ宛てた書状を用意する。

7日、直状を認め、去る頃に氏政の心底の趣は、誓詞をもって申し届けたこと、かならず参着するであろうこと、これにより、重ねて一翰に及ぶこと、もとより、甲・相の弓箭は、(北条軍は)ますます隙間なく取り詰めているので、一日も急速に(輝虎の)御出張を願うところであること、そのために遠山左衛門尉(康光。氏康の側近)をもって申し入れること、委細は老父(氏康)が申し届けられること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』685号「上杉弾正少弼殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、沼田在城衆の河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて、初信となる書状を認め、これまでは申し交わしてこなかったとはいえ、申し上げること、もとより、駿・甲・相三ヶ国は長年にわたって入魂の間柄であったところ、武田信玄がこれまで取り交わした数枚の誓約の旨を変えられ、駿州へ乱入したことから、当方としては、仕方がないので、(今川)氏真に一味し、駿州のうちの薩埵山に向かって出張して、正月下旬から今に至るまで甲・相は対陣していること、これにより、先段に天用院・善得(徳)寺をもって、愚意の趣を、越(輝虎)へ申し届けたこと、なお、彼の御出張は今この時であること、遠山左衛門尉(康光)をもって申し入れること、つまりは、各々(沼田城衆)の御精励を願うところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、松石(松本景繁)は越府へ打ち越されたそうでなので、一翰には及ばなかったこと、以上、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』686号「河田伯耆守殿・上野中務少輔殿」宛北条「氏政」書状)。


下総国関宿城に対向している北条氏照(氏政の兄弟衆で、武蔵国多西郡の滝山城と下総国葛飾郡の栗橋城の城主を兼務する)が、9日、直江大和守景綱へ宛てて書状を発し、(輝虎の許へ)重ねて使僧を向かわせること、もとより、駿・甲・相三ヶ国は不慮の弓箭を取られたこと、これにより、相・越両国が一味す要望を、繰り返し申し届けたところ、このたび回答に預かり、誠にもって本望であること、殊に沼田在城衆の河伯(河田重親)・松石(松本景繁)が三ヶ条を申し越されたこと、とりもなおさず(氏康父子へ)披露し、氏政父子は深重に納得したこと、委細は両人(松本・河田)まで申し届けたので、かならず伝達されるであろうこと、すでに20日以前に、氏政の誓詞を、天用院をもって進め置かれたからには、御疑心を晴らされ、急速に御一味を調え、早々に信州へ向けて御出張されるように、御精励されるのは、つまりは貴辺(直江景綱)の御手並みに懸かっていること、なお、(詳細は)使僧の舌頭のうちにあるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』687号「直江大和守殿 参」宛北条「氏照」書状)。


13日、相州北条氏康が、沼田在城衆の小中大蔵丞(実名は光清か。輝虎旗本)へ宛てて書状を発し、越・相和融の件について、繰り返し申し届けたところ、御同意してくれたとのこと、本望至極であること、殊に天用院と向き合われて御入魂にしてくれてたそうであり、祝着であること、このたび遠山左衛門尉(康光)をもって申し届けたので、いよいよ(輝虎への取次に)御奔走されるのが肝心であること、ついでに、一荷一種(酒肴)を贈ること、委細は左衛門尉(遠山康光)が申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』689号「小中大蔵少輔(丞)殿」宛北条「氏康」書状)。



〔相州北条父子と他国衆の由良成繁の交信〕

3月朔日、相州北条氏政(左京大夫)が、駿河国庵原郡の薩埵山陣から、由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、先月26日付の一札が昨晦日に到来したこと、もとより、当府(相州北条氏康・同氏政父子)からの誓詞を、松本(石見守景繁。輝虎から上野国沼田城の城将を任されている)が受け取り、(越後国村上陣の輝虎の許へ)越山したのかどうか、殊に(北条父子の)誓詞が到着したら、(輝虎は)即時に出張する旨の言質を得たのは、誠にもって重要であること、つまりは其方(由良成繁の)奔走ゆえであること、いよいよ(輝虎が)遺漏なく打ち出されるように、(由良が)精励されるべきこと、それからまた、繰り返し知らせているように、日を追うごとに当陣は思い通りになっていること、先月28日には(北条軍本隊が武田軍と)山手において懸け合い、(甲州武田)信玄の親類という長延寺(実了師慶)の弟である本郷八郎左衛門(尉)と号する者をはじめとして、敵十余人を討ち取ったこと、その一両日以前にも、新太郎(氏政の兄弟衆である藤田氏邦)が人衆を河原に伏兵として置き、敵二十余人を討ち取ったこと、今日に至るまで連戦連勝していること、詳細はその地(由良)からの人衆が見聞したので、逐一を注進に及ぶであろうこと、それからまた、信州衆(甲州武田軍)に動きが見られるそうであり、その状況を理解したこと、とにかくその口(上野国)が大事であるので、駆け引きがうまくいくように、貴所(由良)の御奔走が最も肝心であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1165号 北条氏政書状写)。

