越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年正月】

2013-02-19 10:26:43 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)正月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


12日、常陸国太田の佐竹義重をはじめとした東方の味方中の許へ、相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照から一和を打診された書状の写しや厩橋北条高広からの書状の写しなどを
送る(『上越市史 上杉氏文書集一』658・684号)。


13日、越・羽国境の越後国瀬波(岩船)郡の燕倉に在陣している三潴出羽守長政(輝虎旗本)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し遣わすこと、色部修理進(勝長。越後国瀬波郡平林(加護山)城を本拠とする外様衆)が図らずも遠行(死去)したのは、どうしようもない次第であること、そうではあっても、弥三郎(顕長。勝長の世子)がいるので、力の及ぶ限り取り立てて奔走させるべきこと、このところを家風の者共に言い聞かせるべきこと、従って、ようやく船が自由に運行できるので、渡海をもってその地(燕倉)の軍勢を順次、(村上陣へ)戻すに拠すので、順序を一報するまで、各々は辛抱するように、堅く申し付けておくべきこと、それからまた、大宝寺(出羽国大浦の大宝寺義増)の手合わせはどうなっているのか、たとえ彼の口から手合わせがないとしても、(越・羽国境の越後国瀬波郡)藤懸口へ進陣し、一手に及ぶようであるならば、三郎次郎(大川長秀。越後国瀬波郡の藤懸城を本拠とする外様衆。本庄繁長に通じた弟二人に藤懸城を奪われた)と相談し合い、早々に(藤懸城へ)打ち寄せるのが適当であること、頸城郡の諸口はいかにも安心であるので、年月を当地(村上陣)で送ろうとも、村上においては見続けるので、落居は眼前であること、駿・甲の仲が破綻し、甲州衆千余人が駿州へ打ち入り、殊に南方(相州北条家)が後詰めに及び、甲州衆を生け捕って、一騎一人も逃しはしないと、氏康父子は直接、旱虎(輝虎)かたへ申し越されたこと、南方・当方(越後国上杉家)が一味するのは結構な慶事であるので、いかにも安心してほしいこと、其元(燕倉在陣衆)の奮励が肝心であること、三郎次郎にもこのところを申し聞かせるべきこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』640号「三潴出羽守殿」宛上杉「旱虎」書状写)。


色部勝長は、9日の本庄繁長による夜襲の際に重傷を負い、翌10日に陣没したと伝わるが、実際のところは分からない。


※ 輝虎による越後国村上陣の最中、三潴長政が燕倉城に配置されていたというのは、『戦国人名辞典』の三潴政長(ママ)の項による。


14日、これより前、輝虎と本庄繁長の間の仲裁を請け負ってくれている奥州会津の蘆名止々斎・同盛興父子の許へ派遣された旗本の後藤左京亮勝元が半途から、村上陣の直江政綱(大和守)の年寄中へ宛てて書状を発し、昨13日の尊書を、今日午刻(正午前後)に赤谷(会津領越後国蒲原郡小川荘)の地において拝領致したこと、仰せ下された条々を、詳しく承って理解したこと、会津の御様子は罷り着いたならば、各々の手扱いや心持ちの有様は、かならずはっきり分かるので、早速にも飛脚をもって申し上げること、当然ながら以前に仰せ付けられた筋目を、重ねて仰せ下された通り、游足庵(淳相。蘆名家の使僧)へ御談合致すこと、また、用捨するべき心持ちのところを、示し預かったこと、理解致したこと、何よりもって駿州の御仕合(成り行き)は、とりわけ、大石源三殿(北条氏照)が(一和の)御懇望の御取り扱い、世評も実益も得られてめでたく存じ申し上げること、そして、伊達(羽州米沢の伊達輝宗)への御礼儀についも案内者を召し連れたので、遠藤内匠助方(輝宗最側近の遠藤基信)へ申し届け、時刻を移さず、(輝虎の)御書を例式通りに差し越すこと、御安心してもらいたいこと、御次いでの折に、適宜な御理解に預かりたい旨、(輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』641号「和州 参御報人々御中」宛「後藤左京亮勝元」書状)。