3日、相州北条氏康が、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、松本石見守(景繁)がようやく(沼田への)帰路の時期であるので、(それに合わせて)使者として勝田(猿楽)八右衛門尉を差し越すにより、この筋目を詳しく聞き届けられ、(猿楽に)御助言を加えるのが肝心であること、このたび彼の国(越後国上杉家)が一和に納得するからには、西口(駿州)の勝負が決するまでに、何としても一日でも早く引き立てられるのは、其方(由良成繁)の手腕に懸かっていること、是についても、非についても勝負が決したあとでは、これまでの苦労も無駄に終わってしまうこと、あれほどまでに調えられなければならないこと、今こそ御精励されるべきこと、いささかも油断があってはならないこと、委細は(勝田八右衛門尉)口上で申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』679号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。

別紙の追伸として、越府(輝虎)から、(相州北条父子からの)誓句の返答を、松本(景繁)が沼田まで持参したならば、輝虎が(信濃国飯山口へ)出張する以前に、まずもって沼田衆は、(上野国吾妻郡)大戸・羽尾・岩櫃筋へ手切れの軍事行動を催すべきであること、沼田三人衆へこの趣を申し届けるべきこと、もとより、西陣は、誠に小河一瀬を挟んで勝負を争っているところで、越府(越後国上杉軍)の御出張が遅れるならば、(輝虎が)偉勲を逃す結果となること、まず一日も取り急ぎ沼田人数をもって、信州境を打ち散ぜられるのが肝心であること、其方(由良)から、よくよく沼田三人衆へ説き勧められるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』680号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状写)。

さらに条書にて、覚、一、松石(松本景繁)が帰路する時期であるので、(勝田)八右衛門尉を向かわせること、一、去る頃に、天用院をもって、宝印を翻した誓詞を、越(越後国)へ差し越したからには、疑心を持たないでほしいこと、すでに西陣の緊迫した様子を、彼の国(輝虎)へ申し届けたところ、(勝田を)沼田に押し留められては、万事が手遅れになるので、何としても(勝田)八右衛門尉を(輝虎の許へへ)向かわせられるように、沼田衆へ申し届けられてほしいこと、一、彼の(輝虎)出張を催促し、飯山筋への御手立てを実現させるため、信州(由良成繁)から懇切丁寧に申し届けられてほしいこと、一、西陣は(当軍が)何度も勝利を得ていること、一、信濃表の敵勢の動向が、その後はどうなっているのかが気掛かりであること、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』681号「由良信濃守殿」宛北条家条書)。

10日、相州北条氏康の側近である遠山左衛門尉康光が、沼田在城衆と会談するために上野国金山城(新田郡新田荘)へ向けての出立を控えるなか、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、沼田両所(河田重親・上野家成)へ(氏政が)御直札をもって仰せ届けられること、よって、以前に松石(松本景繁)・河伯(河田重親)・上中(上野家成)から拙者(遠山康光)へ御書中が到来し、本望に思ったこと、それ以後は申し交わしていないこと、折よくこのたび両所(河田・上野)へ一札申し上げること、松石は越山したと、承っているので、重ねて申し入れるつもりであること、いずれも御理解されて、(沼田在城衆へ)仰せ届けられるのを頼み入ること、委細は(金山着城後に)面上をもって申し達するにより、(この紙面を)省略したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』688号「信濃守殿 御宿所」宛「遠左 康光」書状写)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、3月10日、濃(尾)織田信長へ宛てた条目を使者に託し、条目、一、越・甲和与について、御内書が届いたこと、とりもなおさず御請けに及ぶこと、一、格別な信長の御意見を得たにより、信玄分国中がおびやかされないように、御取り扱いを頼み入ること、この補足として、条々は口上に申し含めること、一、関東についてのこと、この補足として、条々、これらの条々を申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1376号「岐阜江」宛武田信玄条目)。

13日、下総国衆の簗田中務大輔入道道忠(洗心斎。俗名は晴助。下総国葛飾郡の関宿城を本拠とする)へ宛てて、初信となる書状を発し、これまで申し交わしていなかったとはいえ、申し上げること、よって、氏政と信玄の間は交誼が深かったところ、図らずも敵対し、すでに今日明日中にも決戦を迎える状況であること、されば、貴所(簗田道忠)にとっては運が開かれる(相州北条軍の圧迫から解放される)絶好の機会を迎えたのではないかと思われ、味方中と相談されたうえで、武州に向かって御出勢されるのが肝心であること、今後は唯一無二の入魂を結ぶつもりであり、心底から申し入れるものであること、御同意してもらえれば本望であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1377号「簗田中務大輔殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』
◆『戦国遺文 房総編 第二巻』
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』

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