同日、後藤左京亮勝元が、直江政綱の年寄中へ宛てて、別紙の追而書を発し、追って申し上げること、よって、10日に罷り着いたとはいえ、手際が悪いので、両日を務めを励むのに費やし、13日に罷り立ったこと、いささかも悪気は存じ申し上げないこと、山路という御事情があるので、(余計に)数日を送ってしまったものかと、万事を適切に、御次いでの折には、御理解に預かりたいこと、めでたく万事が調った折に重ねて申し上げること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、中途より申し上げ、ますます御覧じ分け(見分け)難いこと、以上、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』642号「和州 参人々御中」宛「後藤左京亮勝元」書状)。


16日、越府の上田長尾喜平次顕景(輝虎の甥。越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、上陽(新年)の祝詞として、太刀一腰ならびに鵝目(銭)二百疋が到来し、快然であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』962号「長尾喜平次殿」宛上杉「旱虎」書状写)。


※ 当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は年次未詳としているが、今福匡氏の論考である「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究』第502号 歴研)に従い、当年に発給された文書として引用した。



17日、外様衆の大川三郎次郎長秀が、年寄三人衆の柿崎和泉守景家・山吉孫次郎豊守・直江大和守景綱へ宛てて書状を発し、取り急ぎ一札をもって申し上げること、よって、大宝寺人数が現れたにより、去る13日に藤懸へ向かい、(大宝寺衆と)手を合わせたこと、とりわけ、(藤懸)城内において拙者(大川長秀)へ手引きする輩があるにより、一両夜にわたって取り詰めるも、結局は手を合わせた者は手立てを失ったゆえ、一両輩は城中において生害してしまったこと、どうしようもない次第であること、しかしながら、そのまま馬を納めるのは、口惜しいので、五日でも十日でも詰めていようと、残り続けるつもりでいたとはいえ、後手の備えが危ぶまれるので、早々に引き返すべきであると、(軍監の)仁中(輝虎最側近の山吉豊守の重臣である仁科中務丞か)・三出(三潴長政)がしきりに催促したこと、某(大川長秀)においては若輩の身であるので、方々の御意見に任せ、翌日に燕倉へ引き返したこと、このうえの予定は、黒川俣・中次・燕倉の三ヶ所の普請を極め、大宝寺の人数と示し合わせ、藤懸へ進陣に及ぶべきと考えていること、申すまでもないとはいえ、御番手の衆を引き上げさせず、御配置を続けられるように、御取り成しを仰ぐところであること、何よりもって其元(村上陣)の御備えは御堅固ゆえ、村上城は逼迫しているとのこと、大慶であること、(新年の)御慶賀の以後は無沙汰していたにより、非礼そのもであるので、特に用件はないとはいっても、脚力に及んだこと、適切な御理解を頼み申し上げること、詳しい御知らせを待ち入る所存であること、めでたく万事が調った折に、重ねて申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』645号「柿泉・山孫・直和 御陣所」宛「大三 長」書状)。

同日、大川三郎次郎長秀が、年寄三人衆の山吉孫次郎豊守・直江大和守政綱・鯵坂清介長実へ宛てて書状を発し、(新年の)御慶賀の以後は御音信に及んでいなかったので、特に用件はないとはいえ、取り急ぎ申し述べること、よって、大宝寺の人数が去る13日にやって来られたので、同日に手を合わせたこと、されば、(藤懸)城内に手を合わせる輩があるにより、一両夜にわたって取り詰めるも、彼の手立てが露見したので、結局は一両輩が城中において生害してしまったこと、どうしようもない次第であること、しかしながら、そのまま人数を納めてしまっては、口惜しいので、五日でも十日でも詰めていようと、残り続けるつもりでいたとはいえ、後手の備えが危ぶまれるので、早々に引き返すべきであると、(軍監の)仁中・三出がしきりに催促したこと、某は若輩の身であるので、方々の御意見に任せ、翌日に燕倉へ引き返したこと、このうえの予定は、黒川俣・燕倉・中次の三ヶ所の普請を極め、藤懸へ進陣するべきと考えていること、申すまでもないとはいえ、御番手の衆を引き上げさせず、御配置を続けられるように、御取り成しを仰ぐところであること、兼ねてまた、私領の者共の所納については、秋中に藤懸へ一物も納めていないので、某においてはどうしようもないこと、以前に退散した者共を、扶持するのは無理であること、万事に困り果てていること、在所に居ながら、このように申すのは憚り千万ではあるも、当昨今までは御台飯(支給米)を申し請けていたので、このたびもまた申し請けたいこと、(輝虎)の御意を図られて、御調えを給いたいこと、つまりは頼み入ること、万事がめでたく調った折に、重ねて申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』644号「山孫・直大・鯵清 御陣所」宛「大三 長」書状)。


21日、旗本の岩井備中守昌能(もとは信濃衆の高梨氏の族臣であった)へ宛てて朱印状を発し、青陽(新年)の嘉慶として、太刀一腰が到来し、悦に入ったこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』965号「岩井備中守殿」宛上杉「旱虎」書状【印文「量円」】)。


当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は年次未詳としているが、今福匡氏の「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究』第502号 歴研)に従い、当年に発給された文書として引用した。



〔越・相一和の交渉〕

正月2日、相州北条氏康(相模守)から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城衆である松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて書状が発せられ、これまでの経緯を省みることなく一翰を染めた意趣は、このたび息氏邦(藤田新太郎氏邦。氏康の五男。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)を通じて越・相一和の件を申し届けたところ、懇切な回答に預かり、本望の極みであること、相・甲両国が題目に及んだのは、(甲州)武田信玄と多年にわたって(相州北条)氏政は入魂の間柄にあり、事あるごとに誓詞を取り交わしておきながら、突如として一方的に断ち切ると、旧冬13日に謂れもなく駿府へ乱入し、(駿州)今川氏真はそれに対する準備はしておらず、時に至って手の者を失われたので、遠州懸川(佐野郡)の地へ移られたこと、愚老の息女(氏真室)は乗り物を求めても得られない有様で、この恥辱は雪ぎ難いこと、とりわけ、今川家を断絶させてしまうのは嘆かわしい次第であること、今この時に越(越後国上杉家)を頼み入る所存に、(相州北条)父子は共に落着しており、されば、三ヶ条の筋目を承るに任せ、証文をもって申し届けること、(氏政らが駿州に出張っているため)愚老(氏康)は当地(相府小田原)に在城しているので、まず申し上げること、願わくば越の合意が得られるように、各々の奔走を願うところであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』636号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・上野中務少輔(丞)殿 御宿所」宛北条「左京太夫(ママ)氏康」書状写)。

一方、別枠の交渉編成で和平を申し入れてきた北条源三氏照(氏康の三男。武蔵国多西郡の滝山領を管轄する。同滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)と厩橋北条丹後守高広(相州北条家に他国衆として属する。もとは越後国上杉家の譜代家臣。上野国群馬郡の厩橋城主)からの交渉依頼を無視していたところ、7日、再び北条源三氏照(下総国在陣中)から書状が発せられ、重ねて使僧を企てたこと、先日は、不躾極まるとはいえ、愚存を申し達したこと、遠境といい、深雪の時分により、(使者が越府へ)参着したのか計り難いので、幾通りも申し届けたこと、参着したのか、どうなのか心配であること、もとより、先書で露わにした通り、駿・甲・相三ヶ国は親子兄弟同前の間柄であったところ、国を奪うのを強く望む一理をもって、信玄は駿州へ乱入し、今川殿は駿府で敗北すると、遠州懸川の城へ移られたこと、当方からは三百余人を加勢(伊豆衆の清水新七郎(家老の清水太郎左衛門尉康英の世子)・小田原衆の板部岡右衛門尉康雄・諸足軽衆の大藤式部丞政信ら)を差し越されたので、彼の城においては、まず堅固であること、信玄から当方へ申し越された通りは、このたびの(甲・駿の)手切れは、数年にわたって今川殿が、駿(駿州今川家)と越(越後国上杉家)で示し合わせて信玄の滅亡を企てていたのは歴然であること、そうしているうちに、信・越国境が深雪に閉ざされ、人馬が通れない折に、駿州の統治に取り掛かったこと、この一理をもって、戦陣を催したとのこと、そういうわけで、今般に当方と御一味あり、信玄に対する積年の鬱憤を晴らされるのを、仰ぐところであること、御同意については、早々の御知らせを待ち入ること、手立ての模様を、それから申し合わせたいこと、一向に御存分が計り難いので、まずは愚存ばかりを申し上げたところを、(輝虎の)御意を得たいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』637号「越府江」宛「北条源三氏照」書状)。

同日、北条氏照から、越後国上杉家の年寄である直江大和守政綱へ宛てて、初信となる書状が発せられ、これまで申し交わしてこなかったとはいえ、申し上げること、もとより、駿・甲・相三ヶ国は不離の間柄であったところ、駿・越両国が手を結び、信玄の滅亡を企てられたとの言い掛かりを付けられ、このたび駿州に向かって信玄は戦陣を催されたこと、この時こそは、二心なく貴国と当国は御一味あり、(信玄に対する)積年の鬱憤を晴らされる以外にほかないこと、御同意が得られるにおいては、当方(相州北条家)の側では、(氏照が)力の及ぶ限り奔走するので、貴国(越後国上杉家)においては、其方(直江政綱)の御取り成しが適当であること、前々の筋目、またこのたび先だって申し入れた族がいるといっても、氏照は思い詰め、このように申し届けるからには、万障を排して、拙者(氏照)に馳走を任せられるならば、本望であること、ひとえに(直江)を頼み入る以外にほかないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』638号「直江太和守殿」宛北条「氏照」書状)。


16日、相州北条家の他国衆である由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)から、越後国上杉家の年寄である河田豊前守長親へ宛てて書状が発せられ、あらためて申し上げること、もとより、一両年は、(由良成繁は)侫人の所行をもって、(輝虎から)進退を御覧じ捨てられた(見捨てられた)ので、どうにもしようがなく、小田原(相州北条家)へ申し合わせたので、(越後国上杉家とは)音問が途絶えたこと、されば、駿・甲が思いがけず不和となり、すでに甲から駿(駿河国)へ乱入したこと、駿・甲・相は長年にわたって鼎の三足のような相談をされてきたところに、今川氏真が越府(越後国上杉家)へ内通したとして、甲から(駿へ)不慮に攻め込まれたこと、駿府は戦備の用意がなかったゆえ、遠州懸川へ移られたこと、相府(相州北条家)の態度は、誓約の筋目を曲げられず、氏真を引き立てるため、御申し置きあり、豆州三嶋(田方郡)に向かって張陣し、駿州内の蒲原(庵原郡)・興国寺・長久保(ともに駿東郡)・吉原(富士郡)をはじめとして、豆・相の衆が堅持されていること、そのうえで、年来の是非をなげうたれ、(相府は)越府と一味あり、信玄へ鬱憤を散じられたいとのつもりをもって、昨冬に由(由良)を通じて在城衆の方(沼田在城衆)へ内儀を申し入れられたところ、(在城衆の)松石(松本石見守景繁)と河伯(河田伯耆守重親)から使いをもって(越府へ)御申し立てられたとのこと、両所(松本・河田)から筋目を承ったにより、重ねて由(由良)から(相府の)直札をもって申し入れられること、適宜に御申し調えられるのが肝心であること、時宜に適った御入眼を遂げて、信・甲に向かい、積年の御無念を散じられるのは、今この時であること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』643号「河豊 御宿所」宛「由信 成繁」書状写)。



20日、上野国沼田(倉内)城の城将である松本石見守景繁が、取次の山吉豊守へ宛てて書状を発し、重ねて申し達すること、よって、年内に適切な便札をもって足利(相州北条陣営の足利(館林)長尾但馬守景長。上野国邑楽郡の館林城を本拠とする関東長尾一族)へ申し届け、 上さま(輝虎)の御見当では当年中に御吉事(越・相一和)を遂げたいと申し届けたこと、(それは)一段と適切であること、ここの文言に御座あるので、詳しくは申し達さないこと、(輝虎へ)このところを適切な御披露を願うところであること、万事めでたく(使者の)口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、種々様々、御吉事を重ねて申し承りたいこと、早々に御返報が御調えるのを待ち入ること、これは南方(相州北条家)へ御使いの御返事を入れるためであること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』869号「山吉殿 参御陣所」宛「松石 景繁」書状)。


当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』等は永禄13年に置いているが、受給者の松本景繁は前年の11月に小木松本氏の当主の座を退いており、松本景繁が上野国沼田城の城将として越・相一和の交渉に関与していた当年の発給文書となろう。



27日、遠江国懸川城に拠っている今川氏真から書状が発せられ、昨冬に便宜をもって申し届けたこと、参着したかどうか、もとより、相・甲両軍の弓矢は僅かに小河を挟んで対陣していること、そうしている間に、氏真も近日中に出張致す所存であること、越・相の御間はそれ以来どうなっているのか、耳に入らず、案じ入るばかりであること、願わくば、一途に相談されて、一日も早く信州に向かって御出張を仰ぐところであること、委細は使僧の賀首座(善得寺茄首座)の口上に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』647号「上杉弾正少弼殿」宛今川「氏真」書状写)。



この間、敵対関係にあり、駿府に在陣している甲州武田信玄(徳栄軒)は、遠江国懸川城を攻囲中の三州徳川家康(三河守)から、秋山伯耆守虎繁(譜代衆。信濃国大島城代)の率いる甲州武田軍の別働隊が遠州に進出したことへの抗議が寄せられると、正月8日、徳川家康へ宛てて書状を発し、このたび使者に預かり、祝着であること、されば、信玄の存分は山岡(半左衛門尉。家康の旗本)の口上に附与すること、この紙面での重説を避けること、聞くところでは、秋山伯耆守以下の信州衆(下伊奈衆)が、その表に在陣し、これにより、(当方が)遠州の奪取を強く望んでいるかのように、御疑心があるとのこと、つまりは早々に秋山をはじめとする下伊奈衆を当陣へ引き上げさせること、なお、取り急ぎ懸川の落居を遂げられるべきこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1350号「徳川殿」宛武田「信玄」書状写)。

9日、濃(尾)織田信長へ宛てて書状を発し、先日は使者をもって申し届けたところ、様々な御入魂を給わり、殊に懇答を寄せられたのは祝着であること、もとより、図らずも当国(駿河国)へ出馬したところ、一戦に及ばず今川氏真は敗北し、懸河に至って籠城したので、とりもなおさず、彼の地へ詰め寄せ、決着をつけるつもりでいたとはいえ、三州衆(三州徳川家康)が出張し、どのような存分であろうか、当方へ疑心があるようなので、自制して、今もって当府(駿府)に留まっており、これらの趣を申し述べるため、市川十郎右衛門尉(直参衆)を差し越したこと、よって、彼の口上に附与した旨を、同意してもらえれば、本懐であること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1351号「織田弾正忠殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国人名辞典』(吉川弘文館)

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